日々旁午

2005


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 すいません、隔日旁午になっちゃっています。勉強会報告の続きです。「議論のたたき台としての講義」の終了後、少し休憩をとり、答申輪読に進めました。「当面の教育課程答申」のつづきを読みました。

 そこでは、やはり、「確かな学力」とはなにか、答申の定義を基本ラインにおきつつも、いわば「私の考える『確かな学力』とはなにか」を参加者個々人が形成する立場にたって発言が飛びかいました。答申では、子どもに求められるべき学力の考え方について、コンセンサスがないことを問題としています。そこで、教育行政、地方教育行政、学校、家庭そのほか教育関係の学者の方々の「学力」とはなにかという認識をもちよって統一しようとしています。

 学力とは単に知識の量ととらえるのか、思考力や判断力なのか、学ぶ意欲も学力といえるのか、そうした個々まちまちな学力論が現在の学校を苦しめているといえるようです。

 なかでも「学習意欲の向上」は、この答申が発表された時点での最大の教育課題であって、児童生徒の生活そのものと密接した学力をどうしたら身に付けられるかという議論と絡まりあい、平成10年に出発した総合学習を学びへの動機付けの時間としてとらえようとしています。そして、この考え方が生涯学習につながっています。学校が生涯学習の基礎的部分になりうるのかどうかも、ひょっとすれば再々検討するべきかもしれません。

 本当に人間は「学びが好き」なのでしょうか。一生勉強していこうとする精神は崇高なものであり、理想として申し分ないものです。しかしさまざまな考え方をもち個として行動する人間、すべての義務教育受益者が、生涯学習的価値にひれ伏すとは「現実」をみない議論なのかもしれません。いいか悪いかといえば「学ぼうとしない」のは悪いに決まっています。ただ「勉強が好き」と本気でいえる児童生徒が学校にどれくらい存在しているのでしょうか。ひとのいわゆる「目標」や「成功」が何処に設定されるかで、「学び」に対する価値観も相当変わるはずでしょう。それをすべて一元化する企てを国家は遂行できるのか、これはわかりません。

 ところで2年前のこの答申が、世に与えたインパクトは大変強かったですね。従来の学習指導要領の見直し期間を半分に縮めたからです。では、90年代以降のごたごたを整序する決定打的答申となったかどうか。それはそうではなかった。まさに「当面」にかぎっての彌縫策的答申であったので、いまもまだその火種がくすぶりつづけているのです。してみると、「当面」と冠したのは中教審の「大きな作戦」だったと理解せざるをえませんね。もう少し先に抜本的なものを出そうという…。

 また本日の更新においても、討論の紹介に至りませんでした。また明日にいたします。(3/9)

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 昨日は更新なく、楽しみにしてくださっている方々、失礼いたしました。急に仕事が日曜にはいったものですから、でずっぱりで、更新する時間をみつけられませんでした。

 さて、勉強会の報告です。土曜日は、男性6名、女性8名の計14名の方の参加をいただきました。講義、答申輪読、討論ともに、多様なご意見を活発にいただき、非常に刺激的な時間となりました。

 まず、「議論のたたき台としての講義」では、生活科と総合学習の意義を再検討することからはじまりました。そこでは、参加者が講師としてどのような取り組みをされているのか報告があり、生活科や総合学習の実態が浮き彫りにされました。残念ながら、ワタクシも含め、社会人の参加者や学生の参加者は、生活科や総合の実態をあまりよく把握しておりません。そこに「現場の声」をいただいて、想像を豊かにしつつ生活科や総合の実態をおぼろげながら輪郭を描けたことが利点ではなかったかと思われます。面白かったのは、神戸市と大阪府、奈良県の取り組み方が全然違うということでした。その違いを確認できたことが、そしてそこからイロイロ考えられたことが、講師の参加者にとってのメリットではなかったでしょうか。地域によって生活や総合に対する力点のおき方も違っており、非常に興味深い議論の出し合いになりました。

 小学生のママさん参加者の立場からの報告もあり、つまり、義務教育受益者からの見方もでてきて問題点、利点の検討が広がりました。さすがにそれはパーソナルな発言ですので、ここではいえません。

 しかし、みなさんからの報告を総合していえるのは、生活や総合の存在意義が薄れているということです。もちろん「春みつけ」や「秋みつけ」は行事的に行なわれますし、「学校探検」も実施されているようです。しかし、それらは単発的にあるだけで、長期的な計画にたった学びが成立していないようです。そして、生活や総合が、他の行事の準備時間に充てられるようにもなっている。すなわち、「道徳の時間」が本来の使い方をされずに実力テストに代替されたり、席替えの時間になったりするのと同じように、生活科の教科としての意義が見失われているのです。

 これでは、「確かな学力」を身に付けるべく教科指導の力量で採用された教員は、力を発揮していないといわなければならないのではないでしょうか。小学校全科で採用されたかぎり、生活科もワタクシたちは充実させていかなければなりません。

 このほか、講義から発展的に議論されたのは、とりわけ生活科の意味を考えることでした。上の議論と違うのは、就学前教育と小学校低学年教育とのつながりにどのような問題点があるのかでした。そこで、就学前教育の2系統の違いが報告され、幼稚園卒園者と保育所出身者では、小学校にはいってからのなじみ方がかなり違うことがわかりました。この接続の仕方が児童の成長を左右することになるようです。現在の自由保育は、小学校の学習環境に無理なく接続するのに「無理」があるようです。

 このことはもう5年くらい前からの懸案でした。子どもがすみやかに小学校における学習にはいっていけるかどうかは大問題です。ちゃんと座って授業を受けられるかどうか、そうしたことは学習の大前提で、「お行儀よく先生のお話を聞けるようにする」べく就学前教育が機能していなければ、目もあてられません。

 だからこその生活科設置だったのですけれど、それが崩壊している。「春みつけ」で郊外に土筆の芽を探索しにいっている低学年児童は、地域の方から「遊んでるやないか」と批判される…。これでは地域との連携がうまくいくはずがない。学校の実施することを地域がずべて知ることはできません。しかし、地域がそれを知ろうとする意欲がなければ、これまたいくらよい試みを実践しようとしてもうまくいきません。

 さて、本日は長くなりました。答申輪読においてみなさんから提示された議論、および集団活動についての討論の様子は、明日、報告するといたします。(3/7)

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 本日は、勉強会の開催日です。参加されるみなさま、よろしくお願いいたします。討論のテーマは、集団活動関係です。ところで本日は、これ(昨年のものです)を見ておりますので、以上のお知らせだけにいたします。(3/5)

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 銀幕の世界において、リチャード・ギアやハリソン・フォードが君臨していた時代に陰りがでて、ブラッド・ピットやデカプリオが青春映画の第一線に登場して久しい。青春を演ずる俳優が入れ替わるのが当然のように、日本経済を舞台とした主役も交代のときを迎えている。

 3兆円男堤氏の去り方にはヒドイものがある、というのが大方の見方であろう。讀賣が伝えるに、「東京・原宿のコクドのビルにある会長室を拠点に、ヘリコプターで全国を飛び回り、自分が手掛けた施設を視察していたが、ホテルの売店の陳列方法やカーテンの種類など細かい点に注文を付けることも多かった。グループ元幹部は「すぐ『クビだ』とどなるため、怖くて意見などできなかった」と話し、側近すら直接会うのを避けるほどだった」そうである。ワンダーランド豊島園の社長はじめ身内から専制君主であるといわれるのだから、ワンマンぶりはすごかったのであろう。すぐクビとどなるのもいただけない。西武鉄道の前社長が自殺するほど事件は混迷し、堤氏の逮捕にもなった。実刑が予想され、最悪の幕引きである。インサイダー取り引きは罪が重い。こっちも罪ではあろうが…。せめても偽装名義を公表したのが救われる。

 芸術的と評されるように、彼の意図的赤字経営は徹底していた。それは、税制の網の目を抜けた合法的手法であった。だが、企業としての社会的貢献度が低かったことを後世の経済史家は達筆をもって残すことであろう。

 一方、新しき血は、これまた多分に漏れず権力意欲まんまんの男である。その馬力、その機動力は、「マードック氏はメディアコングロマリットのドンだが、私はメディアとITと金融界のコングロマリットのドンになりたい」(『毎日新聞』)といわしめるほどである。ホリエモンこと堀江氏は、時代の寵児として、銀幕の舞台に現れ、ほとんど下積みなく主役の座を射とめんとしているというといい過ぎか。だが、そのように捉えている年配の方がいるのも事実である。歯切れのよい話し振りは、講演会を満杯にさせる。彼の話を聞くために、高いチケットを購入してもいいと考える若者がかなりの数存在する。彼には彼の魅力がある。

 問題は、株式公開買い付けが守られているかどうかであろう。時間外取り引きは盲点的あるいはゲリラ的買い付けたること疑いない。売り手と買い手が存在してはじめて売買成立するのだから、相当の売り手が時間外にうろうろしていたことであろう。掟破りの取り引きだとしても、証券取引法を遵守しているかぎり問題ない。だが、そうともいえない疑惑はある。アウトオブタイムにおけるもう一匹のデーモンが、ホリエモン以外に徘徊していた可能性はきわめて高い。

 ホリエモンの手腕が堤氏に似ているかどうか。証券取引法を潜り抜けられなかったものと微妙に潜り抜けたものとの違い。堤氏が30歳のとき、こんな方法をとっただろうか。生い立ちも違うし、比較できるわけないが面白い空想だと思っている。(3/4)

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 仲間由紀恵が呼んでいるから、確定申告にいってきた。サラリーマン諸氏にはほとんど無縁の作業であろう。

 ワタクシにとっては、年中行事であるから、もう手慣れたものである。源泉徴収票や領収書類を整理し、必要経費の額の算出をする。そこに控除額を引いて、定率減税を引いて、税額を算出するため、ケータイを電卓にし数字を出す。

 この作業、必要書類が多ければ、数時間かかるのだが、ワタクシなどは1時間あればOKである。で、自転車に乗って税務署にいく。到着してから自分でもう一度チェックし直す。すると、そうだそうだ、嫁の年金控除を忘れていた。ウミガメの夢をたたきつぶす嫁だが、こういうときは還付金が増えるのでよし。

 定率減税の恩恵を受けるのも、もう後何年なのであろうか。2割といえど、大きい。自民党は簡単にこれを止めるといい、税制調査会では粛々と規定路線の議論を進めているのであろう。いま、日本は景気回復局面にあるといわれている。それゆえ止めるというのである。しかし、市井の人にとってはそう映らない。ワタクシもそのひとりである。

 だから、この時期になると、経済のことをよく考える。マクロにも、ミクロにも。沈没しそうでなかなかしないのが日本丸なのだろう。不沈母艦とはさらされいえないが、イカダでもない。さしずめ大型漁船といったところか。こんなふうに考えるのは、申告納税制度下の人間だけだろう。税金は、確かにワタクシたちの生活の様々なところに役立てられている。その一方で、憤懣やるかたなしの使途もある。サラリーマンの源泉をやめれば、もっとタックスペイヤーとしての権利感覚が市中にあふれるだろうのに。企業の経理課も規模縮小まちがいない。毎年思う感慨である。(3/3)

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 政治圧力と放送の自主性をめぐってのNHKと朝日新聞との対立は、何処へいったのであろうか。この問題が、ラグビーの試合の放映をめぐる問題にまで陰を落したのは記憶に新しい。審判の黄色いジャージに青字で「朝日新聞」とデカデカ広告され、それが放映されるのはマズイから、深夜であるにもかかわらず、NHKが試合放送をおじゃんにした件である。

 試合をしている選手や放映を楽しみにしていた視聴者に罪はないのに、悲しい放送中止であった。しかし病根がわかっていただけに、その復活劇のはやかったのが救いであった。

 “公共”放送への政治権力の介入が、朝日の記者の力によって赤裸々になったとワタクシは感じている。政治圧力をかけたととられかねない行為を安部氏や中川氏はやったのであるから、電波の公共性を政治家が云々するのは自家撞着だろう。

 ライブドアに対して政治家が容喙するのは理が通らない。

 堀江氏の強烈な個性がテレビに映り過ぎ、NHKと朝日の対立がすっ飛んでしまった。放送界をめぐる大きな問題が、棚上げされたような気がしているのはワタクシだけであろうか。

 電波の公共性をめぐる議論をするのなら、政界、財界、放送界を横断する包括的な判断が求められよう。前の総務大臣や財界のお偉いさんは堂々とインタヴューに受け答えし、それが茶の間に届いている一方で、ライブドア対フジサンケイグループの対立について安倍氏のコメントが「ほっとんどない」のは不自然といわなければならない。

 それが政治家の保身術といえばいえもするが、次期あるいは次々期総理と目される安倍氏の立場から、なんらのコメントもないのは、政界の体質を代表しているようで、お寒い。

 ところでラガーマンにして産経新聞出身の森元首相もまた、その微妙な立場から沈黙を守っているような気配である。これまた不思議。日本体育協会の次期会長にもなるようだし、動けないし動かないのだろう。

 NHKと朝日とラグビーと放送とライブドアと政治家――そこになにが求められているのか。それは、清廉なスポーツマンシップにほかならない。

 徳島のこくばん設置、もう少しお待ちください。ご迷惑おかけします。(3/2)

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 この文書をすべて読む必要はないけれども、この会議の成し遂げてきたことは重要である。なかでもワタクシたちと関わって重要なのは、教育特区の規制緩和事業である。教育特区については、教採受験生ならすでに誰でも知っている。例の株式会社の教育事業への参入許可である。教育改革国民会議といかなる関係にあるのか、その説明は難しいが、この総合規制改革会議が教育特区成立を主導してきた所以もご存じのことであろう。しかしこれがまた東京リーガルマインド大学のしでかしたような、新たな火種をも生んでいる。つまり指定管理者制度の難しさというべきか。

 総合規制改革会議は、平成16年3月廃止され、規制改革・民間開放推進会議に衣替えされ、現在に至っている。

 ところでワタクシがもう少し詳細に改めて総合規制改革会議をみてみようと思ったのは、教育的な問題関心からではない。総合規制改革が社会生活のどのような部門を溶かし、行政の肩がわりをするのかを改めて調べたかったからである。そして、ワタクシの主たる問題関心は、「車検制度」の規制緩和と、「駐車違反取締り民間業務委託」にあった。最近、ユーザー車検をして、店に頼むより34000円安く仕上げたことが、個人としてはいいのだけれど、資本主義社会としてはどうなんだろうかと疑問をもったからである。

 車の車検は継続の場合、現行2年だろう。それが3年になるようである。それが果たして日本の経済発展にメリットがあるのかどうか。3年になると、いまの車検請負整備工場の仕事が確実に減る。1台あたり10000円契約、10台請負するとすれば、6年間ではどうなるか。6年間は2年の3倍。だから30万円になる。それが、3年車検だと、20万円にしかならない。これは業者にとって死活問題なのではなかろうか。現代の車は、三菱を除いて、ほとんど問題なく動く。消耗品を別にすれば新車取得車検期間5年でも、大丈夫だろう。国産の車はきわめて優秀なのである。優秀な車を作れば作るほど、売れなくなる。破れない靴下をつくったら、だれが2足目を買うだろうか。車検も長期になればランニングコストも抑えられる。一体、車業界では、だれが泣くのだろうか。

 一方の「駐車違反取締り民間業務委託」。これは行政制裁金の議論とからまって、相当実現不可能だろうとふんでいたのだけれど、これまたアッサリ緩和されそうである。興味があれば、こちらの少し長い文章を参照されたらいい。そこでは、予防線のように、「最後、長くなりまして恐縮でございますが、ただ、マスコミの反応といいましょうか、新聞紙上に見る国民の方々の反応はいかがということになりますと、それは最後、4枚程度持ってまいりました。『駐車違反摘発の民間委託に疑問』。公平な摘発ができるんですか。暴力団関係者から圧力を受けた場合にも、きちんと対処できるかどうかも心配です。というような話。警察と民間業者の結び付きが強まり、警察官の天下りの温床などと云々というような御意見もある」と開陳されている。

 警備会社の目の色が変わっている。それはそうだろう、千載一遇のチャンス到来なのだから。

 民間開放とは美名だが、はたして事はそう簡単なものなのかどうか。ただ、多様な開放してほしいという声がここに届いてきており、それを見るだけでも社会の方向性がわかったような気がする。たとえば、愛知万博開催期間中における訪日韓国人観光客のビザを省略しようというのも、この会議の件案である。

 日本社会も、ちょっとづつ動いているものなんだな。(3/1)

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