日々旁午

2006


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総合学習カオナシ論のつづきを書こう。

 この時間によって児童生徒が身に付く学力とはなにか。それを公式的に答えるとすれば、「生きる力」となる。だから、問題は、この「生きる力」の中身はなんぞや、ということになる。文科省の定義した「自ら学び」云々は、それを読めば、なんとなくわかった気を起こさせるものであるが、突き詰めていけばよくわからないのである。いまでは保険会社の商品名にも使われる。

 総合学習が設定されていなかったワタクシ世代の人間であっても、自ら考えていたし、自ら学んでいた。そして、問題解決能力を身に付けるためにがんばっていたんじゃないか。ワタクシ世代を教えてくださった先生方は、「生きる力」という言葉がないだけで、そうした学力を教科教育を通し自覚を持って教えていたのではないのだろうか。だから新たに総合を設けて、新たに「生きる力」を養うという筋書きは、間違っていると思われる。従来教科でも思考力や判断力、創造力を養うために学んでいたはずであり、いまでもそうした意図を持って児童生徒は教科を学んでいるはずである。

 もともと「ゆとり教育」を掛け声に授業時数が削減され、各教科から数十時間づつもらって作られた総合学習である。こうして「総合的に」設置された総合学習は、「教科」ではなく「教育領域」のひとつであるとワタクシは理解している。なぜなら、学習指導要領の第2章に総合学習の時間についての説明があるわけではなく、「総則」にあるからである。扱いは「道徳」と同じである。だからといって、総合学習自身のめざすべき学力を、「生きる力」というような、教科教育でも育成可能な学力でもあるにもかかわらず、ファジーな表現で規定したのはおかしいだろう。まっこと、この辺の規定からして、総合学習はカオナシである。

 ところで、大方の保護者にあっては、総合学習が教科なのか教科でないのかもわかっていないのではないか。なにしろ授業時間割にあるのだから。保護者は教科だと捉えているから、苦しむのではないか。昨日も書いたように、総合学習を実施するにあたって、文科省にせよ、中教審にせよ、「これだっ」という明快な学力を提示しなかった罪は、重い。そのうち文科省は、総合は教科じゃないよ、といいだすのではなかろうか。それが怖い。教科じゃないよと宣言することは、総合学習そのものの存在意義を打ち消す事態に発展するからである。教科じゃないといってしまうと児童生徒は総合学習に真剣に取り組まなくなる。文科省は信頼を失うであろう。だからといって教科といい張ることも難しい。にっちもさっちもいかない状態である。

 三浦朱門のいい放った、「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうしようもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです」(斉藤貴男『機会不平等』文芸春秋)の言葉に登場する「限りなくできない非才、無才」のため、学校でどういうように時間をつぶすか理由をつけるために、総合学習というお遊戯の時間が設けられたのではないかとすら想像してしまうのである。奉仕活動の必修化は、「実直な精神」の育成ではないだろうか。

 土曜は休み、平日は総合があり、児童生徒は「ゆとり」を謳歌しているのかといえばそうでもない。土曜は塾、平日の総合では「うぜぇなあ」の感覚を持ちながら参加しているのが実体ではないのか。小学校では、そうでないかもしれないが、中学校ではそういう生徒が多いだろう。高校になると、その感覚がもっと強くなるに違いない。なぜなら、大学進学にあたって、自分が受験するのに必要とする教科は必死にやるけれども、それ以外の教科をお留守にする生徒が多いように、総合で学ぶことが受験に役立たないならば、誰が力を入れるだろうか、と考えるからである。

 総合学習カオナシは、自分を受け入れてくれる学校を彷徨うことになる。ユバーバかゼニーバか忘れてしまったけれども、受け入れてくれそうなところは1軒くらいしかなさそうである。しかも片道キップで行く場所である。総合学習から一端手を引いた学校は、二度と総合学習を実施しないだろう。総合学習をよしと認め、引き受けた学校は、総合学習ばかりするようにならないだろうか。

 『朝日新聞』が「選ばれる学校」をシリーズとして掲載している。「上位校は学力で?」の表題は、学力重視の現実を容赦なく指摘している。こちらの記事はもっと直截である。「土曜日には部活のない日も設けて自習室も開き、夏季講習は100講座と予備校並みだ。英語では、3年間で75冊の副読本を読ませている」学校に入学させたいと願う保護者は、ごく普通の、健全な感覚を持っている。「九州では、定員割れに直面した公立高で進学実績を上げる動きが目立つ。鹿児島県教委は05年度、鹿児島市以外の公立高を対象に『学力向上推進総合プラン』(約1200万円)を始めた。13高校を『進学指導推進校』に指定している」ほど、学力重視の方向に転換しているのである。「進学指導推進校」が、総合学習を尊重しているとは、どうしても思えないのである。

 「下位校は総合で?」というような記事が掲載されないことを念願するばかりである。
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やっぱり疑問に思うのは、総合的な学習の時間において児童生徒が身につける学力とはなにか、ということである。本当にこの時間において身に付けられる学力とはなんなのであろうか。「これだっ」と明快に説明できる学力があるのなら教えていただきたい。

 しかも、3年で環境、4年で福祉、5年で国際理解教育、6年で情報、といようにプログラムを組んだところで、演劇の出し物が違うのと同じようなことではないのだろうか。3年で情報をして6年で環境をやったとしても、別によい話であるし、学年が進むにつれて、「総合学習」的学力が重層的に身に付くものなのだろうか。

 あえて断定的ないい方をすれば、それはない、と思う。

 学習の結果として付くべき学力の内容がよくわからないのであるとすれば、それに意欲的に取り組む児童生徒は実際なんのためにするのかわからないだろうし、保護者は嫌がるだろう。目にみえて役に立つ学力じゃないと、総合なんてやっていても仕方がない、と認識される。総合=遊びの時間であると思われても仕方がない。

 いまは、もう、総合が、なんだかんだいっているうちに教育領域として認定され、教育課程に定着している。なんだか、ぬらりひょんというか、千と千尋の神隠しに登場した「ア、ウゥ」としかいわない怪物である「カオナシ」のような感じで、ぼんやりと「そこにある」時間のような気がするのである。

 過去、道徳の時間が学力テストのための時間に振り替えられたのと同じく、そのうち総合学習の時間も、なにか目にみえてわかるモノに振り替えられていくだろう。道徳なら週1だけど、総合はもっと時間が割かれているから、そのすべてをなにかに代替するのは難しいけれど、半分くらいは補習的学習や教科教育進度調整の時間となるのではなかろうか。もともと高校ではハナッからアテにしていない時間だったろう。

 とすれば、平成30年くらいの学習指導要領からは姿を消すと思われる。ワタクシの立場は総合学習には否定的なので、もし消えればありがたいと思っている。否定的なのは、上に書いたように、「よくわからない時間」だからである。なんでも呑み込む「カオナシ」のような時間は、児童生徒や先生をも呑み込むものである。

 総合学習の実施を墨守する学校は、教科教育の時間が相対的に減少するのでその学校に通う児童生徒の教科学力は相対的に低落する。進学準備にいそがしい学校では、総合は皆無になるだろう。そのかわり教科学力が向上する。保護者はどちらを求めるか。

 まして学校選択制が全国的になれば、総合学習など、お荷物以外のなにものでもなくなる。小学校の総合学習の時間に英語を実施するくらいなら、もう一気呵成に正統な教科として科目「英語」をした方がすっきりする。

 以上を、総合学習カオナシ論と呼ぼう。総合学習カオナシは、その結果として、黄金を千に渡す。しかしその黄金は見せかけの黄金である。そういう見せかけの学力ではないだろうか。結局、総合学習カオナシは、喰ったものをすべて吐き出す。そしてスーっと消えて見えなくなっていくのである。
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「クチナシ」⇒「カオナシ」に訂正いたしました。メールでご指摘いただきありがとうございました。

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昨日は、第76回当サイト教育学勉強会にご参加いただきありがとうございました。新しくご参加いただいたお2人を含め、満席の熱気溢れる中、ほどよい緊張感を保ちながら4時間を終えました。この緊張感がなによりも大切で、ビシッとしたところがないと、本番対策になりません。ただ、そういう雰囲気形成だけではいけないので、ワタクシお得意(?)の冗談を交えながら、みなさんの「あがりすぎ」をとったつもりでした。

 今回の勉強会には、遠くから現職の先生が駆けつけてくださいました。有益なコメントを参加者のみなさまに与えてくださいました。Y先生、ありがとうございました。

 今回は、「自己売り込みのツボ1分間ヴァージョン大会」でした。みなさん工夫を凝らした原稿を片手に、一所懸命発表されていました。どこの都道府県をお受けになるにしても、「最後に一言」とか、「自己PRしてください」とかいうのがありますよね。それに対して実践的に応えられるようまとめる、というのがこの「自己売り込み」の趣旨です。

 みなさん、ほぼ、うまくまとめていらっしゃいました。手厳しいこともいいましたけれども、それは、教育的愛情と思ってください。「だめ」と直言もしました。でも、ワタクシはワタクシのこの小さな勉強会に来てくださる諸君全員を教員にしたい。甘い言葉だけでは、真実の自分がみえないものです。

 ご参加のみなさんが受かるかどうかは、ワタクシの勝負なんです。大阪府教育委員会とワタクシの勝負なんです。だからこそ、「あかんもんはあかん」といわなければならない。半端な気持ちで受かるほど教採は甘いものではない、ということです。僭越ながら、みなさんを全国に教員として送り込んで、草の根で教育界をよりよい方向に変えていきたい。それがこのサイトの原動力になっています。

 評価のポイントは2側面です。ひとつは形式面。これは、声、姿勢、視線など、外見的なことに対する注意です。なかなかご参加のみなさんもシビアで、適切に注文をお互いにいいあっておりました。ひとりの発表に対して、対面にお座りの方2人に面接官役を引き受けていただく。そして、形式面を正面から指摘いただいたわけです。もちろんワタクシや面接官役以外の方からも随時指摘があります。「声が小さい」、「視点が定まっていない」、「話すスピードが速い」等々、人それぞれ違いがあります。それを比較考察するわけです。

 次に内容面。内容面は、そのとおり内容に問題があるか、ないか、です。これはなかなか指摘が難しいものです。大前提は、自分のイイタイコトがちゃんと伝わるかどうかです。そしてその内容が語るに価値のあるものかどうか。この1分間に自分の人生がかかっている、と思えば、ほんと練りに練るものでしょう。今回の参加者の中には、原稿を作ってそれをソラでいえるようになるために何度も何度も、100回くらい練習したそうです。ストップウォッチを持って。あるいはお風呂に入って。内容面については、パーソナルな領域のことになりますので、こちらに書くことは控えます。

 自分自身を見つめ直すこと、これができるかどうかなんですよね、結局。自分の生きてきた20年、30年、40年を振り返り、そこで培ってきたモノを教員としての今後の人生にどのように生かせるか。まだみぬ学校で待っている児童生徒に、自分のどんな生き様をみせつけられるか。以前、「新しい時代の義務教育を創造する」の答申を検討しました。その際、「尊敬を得られる教員」が求められていると恥ずかしげもなく書いている答申だな、とコメントもし、ここにも書きました。尊敬は求めるものではなく、勝手に向こうからしてくるものです。だから、答申のいっていることは、おかしい。そんなことはいうまでもないことなんです。書く必要もない。

 豊かな人間性を備え、何か一つのことに打ち込んでいる姿は尊いし、ウツクシイ。それをみれば、児童生徒もなにか感じるものであると信じたいし、それをみせれば、教育者としての責任を半分やり遂げているといえるのではないでしょうか。

 自分を見つめ直しながら、自分の生きてきた道で今後の教員生活に生かせるものを発見する作業です。それができて、それが伝えられて、「いい先生だなぁ」と児童生徒に将来いわれれば、これほどウレシイことはないじゃないか。

 ある先生がおっしゃっていたように、「自治体は生涯賃金2億円を払う覚悟で選抜している」というのは本当です。ご自身が、2億円もらえるような、そういう力を蓄えているのかどうか、そういう自分を創っていただきたい。

 次の勉強会では、いつもの3分間自己売り込みのツボに戻ります。Iさん、がんばってくださいね。

 ところで、ところで、岡本太郎は「芸術は爆発だ」といいました。「体罰は教育だ」と某ヨットスクールの方がいってますけど、これ、どう考えるべきでしょうね。集団討論のテーマになりそうです。2人の人間を「殺めて」おきながらよくいえたものだと思っていますが…。それから、例の「『嫌い』を探る討論会」も、いつかやってみたいです。数学志望の先生の前で、数学ができなかったワタクシや苦手な参加者がいいたい放題いう。英語の先生志望者の前でも、英語ができない怨み辛みをいう。それを聞いて各教科志望者がどう感じるか、という途方もない試みです。でもこれはコーヒー会でした方がいいかもしれませんね。
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さきほど6日、20時45分に、体調不良によるキャンセルがありまして、あす、JR大阪近辺に13時からご参加可能な方、先着お一人ですが、勉強会に参加いただけます。よろしければ、上のお申し込みページからご連絡ください。お待ちしています。もちろん無料ご招待です。……6日、23時にお申し込みあり、確定いたしました。ありがとうございました。

 
みなさまにお知らせいたします。当サイト経由で自然科学勉強会を開催してまいりましたが、講師のメドがたたず、次回以降の開催は、やむなく中止することになりました。

 お申し込みいただきながら、まことに申し訳ないことなのですが、よろしくご理解のほど、お願い申し上げます。


 あすは、第76回当サイト主宰勉強会の開催日となります。週に2度開催しますとアナウンスばかりがつづき、申し訳ないです。あすは、自己売り込みのツボ1分間ヴァージョン大会となりますので、通常にやっております資料の検討、集団面接はいたしません。時間が余った場合に限り、集団討論をしようと思っておりますが、実施できない公算が大きいです。その点、初参加の方にはご迷惑をおかけしますが、ご案内にもずっと前から掲示していたことですし、ご理解ください。当日は、遠くから現職の先生が来てくださいます。イロイロとコメントいただけると思います。

 さて、前回勉強会における集団討論の模様を再現しましょう。

 今回のテーマは、「学力に関して、基礎基本の定着が大切であるといわれています。しかしできる子もいて、個人にみあった授業も求められる昨今です。みなさんはこの状況に関しどのような見通しをお持ちですか、議論してください」というものでした。このテーマに6名の方(A〜Fさん)がチャレンジしてくださいました。時間は20分です。

 まずCさんが、テーマを確認されつつ、教員は家庭教師ではなく40人(くらい)を対象に授業実践を進める存在であると述べられました。基礎基本の定着に力を注ぎすぎると「できる子」出てくるとテーマを理解し、そのときは発展的な学習でカバーするべきと発言されました。「可能性を持った子」をどのように指導するかが問題ですね。ただ、自分と違う意見にも気付く集団形成を進めたいと付け加えられました。Eさんは、Cさんのご意見を受け、かつご自身の講師経験から、児童生徒一人ひとりの理解力や理解のスピードには開きがあると実感されています。そのためにも授業研究をその開きに対応するよう検討し、基本的には一斉授業で落ちこぼさず「拾っていきたい」と述べられました。そしてその開きに具体的に対応するにはティームティーチングを活用するのも一手段であるとされ、先に進みたい児童生徒にはバージョンアップしたプリントを用意すると実践的ご意見です。

 Bさんは授業研究に関連し、教材についてコメントされました。教室には、いろんな児童生徒が存在する。どのように学習に対する意識付けをすればいいのかを考える。たとえば社会科は暗記教科として捉えられがちだけれども、「社会見学」というように、見学=体験学習と結びついた生きた知識の獲得をめざすべきであると発言されました。それは生活に密着した授業実践を求めるご意見であり、Bさんは、小道具を使った授業をやりたいと抱負を語ってくださいました。

 Dさんは、児童生徒には絶対に身に付けてほしいことがあると切り出されます。それは基礎基本の確実な定着ということですね。これを大前提とするがゆえに、Dさんは理解を確実なものとするべく小さなステップを設けて段階を確実に踏んだ授業をしたいと述べられました。また、集団構成員をすべて引き付ける授業研究をすると強調されました。

 Fさんは、従来の学校では集団教育を進める上で、学力的に中レベルの児童生徒に授業進行の視点を定めて進めていたと分析されました。

 Aさんは、いまの児童生徒には2パターンあるといわれます。というのは、塾へ通っていて「なんでも知っている子」と、「知っていない子」だそうです。「知っていない子」は、「もういいや」という気持ちになるのではないかと危惧されています。難しいのは、遅れがちな児童生徒にあわせるのもいいが、できる子にも手を打たなければならないことであると、テーマそのものの示すアポリアを表現を巧みにかえて指摘されています。ここになんらかの光をあてるご意見があればもっとよかったです。しかしそれは、現職の先生でも応え難い難問です。これができないから教育関係者全員が苦労しているわけですね。そうした意味では、このテーマを通して、いま、教育界・学校現場が悩んでいることを受験生に考えてもらおうということです。どんな考え方を受験生が持っているのかを探るといってもいいでしょう。

 この際、大切なのは、どの子も教育の可能性を持っている存在だということであり、「知っていない子」「『もういいや』という子」を救う姿勢を断固として決意することでしょう。たとえば、高校などでは、問題があればすぐに退学させればいいというような考え方もあるようですが、そういう考えの持ち主は教職に向いていないとワタクシは思っています。

 児童生徒をあずかるというのは、このテーマに即して考えてみた場合、能力別学級編成や習熟度別クラス編成を結果しそうですけれど、議論はどうなっていくのでしょうか、つづけて紹介します。

 討論参加者がそれぞれ意見を出しあい、1巡したところです。CさんはEさんの「実感」を自分のご経験から紹介されます。定時制の授業における学力格差を語ってくださいました。Eさんは、児童生徒は少しでも伸びたい気持ちを持っていると児童生徒観を持っておられる一方、授業を退屈に感じる子もでてくるのが現実であるといわれます。だから、児童生徒同士で教えあう時間をとって、互いにアクションある時間を共有することによってこの事態を切り抜けられるのではないかと提案されました。Fさんはこのご意見に賛成の立場から、人にモノを教える際、1のことを教えるには100のことを知っていないと教えられないとし、「わかっているつもり」を批判されます。教えあう教育活動を取り入れることによって、「過去にわかっていたつもりだったのを反省できる」契機になると強調されました。

 Aさんは、「クラス全体」ということを尊重するご意見を提供されました。算数の問題においてであれば、多様な解き方がある場合、それをどしどしいうよう児童生徒を指導する。そこから多面的なものの見方を共有するとのことです。Dさんも、退屈させない時間、密度の濃い時間をどう作るかに日々苦心されているようで、活気のある「空白の時間のない」授業をめざすと抱負を語られました。Bさんは、一斉授業において、できる子だけが活躍するのはいやだな、と述べられ、間違えた子を見下す雰囲気を作らないように注意すると、実践的な配慮を語られました。

 Aさんは、Bさんの発言を受け、「教室は『まちがい』の場所」であると意識しているといわれます。Eさんも同様であり、できる子は班活動においてがんばっている子を助けるなど、いろんなやり方があるといわれます。Dさんも、児童生徒同士の高めあいには賛成であり、児童生徒の自主性を尊重する授業の形態を考えると述べられました。Fさんはその具体策を調べ学習で代表させ説明されます。調べ学習は、グループ学習を活動形態として要請すると付け加えられました。

 ここでCさんは、学習指導要領のことを話題に出されました。現状の学習指導要領は、教育内容の「最低ライン」示しているものとのご認識で、100パーセント理解させるよう教員は要求されているといい、しかもできる子を退屈させてはならないのであるから、今までの議論で登場したように集団相互作用に期待するほかないとまとめられました。

 Fさんは、Bさんのご意見とも関連させつつ、たとえばいい作文を学級通信にのせたり、授業でいい意見をとりあげたりするのも担任の責任であるとされました。Aさんは時間の有効活用をあげられ、できる子がテスト終了後ボーっとしているようでは問題だとご意見されました。

 最後にFさんが「間違いノート」の作成について述べられたところでタイムアップ。

 もっと集団討論の状況を臨場感もってお伝えできればいいのですけれど、「過去形」表現が多く、難しいところです。まとめるのは大変です。意のあるところを汲みとってくださることを期待し、なにか刺激を受けられ、何らかの議論の種を見出してくださいね。

 さて、このテーマは学校現場でも常日頃から問題にされているものであり、その解決に頭を抱えているものですね。学力格差がでてきた教室は、しかし従来からあって、ワタクシもその中で教育経験を積んできました。ワタクシが無感覚であったのか、そんなに先生方が苦労されているとはつゆ知らず、自分が教える立場に立って、はじめて遭遇した難題でした。

 いままで、平均点のところに照準を定めて授業をしていたのが、一般的な学校の授業の在り方だったでしょう。それは教育における平等主義が「まだ」あったからだと考えます。いま、「学力に関して、基礎基本の定着が大切であるといわれ」、「できる子もいて、個人にみあった授業も求められる」という問題が浮上してきたのは、平等主義が教育の指導理念ではなくなりつつあり、できる子をどこまでも伸ばす式の選良主義が、あるいは「個に見合った授業」主義というべきものが教育現場を支配しつつあるからでしょう。この事態は、すなわち憲法の「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」が、どのように解釈されるのか、現場で試されている事態といえるでしょう。

 究極的にいえば、集団教育、一斉授業で個に応じるのには限界があります。これは理の当然で、一人ひとり個性が違うし能力が違うからです。それを無理やり平準化してきたのが歴史的に批判されているというわけですね。解決策は、能力別、理解度別学級編成や、討論にあったようにヴァージョンアップのプリントを用意するほかありません。根本的な解決策はないのです。

 学力の場面では個性が生かせなくても、他の場面たとえば部活などで活躍させればいいというのも、このテーマでは議論しにくいトピックです。教えあいはうまくいけばいいですが、児童生徒も互いに競争心が芽生え、受験が控える中3生くらいになれば、貸し渋る子もでてきます。だから、「一緒にやろうよ、教えあおうよ」との掛け声にも、「なんで?」という子も出てくる可能性がある。非常に世知辛い雰囲気がクラスに漂う。その意味では小中高の志望が微妙に意見に差異を与えることになります。

 結論は、ないのです。集団討論では、そこまで求めていませんし、求められるものでもない。リアリスティックにいえば、評価が教育につきものであるから、人間を差別化するのが教育であるのだから、究極的な解消策はないでしょう。

 ただ、教員は、理解度別学級編成で、「こだま、ひかり、のぞみ」と分けることには無感覚であってはならないと思います。現状、このシステムを取り入れている学校はありますけれども、このシステムは、「できなければ退学させればいい」という考え方につながるものであると捉えています。小中学校に留年制度を取り入れるべきかどうかの議論が「頓挫」しています。なぜなら、こういうことです。「教育的愛情」をどこまでも発揮するのが教員であるのであれば、留年制度を採用した場合に、児童生徒と教員との間の信頼関係が崩壊する危険性がある。そういうふうに文教政策担当者が危険性の一因をそこにを見出しているからでしょう。さらには、「落ちこぼし」との批判が噴出するのを恐れるためかもしれません。

 もう一つ、最後に理解度別、習熟度別編成についてです。たとえば「こだま、ひかり、のぞみ」と分けることに無感覚であってはならないのは、それが教員の心の濃やかさの問題であるからですが、それと同時に、もしそうした教員自身の濃やかさの喪失があったとして、その喪失の根拠を、児童生徒に押し付けてはならないという問題です。どういうことかというと、よく、「あの子が『こだま』のコースにはいったのは、あの子が自分で選んだからだ」というのがあります。これは欺瞞でしょう。「こだま」を選んだ責任を児童生徒に完璧に押し付ける議論です。教員の責任逃れあるいは苦しいことから目をそらす感覚としかいいようがない。「こだま」を選んだ子は、自分で劣等意識を自覚しなければならないし、それで先生は自分自身をエクスキューズしている。このエクスキューズが問題です。本当にそれでいいんだろうか。また、「こだま」には「こだま」のよさがあるで済ませられる問題なのでしょうか。

 先生方の心を軋ませるようなことを書きました。だが、児童生徒という存在が、まだ指導を必要とする「未熟な存在」として発達段階的に捉えておきながら、「こだま」を自覚的に選ばせる責任を、「ことばでなかなか自分のイイタイコトをいえない存在」である児童生徒に背負わせていいものであるのかどうか。

 個に見合った教育と個の切捨ては表裏一体というべきではないでしょうか。

 あすの勉強会、6名キャンセルが出ましたが、なんとか欠員1になりました。キャンセル待ちの方にもチャンスはあります。前日通知になりますが、キャンセル待ちのお申し込み、お待ちしております。

 さきほど6日20時過ぎにキャンセルがありまして、あす、大阪市内に13時からご参加可能な方、お一人ですが、勉強会に参加いただけます。上のお申し込みページからご連絡ください。

 あす、楽しみにしています。みなさん、イロイロ教えてくださいね。
(5/6)

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この憲法記念日は、第75回当サイト主宰勉強会の開催日でした。多数のご参加、ありがとうございました。今回は会場を淀屋橋に移しての開催でしたが、なかなかここは快適ですね。

 当日は、まず、大阪歴史文化問題を報告していただきました。大阪の建物について調べていただいた資料と、大阪府のシンボルについて調べていただいた資料とでした。ありがとうございました。試験に出る出ないに関わらず、大切なことですから勉強しておいて損はないです。こうした「豆知識」が役に立つときがきます。試験に出れば丸儲け、といった感じで受けとめてください。しかし、こうした小さな小さな積み重ねが、最後の最後に生きてくる。そんなものなのです。

 この報告検討の後、「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」の検討をいたしました。今回もあまり進まないながら、みなさんから活発な意見がでて、実りありました。朝の読書運動と絡んで、その現状報告や批判、さらに、家庭との接続関係、文化資本の違いなど、考えたいことがイッパイでした。ワタクシの書いたつたない解説文ですが、2パラグラフ進めたので、いいでしょう。答申やこうした資料は、読んで憶えるものではありません。そんなものは1年たたないうちに忘れます。そうではなくて、そこからなにを考えるか、これが大事。そうしたものは忘れずにみなさんの思考の糧として将来も残ります。「試験に出題されるからやる」なんてチマチマした考え方をせず、血の通った教職教養を獲得してください。今後も、みなさんが問題意識を発揮し、いろんなことを話題提供いただければ幸いです。

 つづいて、Mさんに自己売り込みのツボを実践していただきました。こちらもみなさんから形式面、内容面で、多様な批判が出ましたし、よかった〜の声も出ましたね。十分検討されてきて、この場で「自己売り込み」をいい切れていました。あとは、視線、挙動、強調点など、指摘されたところを直せば完璧ですよ。3分間、自分を語れるというのは、並大抵のことではありません。それを40の眼がある前でいい切れるのは、これまた並々大抵のことではありません。やってみてはじめて、その大変さがわかるというものです。20年、30年の人生を誠実に生きてきたのか、自分のやってきたことを、心を虚しくして坦懐に省察する。そうすれば本当にイイタイコトがみえてくる。

 次回の勉強会は、自己売り込み(1分間ヴァージョン)の報告会ですね。与えられた1分間で、どのように自己を表現できるか、どのようにいえば自治体が自分に興味を持ってくれるか。

 教採の試験だけではありませんけれども、ワタクシのやっております「自己売り込み」や自己アピールなどというものは、自分をいかにみつめることができるかではないでしょうか。いままでのキャリア、将来への展望、教育に賭ける情熱、そうしたものが滲み出るような1分間。そしてそれをにこやかに表現する態度、教室に響き渡る声を用いる1分間。7日の参加者に期待しています。

 集団討論の再現は、次回の更新時にいたしますね。GW後半、楽しみながら勉強しましょう。

 あっ、勉強会に参加せずとも、このページをご覧の方へ。ちゃんと毎日勉強してますか。「あすも授業」という講師の忙しさにかまけて、なんもやっていないんじゃないでしょうね。授業準備を理由に教職、一般、論作文、手を着けないなら、こりゃ重症。1日どれにも触れないとすれば、それじゃ、ダメです。思考が途切れるからです。意欲も途切れる。あなたもわかっているでしょう?努力しないで受かった人はいませんよ。あなたもやりなさい。
(5/5)←きょうは「こどもの日」じゃなくて「亀田の日」らしい…

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本日は、憲法記念日であり、第75回当サイト主宰勉強会の開催日です。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。

 本日は大阪歴史文化問題、答申資料検討、自己売り込みのツボ、集団討論、集団面接をいたします。大阪歴史文化問題報告担当のFさん、Hさん、よろしくお願いします。自己売り込みのツボ報告担当のMさん、がんばってくださいね。

 答申資料検討は、「読書推進計画」です。前回はたった2行しかできず、失礼しました。それでもみなさんからの活発なご意見が聞けてありがたかったです。

 集団討論のテーマは、教室で発表します。集団面接は、いつも時間がなくてスイマセン。本日は、少し多めに時間が取れるよう、進行に気をつけますね。

 水曜会もご参加申し込み多く、ウレシイかぎりです。6月28日、7月5日の水曜日も開催します。内容は未定ですけど、1次対応の問題を用意しようと検討中です。直前ですからね。それゆえ、集団討論は割愛し、集団面接しようと思っています。

 それでは、淀屋橋でお待ちしております。
(5/3)

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全国的に教員が足らないのか、といえば、そうかもしれない。この「足らない」というのは、「良質な教員」が足らないという意味である。京都新聞によれば、「京都府教委と京都市教委は『団塊世代』の大量退職に伴う新規採用教員の拡大に対応するため、他府県の大学での説明会を増やし、優秀な教員の獲得につなげようと躍起だ。市教委は初めて東京での説明会にも乗り出す」ようである。昔、東下り、今、東詣で、である。

 京都は採用にかかわり、「京都府教委と京都市教委は24日、来春の教員採用で、理数系などの教科で優れた知識や技術を持つ人材を獲得するため、特別免許状を活用し、教員免許を持たない社会人らに門戸を開く方針を発表」(『京都新聞』4月25日付け)したしね。

 「合格者のうち、府から特別免許状を交付されれば教諭として正式採用する。交付が認められなくても講師として採用し、5年間で教員免許を取得すれば正式採用する。特別免許状制度は1988年度に創設。2004年度までの16年間、全国の新規採用者約32万人に対し、149人(府内は3人)しか交付されていない」(『同上』)。ある意味、なりふり構わずといえる。

 でも、東京で説明会をしたところで、京都を受験する人たちが増えるかどうか。なぜなら、東京だって人材はほしいし、関東圏たとえば神奈川や横浜もほしいからである。わざわざ京都を受けにくるだろうか。受験のためにかかる費用も高い。たとえば、関東から関西の1次、2次試験を受け、合格するまでには、10万円はかかる。3往復に宿泊代すなわち新幹線往復25000円×3+宿泊費7000円×3+食事その他、だとそうなる。そこまでして、結局、関東圏の受験生が来るかどうか。ただ、そこまでしてでも受けに来る受験生に意欲が高い方がいるということはいえるだろう。

 だが、逆はある。どういうことかというと、関西から関東を受験するのは多いということである。それは、なぜなら、日程的に関東圏の受験日が関西圏より早いからである。そこで、関西の本命受験前に、予行演習的に関東圏を受験しに行くのである。このために上述の10万円を出す受験生は存在する。こうした意味からも、わざわざ関東の受験生が関西を受けに来るかというと、その率は低いと推測できよう。

 自治体は併願を嫌う。京都もそうだろう。上の事情からすると東からの受験生は、ほぼ100パーセント関西狙いだろう。練習試合ではないからである。そして、そうであるのに面接で、併願のことを聞く。「なんで京都を受けたのですか?他の自治体は受けているのですか?両方合格したら京都へ来てくれるんですか?」。受験生泣かせのこうした質問を平然とするだろう。関東まで「営業」するのなら、こうした質問は一切ないようにしていただきたいものである。この事情は大阪でも同じである。

 団塊世代の離職に伴い、苦しんでいる自治体は多く、大阪府もその一団体である。なにしろいびつな年齢構成の教員界では、若くてピチピチした教員がノドから手が出るほど欲しいのである。運動会で子どもといっしょに走ることができない教員が多数を占める大阪府である。走ることができればOKというわけではなかろうが、この理由は大きい。

 上の記事の続きにあるように、「団塊世代の補充で教員採用試験が全国的に『広き門』となる一方、優秀な人材獲得をめぐる自治体間競争が激化しており、両教委(京都府・京都市)とも『量を確保しなければ質も維持できない』と攻めの構え」をみせている。大阪と京都はシビアな獲得競争必死である。2次試験の倍率が3倍になるよう必死である。確かにこのぐらいの数字にならなければ、良質教員が獲得できないかもしれない。

 その際大切なのは、選抜基準であることはいうまでもない。京都はわからないけれど、大阪府の選考選抜基準は不透明であるし、なんだかいい加減という印象なのである。それは大阪市の先生方がよくご存知であろう。

 この際、大阪府は採用基準をオープンにすればどうか。たとえば、ペーパー試験の比率がどのくらいであるのか、愛媛県のようにはっきり公表すれば、受験生も戸惑いがなくなる。また、1次と2次の総合点でGがもらえるのかどうかも、受験生にとっては謎のままである。こういう事態であるから、実際、「うしろのこくばん」に書かれているように、大阪受験を拒否しようとする若い方が増えている。これは府にとって損失以外のなにものでもない。府はそのうちしっぺ返しを喰らうことに必ずなる。

 集団討論や面接は、主観的な試験なので、評価にむつかしいものがまとわりつく。客観的なペーパーテストで測定可能な能力を100とすれば、人物対策試験は60くらいのものである。つまり、ペーパーなら確実に数値化できるが、人物対策試験は、それができない。受験生が当日対面した試験監督に生殺与奪が握られることとなる。そうであれば、顔つきとか、仕草とか、気に入るとか、気に入らないとか、本質的なところと関係ないところで勝負がつくこともある。このあたりの選考方法の改革にとりくまなければならない。

 もちろんのことながら、府が手を拱いているのかといえば、そうではない。だが、泥縄式である。良質な教員獲得をめざすはずが、今春採用した新採が何人やめていることか。ずべてがすべてというわけにはいかないのはわかるが、合格して4月に辞める方を採用してしまうのは、見る目が府にはないといわざるをえない。なんでこうなるのか、その答えは上に書いた主観テストだからである。

 そうであるからかどうかはわからないけれども、府は、2次試験に論作文を復活させた。小学校志望者対象である。これは評価できる。人物対策試験の中で、一番客観的なのが、この論作文である。読めばすぐその受験生の資質がわかるからである。おそらく論作文試験を採用したことによって、教員採用の確かさが向上するだろう。少なくとも「受けてみようか」ぐらいの気持ちの受験生をふるい落とすことが可能だからである。

 あと3ヶ月、ワタクシはワタクシの抱えている学生を全員合格させることに、持てる力を、すべて、投入する。それが、わざわざ小さな勉強会に参加してくださるみなさんに対する礼儀である。
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みなさま、6月度、当サイト主宰勉強会に多数お申し込みありがとうございます。ほぼ座席が埋まりました。まだ少し空いておりますので、お申し込み、よろしくお願いいたします。先着順になります。平日昼間開催の「水曜会」もよろしくお願いします。本日午前11時25分に土日開催はすべて埋まりました。ありがとうございました。キャンセル待ちを受け付けておりますので、お待ちしております。水曜会は空いております。
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