日々旁午

2012



■さて、下の写真の車、サイト主宰者はどうしたでしょうか。下のA〜Dの選択肢の中から、正しい記号を一つ選べ。

A 豪華なカタログに見入っていた。
B 友達のなので乗せてもらった。
C 近くのディーラーに試乗にいった。
D 最近購入してうれしくて写真を載せた。
解答は⇒こちら
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■彫りの深い男たち

 決断の表情は美しい。
 それが、ひとを撃つという剥き出しの暴力であったとしても。滔々と流れる時間の中に、宗教的色彩を重低音部として織り交ぜながら、血腥い抗争と懸命の愛を配列した映画が、シチリア・マフィアの伝統を描いた3部作『ゴッド・ファーザー』であろう。
 ファミリーを守護し、勢力を拡大するため、手段を選ばぬコーサ・ノストラの首尾が、2世代の家族関係を舞台に貫徹されている。ある意味で究極的な男の生き方の手本が示されているといえよう。
 「ファミリー」は日本語訳すると「○○一家」の「一家」であり、極道である。抗争で繰り広げられる派手なドンパチを楽しむだけなら、SFも含めてハリウッドで足りる。キアヌ・リーヴスやブルース・ウィリス出演作品でも鑑賞すれば、その目的は達成されるにちがいない。だが『マトリックス』3部作よりも、私たちは『ゴッド・ファーザー』を選ぶ。
 なぜ私たちはこうした抗争の連続する映画に惹かれるのか。なぜなら、コッポラが、人間として守るべき普遍的な精神の本質を突き、シュールに描いているからであろう。
 陽炎のように消えてなくなりそうな愛。血族に対するどこまでも切なく儚い信頼。裏切りに対する徹底した血の報復。それに、オメルタの掟に服従し貪欲に生き抜こうとする強い意思。こうした物象化できないが、しかし狂おしい精神的価値が表現されているところに、私たちは得もいわず魅了されるのである。
 突き詰めていえば、愛、信頼、意思という人間生活のあらゆる場面にうかがえて誰しもが大切にしたいと願望する価値に加え、避けたくとも避けられぬ報復、復讐という市井の人びとの心の奥底に眠る価値をも曝け出そうとしている。こうした諸価値が殺戮で包装され、映像化されているのである。キャストは一流である。
 マーロン・ブランド。
 ロバート・デ・ニーロ。
 アル・パシーノ。
 稀代のミスターが、この3部作の映像画面いっぱいに、時に滾り、時に静謐な男の色気を放っている。犯罪シーンを隠すかのように薄暗く、美的な映像が、みる者の眼を釘付けにする。
 友情の美名の下に、権力支配を楽しむブランド扮するドン・ヴィトは、ファミリーの基礎を磐石にするため、銀狼になりながら孤軍奮闘する。この第1作のブランドからは、ドンの香り高い哀愁が漂っている。その男臭く惚れてしまいそうな哀愁に酔い痴れて、血の滴る馬の生首をベッドに仕掛けておくなど、恐るべき「断りきれない条件」を敵対勢力に突き付ける冷徹を忘れてはならない。有無をいわせぬ手管が、版図拡大の方途であった。ファミリービジネスが、生々しい血の抗争と同時並行して成立していく過程を、3部作は見事に表現している。
 ドン・ヴィトは、他のファミリーと利益配分調整を図ろうとする中でも、信念を決して曲げない。「ヤクは、女ともギャンブルともちがう」。マフィアにも一抹の良心があるようである。こうして表現された正統マフィアの「ヤク」を許さぬ気概は、この映画につづく亜流抗争フィルムのプロットとして繰り返されて使用される。
 麻薬問題がこじれはて、コルレオーネ・ファミリーは、他の4大ファミリーをターミネートし、あらゆる縄張りを牛耳ることになる。他のファミリーを殺戮したのはヴィトの第3子のマイケル。抱擁する男たちの背中とマイケルに跪き手の甲にキスを捧げる態度が、抗争の完全勝利を物語っていた。そう、ドン・マイケルの誕生である。第1作はここまでを描いている。
 ところで、若きヴィトを第2作の回想シーンで演ずるハンサムガイ=デ・ニーロは、オールバックとヒゲが似合う世界最高の男であろう。第1作冒頭に映し出されたドン・ヴィトの地位は、数畳ぽっちの絨毯を、自分の木賃宿に敷くために盗む安っぽいデ・ニーロの生活からはじまっている。すなわち、彼の出世階段は第2作において、コミカルな前奏曲を伴って、邸宅に侵入するシーンで私たちに意識付けられる。
 このデ・ニーロ扮する若きヴィトが、本物のドンとしてのし上がっていく過程の最終回想映像は、最初の敵役の口唇に銃を突っ込み撃ち抜く衝撃で開幕し、マイケルを膝に抱いている愛情深いいわば一枚の「家族の絵」を映し出すことでインターミッションとなる。この一連のシーンこそ、胆の据わったドン・ヴィトに変身していく力強さの源を担保する。家族への愛が引き金をためらいなく引く意思と力を与えている。
 シルクのスーツで身を纏うマイケルを演ずるアル・パシーノには、女性でなくても、しびれる。見習わなければならない。この彫の深いマスクで、政治家、宗教権力者など、誰を向こうに廻しても落ち着き払って談ずる第2作、第3作のマイケルには、眼でひとを凍てつかせるドンとしての威厳と風格が備わっている。幾多の粛清の経験が、マイケルをして、マフィアの最高峰に登頂せしめた。
 このレヴューの最初に掲げた美しい「決断」は、マイケルの最初の殺しの「決断」であった。その決断の表情にあらわれる美少年しか演技できない緊迫感が、第2作、第3作では微塵もない。このように、マフィアとしての成長は達成したものの、彼は、愛だけは思うように「粛清」できなかった。ソニーの息子ヴィンセントに語った「敵はお前の大切なものを狙ってくる」の言葉は、そのままマイケルの身に降りかかる。
 ここで、マイケルと妻ケイの恋情について書き留めておこう。なぜなら、ファミリービジネスにおける抗争と殺戮がこの3部作のメインテーマなら、マイケルとケイの愛の軌跡も、それにあざなうライト・モティーフだからである。不協和音を奏でるねじれた2人の愛は、大きな見どころだからである。
 ケイは、若い頃に軍役志願したマイケルが、妹の結婚式に連れてきた女性である。2人の愛の原点はここにある。だが、マイケルは美しい「決断」を敢行しアメリカを離れシチリアに逃れる。
 警官殺しでシチリアに身を隠したマイケルは、ある村で見初めたギリシャ系の美人アポロニアと束の間の新婚生活を送る。だが長兄ソニーの死の報を聞き、避難先の自分にも魔の手が迫っていることを知る。信頼していた手下に爆弾を仕掛けられた車をアポロニアは運転し、この世を去る。
 彼が結婚していたことも露知らず、シチリアに逃亡中のマイケルに会いたくて仕方がなかったケイであったが、それは一介の小娘には叶わぬ願いであった。だが急転直下、新婦を殺され一人になったマイケルは、年季が明けてアメリカに戻り、ケイと再会する。
 彼を忘れようと努力していた傷心のケイの前に、マイケルはその姿を無造作にあらわすのであった。再会したケイにプロポーズする。この態度は男の身勝手に映ったが、マフィアならではの強引さなのだろう。このプロポーズをケイは受け入れ、一男一女をもうける。
 だが第2作からわかるように、3人目は、堕胎であった。その事実を知らないままマイケルはケイを愛しつづけようとする。だが、堕胎はマイケルとの愛の堕胎でもあるとケイは胸中を吐露し、二人の愛は一時的に潰える。
 マイケルと別れてからもケイは、第3作のヒロインとなる娘や、歌手となり第3作で旧きコルレオーネ村に伝わる楽曲を弾き語りする息子との接触を試みる。だが幼い娘息子との限られた時間を名残惜しむあまり、ケイは、ばったり愛の冷めたマイケルと邂逅してしまう。マイケルは外にいたケイをまじろがずみつめながら、ドアをゆっくりと、しかしきっちりと閉める。ドアの向こうで泣き崩れるケイ、無表情のマイケル、まだ2人の愛は分解したままである。
 第3作では、この愛が復活する。というより、第2作において、ファミリーの究極の抗争継続に辟易し、一度はマイケルのもとを去ったケイであったが、彼女は無意識に深いところでマイケルを愛しつづけていたようである。ケイとの愛が確かなものになろうとしたそのとき、神は最大の試練をマイケルに与えた。すなわち愛の結晶、娘メアリーの死であった。
 3部作は、見ごたえがあると同時に、そのすべての連続性を理解するのに骨が折れる。しかも脇役の名演技や兄弟を死に追いやるマイケルの心境など、この映画から受け取り、理解し、語るべきところは多い。だが、これ以上焦点が不明になるのを避けるため、マイケルの死について述べ、このレヴューを閉じよう。
 エピローグは、サングラスをかけ直したアル・パシーノが、椅子から静かに転げ落ちるシーンである。イヌがその周囲を彷徨っている。このアル・パシーノひとりきりの映像は、あれだけの愛と友情、冨と権力を手にした彼の人生においてすら、孤独をかこっていたことを私たちに伝達してくれる。第3作冒頭の、「富や権力ではなく、お前たち子どもこそが、なにものにもまさる最高に大切なものであるのだ」とのプロローグの言葉が、メアリーの死によって裏切られる。マフィアの最期に相応しい孤独な死様が、静かに描かれているのである。
 マイケル曰く、「歴史が教えてくれてるだろう。この世でひとつ確かなことは、ひとは殺せるってことだ」。「友情と金とは、水と油ですよ」。ヒリヒリする真理である。だが、その報いは受けなければならない。告解だけでは済まない深い業を背負っていたといわなければならない。
 美しく描かれているドンの生涯だが、それはやはり暴力によって築かれた砂上の虚仮であることを私たちに突き付け、平凡でつつましい幸福を追求する日常に、私たちを引き戻してくれるのである。
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■みなさま、6月30日の講座にお申し込みありがとうございました。70名の定員でそのうち机が提供できる座席は60座席でした。こちらは定員に達しました。残りは10座席なのですけれども、こちらは補助席となります。机がありませんので、座りながらメモを取るような形態になります。みなさまからのお申し込みお待ちしています。
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■先週末の4月28日に、当サイト主宰勉強会を開催いたしました。ご参加のみなさま、オツカレさまでした。当日は、昨年合格のH先生にご参加いただきました。ありがとうございました。受験生時代のノートも持参くださいました。こちらは、H先生のご好意で、複製があります。禁帯出ですけれども、勉強会や珈琲会の場ご覧になれます。
 さて、当日はせっかくH先生がいらっしゃったことと、模擬授業や場面指導のお申込者が多かったことから、神奈川のマーク解答解説をお休みし、模擬授業、場面指導、集団面接と人物対策を実施しました。通常簡単なコメントで済まされる模擬授業や場面指導ですが、当勉強会では、いまのところ多少時間がありますので、1報告あたり30分くらいかけ、徹底的にそれぞれの種目の問題点を洗い出し、対策を考えています。
 模擬授業では、小学校の理科、伝導のところをしてくださったTさん。ここでは、「声」が課題となりました。おそらくは、いかな内容がよくても、印象がマズイといかんということなのでしょうか。シビアな、そして、直すのに骨が折れる指摘ですが、現実的、実践的な指摘であると思っています。Tさんの胸のうちを忖度するばかりですが、是非とも克服していただきたく、ここに記します。
 もうお一人のOさんは、保健分野の模擬授業でした。客観的に、冷静に授業展開をめざしたのはよかったのですが、代わりに授業自体が淡々とし過ぎ、強調点つまりポイントがどこにあるのかわかりにくい模擬授業になってしまいました。反省点はこうしたところにありました。
 場面指導では、友人間の問題解消について挑戦くださったTさん、給食の食べ残し関係についてはSさんが実践してくださいました。
 場面指導については、さまざまなタイプがあります。対児童生徒、対保護者。どちらでもこなせるよう、タイプを変えてチャレンジしてください。もう5名くらいの方にしていただきましたので、だいたいは、どういうようにすればいいのか、つかめたのではないかと思われます。
 集団面接は、8名の方で25分間くらいでしたでしょうか。今回は集団としての評価60点、個別の評価はばらばらでしたが、評価された点数にあんまりこだわらず、自分自身をどうすればいいのかを考えてください。先輩方の多くのノートが勉強会には遺産としてあります。これを参照しつつも、自分なりの応答の仕方を練りましょう。
 手を挙げて応ずる質問は、積極性をみています。なにも答えられず、ショックを受けた方もいらっしゃいました。次回からは負けじとよろしくお願いします。さらに、応答の仕方が固定化している方もいます。進歩ありません。自分に磨きをかけましょう。
 ゴールデンウィークは、じっくり勉強するチャンスですね。がんばってください。
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