日々旁午

2005


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 水無月も晦日となりました。そして文月。本格的な夏ですね。こちら関西は昨日ドシャブリでした。新潟の方は非難勧告がだされるほどのようでしたが、被害が少ないことをお祈りいたします。この反面、四国は空梅雨。自然がままならぬものであることを思い知らされます。

 本日は、ここここをチェックしましょう。読みすぎて、明日にならないように。
(6/30)

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 勉強会報告の続きです。

 第39回勉強会には、男女同数16名の方に集まりいただきまして、そのうち討論参加者は7名、集団面接参加者は5名、個人解剖1名、応援にかけつけてくださった現役の先生お一人でした。お仕事あって遅くから参加された方1名もいました。結局、2名の方にはオブザーブしていただくことになりました。しかしその2名の方も、幾度となく過去に討論あるいは面接に参加された方々で、今回は「後方支援」していただくことになりました。譲り合って参加していただいていることを、ありがたく思っております。

 討論のテーマは、再掲しますと、「ゆとり教育の功罪について議論してください」でした。25分間の実践です。討論では、参加者全員の出発点を固めるためか、ゆとり教育がいつからはじまったかの共通理解を求める形でまず発言がありました。ここのところは徳島でしていただいた討論と相違していました。

 ゆとりと聞くと、昭和52(1977)年の学習指導要領のキャッチフレーズ「ゆとりと充実」が頭に浮かんだようで、ゆとり教育のスタートをここに求めて立論していこうという参加者がいらっしゃったのです。また、他の参加者にあっては、平成元年の要領にゆとり教育の出発をみていた方もいらっしゃいました。こうした、のっけからの食い違いと、「いつからはじまったのか明示をしていないあるいは避けた」参加者があって、討論それ自体が不穏な様相をみせるかもと思わせたのです。

 たしかに昭和52年の要領は、教育内容の1割削減ですし、人間中心カリキュラムの下、ゆとりの時間も設置されたし、あるいはこのテーマに即して登場してもいいトピックでしょう。平成元年ころからゆとり教育がはじまったというのは、参加者ご自身の社会感覚または教育史感覚からそういわれたのでしょうが、はっきりした根拠がわかりませんでした。

 このようなゆとり教育のスタートをめぐる認識の分裂は非常に興味深いもので、出題者の意図を越えています。出題者であるワタクシは、もうホント簡単に、「最近の学力低下の問題はゆとり教育に根差しているのだから、ここ数年のいわゆる『ゆとり教育』について話してもらって、教員をめざす若い方の意識を知りたいな」という単純なものだったのです。平成10年の要領改訂から、いわゆる「学びのすすめ」(平成14(2002)1月)が文科省からだされて、ゆとり教育を自己修正しようとし、そして15年の一部改正に進展していく教育行政の右往左往から「功罪」を抽出していただきたかったワタクシにあっては、こうした討論の出発の仕方は「意外」でした。「学びのすすめ」をいいだすことはすなわち、「知」の教育を復活させようとすることでしょう。

 「新しい学習指導要領の全面実施を目前に控えた今、文部科学省としては、新しい学習指導要領のねらいとする『確かな学力』の向上のために、指導に当たっての重点等を明らかにした5つの方策を次のとおりお示しすることとしました。各学校においては、この趣旨をご理解いただき、各学校段階の特性や学校・地域の実態を踏まえ、新しい学習指導要領のねらいとする『確かな学力』の向上に向けて、創意工夫を活かした取組を着実に進めていただきたいと思います」と述べられているところに、2002年当時の文部科学省の教育方針がはっきり読み取れます。すなわち、遠山教育行政の時期からすでに文科省は人間教育あるいは「不易」の教育への傾きが強過ぎることに、危機感をもっていたといえます。

 ところで、この、いつからゆとり教育がはじまったのかにかかわる分裂が、参加者の教職教養の深さから導出されているのが、これまた悲喜劇でした。これは討論内容云々よりも大切なポイントだとワタクシには思われるのです。

 このテーマを聞いて、昭和52年のキャッチフレーズを持ち出すことに、ある種の「心配」を感じています。というのは、採用試験の面接官の感覚は現場感覚が強力(だと思われるの)で、そんないわば「古い」ことをいいだすと、ミスマッチになるのではないかと思われるからです。ゆとりを象徴する週5日制も1年前倒しに実施された事実を考慮しても平成14年のことですよね。

 したがって、議論の出発は、少なくとも平成10年改訂の要領からにした方が、議論がスマートに進むでしょうし、出題者の意図も履き違えることがないと思われます。しかし、問題は、こうしたテーマが出題されたとして、本番の採点官の意図です。どうなんでしょうね、ワタクシと一緒かどうかなどまったくわからないことですし、なんともいえないんです。

 議論はこうしたスッタモンダがあったものの5分くらいで抜け出すことができ、次に「功罪」を提出することに移りました。このグループでは、まず「功」の話題から議論を深めていこうという姿勢がうかがえました。参加者のご意見から、摘記しましょう。

 まず「功罪」の「功」から。調査ではゆとり教育に6割が賛成している、学ぶ意欲がでてきたと評価されている。知識偏重が回避されてきた。荒れた学校といわれる事態も減少してきた。総合では地域活動もさかんになり、ゆとりが活用されつつある。学力に関する大人の見方がかわり、学校で習ったことが生活にどう生かされるべきかを考えるようになった。休日となった土曜の活用方法が広がり、社会性を育む教科外の活動、たとえば演劇もしたりしてゆとり教育は成果を上げている。体験活動がさかんとなりよい。進路をしっかり考えることができる。学校の特色が発揮されるようになってきている。人と人とのつながりが増え、自分から進んで人にかかわろうとする時間がもてる点でゆとり教育のよい面があらわれてきている。等々。

 一方、「罪」のところでは、学力低下。本当に教育内容の精選が学力を保障するかどうか。休日に塾へいく生徒いかない生徒があり、そうした状況が学力格差を生んでいる。そもそもゆとり教育を導入する時期が悪かった。情報化社会を背景に、ゆとり教育は物事を知るという知的好奇心を奪ったのではないか。知る喜びはどこかへいったのではないか。高校で土曜補習をするというのはゆとり教育を自己否定することになるのではないか。保護者は薄っぺらい教科書をみて、これで大丈夫かと嘆くのではないか。等々。

 ここには、できれば文科省を批判したくない立場とそれでも問題点を自分なりに表現しようという立場が混在しており、参加者の個々のスタンスがみてとれました。討論それ自体は、このように「功罪」の両者を指摘し、ではどうすればいいかを積み上げていくのがよろしいかと思われます。教科教育に即してどうすればいいか、学活からどういうようにゆとりの意義を深められるか、感動を与える教育活動をどうすればいいか、がそのポイントとして提出されました。ひとことでいえば、ある参加者がおっしゃったように、「罪をなくす方法」ということでしょうか。

 ワタクシは、討論において「文科省バンザイ」の主張をあえてしなくてもいいと思っています。上からいわれたことを全部が全部OKというスタンスでは、一人でこの先「先生」をやっていけるのかどうか不信感をもつからです。また、採用は自治体ですから、自治体は中央行政と違う教育思想を持っているからです。自治体は自治体独自の採用基準がありますし、自治体の求める教員像があるでしょう。文科省の求める教員像と重なりあう部分は多いものの、現場に近い分、文科省より実践感覚の比率が高まっていてそういう教員像を建立しているわけで、そうした立場からの採用であると思われます。

 したがって、これは受験生一人ひとりの作戦になりますけれども、無茶苦茶な反対意見でなく、背後に論拠を備えた批判的意見を穏やかにいうなら、構わないと思っています。

 次に集団面接に関して書きましょう。集団面接は、「対比」が鮮明にでます。協調性を評価する討論に対して、集団面接では応答の積極性と論理的表現力、経験からくる教育実践力を評価しようとしているのではないでしょうか。つまり、教員的資質があるということを滲み出すように、身体的に表出することにポイントがあるといわなければなりません。その点、決して競争じゃないですが、挙手で意見を求められるような場合は、できるかぎりパッと手を挙げるべきでしょう。与えられた質問に答えるだけでは不満が残ります。しかしまた、引くべきところは引くといいますか、挙手制が続いた場合、なんでも自分が答えてやるではこれまたマズイと思われます。ではどうすればいいのでしょうか。

 その解答は、「自然体」です。通常みなさんが行なっているコミュニケーションをそのままだせばいいのです。その「自然体」に「問題」があったとすればどうすればいいか、には、ワタクシは答える言葉を持ちません。

 もう6月も終わりですね。試験直前期です。いまからの時間、有効に活用しましょう。

 英語2次対策の講座については、もう少ししましたら公表します。講座担当者のS氏によりますと、ネイティブの先生(在日10年・大学教員)の方に依頼されるようです。参加は、当サイト主宰勉強会参加者だけでなく、当サイトをご覧のすべての方に開かれています。ただし、かなりお金がかかりますことをお伝えいたします。ワタクシ主宰でないからです。
(6/28)

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 昨日は、当サイト主催勉強会に多数ご参加いただき、ありがとうございました。キャリア教育について活発な議論がなされ、考えるべきポイントがいっぱいでてきて、ワタクシも勉強になりました。でも、みなさん、もっとしゃべりましょうよ。もっと、もっと。ワタクシから「うるさい黙れ」といわれるくらいしゃべってください。

 序盤は、キャリア教育に関する調査研究協力者会議報告から設問をしたシートを用意し、これを軸にみなさんからご意見が多々出たわけですが、結局、「キャリア」とはなんなのか、定義をめぐってまず議論があり、そしてキャリア教育を実践する意図にまで及んで、深い考察ができたことに喜びを感じています。文部科学省バンザイの態度もよいですが、自治体には自治体の考え方もありますし、モロテを上げてOKでは、少々物足りない感じもあります。

 キャリア教育と職業教育と進路指導、それらがどういう点でつながっているのか、自分ならどのようにしてこの3者をミックスしていくのか、報告書べったりではなく、そこを考え将来の実践に是非とも生かしてもらいたいのです。マークシート式教採テストでは測れないがしかし、それこそが本当に必要な教員の資質ではないでしょうか。現在12年間の初等中等教育を貫徹するキャリア教育とはどんなものなのか、校種をつなげて職業観を形成するためには、いわゆる「キャリア申し送り」ともいうべき「内申書」が登場することにもなるのでしょうか。また議論したいものです。

 中盤は、集団討論を実施しました。テーマは、「ゆとり教育の功罪について議論してください」でした。一昨日の旁午に書きましたように、徳島と同じテーマです。しかし、討論内容は完全に違っていました。どちらがよいというわけではなく、違っていました。

 ここまで書いて申し訳ないのですが、討論の再現はあすにいたします。というのは、あすの講義ノートの見直しをしたいからです。ごめんなさい。ただ予告的にいいますと、昭和52年がゆとり教育の出発であったという認識が昨日の大阪における討論の最初に提出されたことが、相違点です。そこから……。詳細はすいません、あすにさせてください。

 終盤は集団面接と個人解剖でした。個人解剖については書きません。集団面接について、ちょっとした指摘を、これまたあすいたします。
 なお、最後になりましたが、今回も、現役の中学校国語の先生に応援に来ていただきました。忙しい中、本当にありがとうございました。当勉強会の卒業生でもある今回きていただいた先生が、こうして愛情もって指導する立場から参加者に刺激を与えてくださることは、ありがたいかぎりです。当サイトの副題「教員と教員を目指す方のためのコミュニティスペース」が実現しようとしております。

 ワタクシがやりたいことが、ちょっとみえてきました。
(6/27)

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 徳島県教職員組合主催学習会にご参加のみなさま、本日はお疲れさまでした。午前の講義、午後の討論と、あっという間の8時間でした。講義は、問題演習と解説を中心に、多様なお話をしたつもりです。時間的にはあれがいっぱいいっぱいでした。

 2月から、相当勉強されていたのでしょう、討論はかなりのデキでした。数多くの討論をみてきたワタクシですが、ホント、議論に引きずり込まれる集団討論でした。今回、「ゆとり教育の功罪について議論してください」というテーマと、「命の大切さを育むため、学校教育でどのように取り組みますか」というテーマの2題を議論していただきました。ありがたくもうれしくも、この日に照準をあわせてくださって、大変な修練を積まれたのではないでしょうか。

 2題ともに、ワタクシの目からみて、高得点が期待できる出来栄えでした。討論のポイントをしっかりおさえ、協調性の点でもとてもよく、議論の雰囲気もナイスです。徳教組の先生方の日頃の指導があってこそ、こうした実を結んだ討論ができているのだと思います。

 また、質問を多数寄せていただいて、うまく答えられたかどうか、心配です。参考になっていることを祈りるほかありません。

 討論の基礎となる論作文を、2月以来、各自20枚以上書かれたという、地道なみなさんの努力の上に「指導」があって、好結果を得られているのですね。

 思えば2月にお世話になったとき、「書いて書いて書きまくれ」、「何度も討論せよ」との言葉をおいていったのにみなさまが発奮したのだとすれば、ワタクシも教師冥利に尽きます。

 次の機会を楽しみにしております。

 このテーマ、大阪の勉強会でもやってみましょうか。これだけ「よい出来栄え、うまい」と徳島がほめられて、大阪の勉強会参加者も内心穏やかでないはず。「なにくそ」となって、刺激になるのではないでしょうか。期待しています。前回はイロイロありましたしね。
(6/25)

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 あすは、徳島にて、徳教組主催の学習会を開催いたします。ご参加のみなさま、そして、徳教組の先生方、よろしくお願いいたします。朝10時から午後5時まで、じっくり取り組みたいと思っております。ささやかなものですが、今年2月にお配りしたように、20枚ばかりのレジュメを用意いたしましたので、これをたたき台に進めてまいります。

 最初に、1次の教職教養の予想問題解説をいたします。問題数は少ないかもしれませんが、そこから思考を広げるようにし、ポイントを指摘します。次に、集団討論の簡単な解説をします。それを踏まえ、実際に討論をしていただきます。ワタクシは、もうかれこれ、受験生の集団討論を300回はみてまいりました。そうしたささやかな経験から、みなさまの役に立つアドバイスが、なにがしかできればと思っています。

 ところで、当サイト主催勉強会にご参加のみなさまから、多数、「やってみたい討論のテーマ」をメールにていただいています。ありがとうございます。ワタクシの方で討論のテーマに枯渇し、みなさまにご迷惑ながら、募らせていただきました。メールいただき、テーマを教えていただいたことから、みなさまの問題関心が奈辺にあるか理解できました。ワタクシとみなさまとの出題に関する「傾向の違い」も確認でき、なるほどと思わせるテーマ、基本的なテーマと、多種多様でした。今後、夏休み期間にも実施する勉強会におきまして、いただいたテーマを実施していく所存です。
(6/24)

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 パラパラと小雨が降ってきました。空梅雨の今年、久しぶりの湿り気にホッとしています。というのは、きょう、家の近くの道をあるいていて、農家の人が排水口の上フタをあけ、その中にはいって、なにやら作業をしていたからです。家の近くに田んぼがあって、6月初旬に稲を植え付けるのもみていたので、一層ホッとしたのでした。日本はもう昔ながらの四季の味わいを楽しむことができないようになってきたのでしょう。梅雨はジトジトいやだけど、ないとないで困るもの。ジトジトなんていう形容もなくなるのかな。

 きょうは、ここをチェック。こちらこちらもどうぞ。
(6/21)

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 勉強会報告のつづきです。

 2つめのテーマは、「生徒指導の根底を支えるものについて議論し、グループで1つの回答を出してください」でした。昨日述べたように、親しみやすいテーマですから、最初のものより討論が滑らかに進行しました。生徒指導の根底とはなにか、これは参加者によってイロイロで、それらが数珠つなぎ的に登場する豊かな議論になりました。では、その様子を再現してみましょう。

 20分・7名で実施したこの討論は、参加者全員が均等に発言した感があります。Aさんが、まず「これこそ大切」といったのは、児童生徒との信頼関係でした。心の通いあいがなければ、生徒指導できないというのは、鉄則ですからね。頭髪指導にしろ、服装指導にしろ、児童生徒との信頼関係がなければ、声すらかけられません。

 たとえば、朝の登校時に、頭髪や服装について注意すべき児童生徒がいたとしても、いきなりそうした悪いところを指摘せず、「おはよう」と一端声をかけたあとに指導するべきと、実際の指導法を語っていらっしゃいました。よい指摘でした。そこから、Cさんが、髪を染めてくる生徒に対し、直せといっても直してこないのは、実はあまり話をしていない生徒ではないか、そうであれば私たちはすべての生徒にしっかり指導すべくコミュニケーションを広めていくべきではないかとAさんのご意見を発展させた発言がありました。

 Bさんからは、厳しさとほめることが生徒指導には必要で、深い愛情をもって指導にあたるべきだといい、クラブ活動や放課後の相談の場での実践を大切にしようという抱負がありました。Dさんも、教育的愛情をいかに深めるかを議論の俎上におかれ、養護教諭をめざす立場から、保健室には授業がわからない児童生徒がいわば「逃げ込んでくる」のであり、そうした児童生徒をあたたかく包んでやることが必要であると述べられました。教員として、ひとつひとつの小さなことを大切にするべきといっていたのが印象的でした。小さなことの積み重ねが、生徒指導を豊かなものにします。

 そうした議論を引き継ぎ、Fさんからは、たとえば髪を染めてくる児童生徒に対し注意する前提に、教員としての心構えとして、「彼は直してくるだろう」と期待をもたなければはじまらないと発言したのは、教員の側から児童生徒を信じるという態度をもっていないとハジマラナイということですね。たしかにそうで、Gさんのいわゆるラポール形成ということでしょう。生徒理解が生徒指導に先行し、愛情と信頼が重なるところに、生徒指導の根底があるということになります。

 ここで別の視角から意見がでました。それは、私たち教員は生徒に教科を教えている。生徒も学校で一番時間を費やすのは授業である。だからわかりやすい授業を実践し、私たちが教科教育の能力を高めることによって、児童生徒から信頼を勝ちとるのである、と。こうしたご意見がCさんから提出されました。Eさんは、これを担当教科の数学で説明され、わかる喜びを伝えたいと語られ、そうした授業展開が可能となれば、そして授業実践に熱意があり、本気になれば、児童生徒からの信頼が得られるのではないかと述べられました。教員としての使命観がうかがわれた発言です。

 そこで、では、直接授業を担当していない児童生徒(この場合は生徒になりますね)は、そうした熱意ある授業を受けていないわけで、そうした教科を通しての信頼感を児童生徒に直接伝えられない場合は、どうすればいいのだろうかと、Fさんから疑問が提出されました。これは的確な指摘で、CさんもEさんもこれにどう答えるか、一瞬つまったようでした。

 そうだとすれば、Gさんのいうように、教員間における生徒指導上の統一見解が必要なわけで、シャツをズボンにいれずだらしない格好をしていれば、なんらかの事実としての懲戒を与えるべきということになります。こうした教員の共通姿勢を学校が守り、そこに家庭の協力、保護者の協力を求めるべきであるというように、議論はつづいていきます。

 この意見を出されたBさんは、生徒指導を彼らをめぐる物理的環境を整えるという考え方を示されたわけで、Aさんはそれを増幅し、保護者の方針、他の先生方との協調した指導をしたいと述べられました。生徒を3者間で指導するというわけです。

 ここで時間がきて、終了となりました。議論は途切れることなく、互いの意見を次の発言者が補填するような形で進行し、聞いていて安心感がありました。

 以上のように書けば、まったく問題がないように思われますが、そうでもありません。生徒指導の基本として、単なる問題行動対処法では物足りないからです。教科教育担当能力の向上は、鋭い指摘でした。しかし、それ以外に生徒指導がすべての児童生徒に対して行なうことであることをどなたかが述べられれば、ぐっとよくなったと思います。なにしろ生徒一人ひとりを伸ばすことが生徒指導の根本的な意図だからです。そうであれば、進路指導の問題や、キャリア教育についても触れてよかったかと思います。

 発展的な、積み重ねが認められる討論の進行に成功していたので、それ以上のポイントを追求していただきたいと思います。

 今回の勉強会は、時間の使い方に問題があって、結局、シート式問題解説と集団討論2題を消化したにとどまりました。これも進行役としてのワタクシのいたらなさであったと反省しています。もうちょっと考えないといけませんね。

 さて、来週は、というより今週末は、大阪に場所を戻し開催します。26日です。多数申し込みありがとうございます。残念ながら収容人数の関係上、おことわりしなければならないのが残念です。5名ほどキャンセル待ちの方がいらっしゃり、心苦しく思っています。

 次回ご参加のみなさま、豊かな討論を期待しております。
(6/21)

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