日々旁午

2006


あすは、当サイト主宰第81回勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。あすも通常のように、大阪歴史文化問題報告、自己売り込みのツボ、集団討論、集団面接、そして個人解剖を実施いたします。

 自己売り込みのツボは、Mさん、よろしくお願いいたします。大阪歴史文化問題報告は、Oさん、お願いいたします。7月に、ワタクシからも、大阪歴史文化問題報告の後半を提供いたしますね。これで、50枚くらいになりますね。試験に出る出ないにかかわらず、わが街大阪のことをよく知るいい機会になりました。他府県たとえば兵庫県、滋賀県などを受けるにもかかわらず、こうしたコーナーに付き合っていただいている方々、その心の広さに甘えつつ、もう少しお時間いただきます。ごめんなさい。

 集団討論は、水曜会と同一のものにしてみます。そうすれば、違った視点や参加者による雰囲気の違い等が確認できるし、水曜会での指摘もフィードバックできる。さらに、再現できなかった水曜会の集団討論を補填することにもなる。ワタクシも時間的に余裕が持てる、という理由からです。ご理解賜りたく、よろしくお願いいたします。両方の勉強会に参加いただく予定の方も、集団面接に参加いただくなど、無駄な時間を過ごすことにはなりません。

 あすの勉強会では、みなさまの8月のご予定をお聞きし、2次に向けて個人解剖をやってみたい方やもっと集団討論を経験したい方のご要望があればそれを調整いたします。つまり8月開催を増やすということです。ただ、これはどうしても平日開催となります。

 もちろんこのサイトを通じて、新しく一緒に勉強していただける方も募ります。いましばらくご案内をお待ちください。なお、すでに決定している開催日もあります。こちらは8月開催(水曜会のみ)もすでに受付開始しておりますので、ご参加の検討お願いいたします。
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池のメダカがかわいい。でも、せつないかわいさである。
 池に泳ぐメダカに、児童はなにを感じたのか。保護者はどんな感慨を持って、すいすい泳ぐメダカを我が子に見立てたのか。いこいの広場で命をみつめる。どんな会話がなされたのだろうか。『共同通信』(6月1日付け)が伝える。長崎の大久保小学校の児童が、「『たくさんの命を大切にして、一生懸命生きていきたい』」(『同上』)との誓いを生涯忘れず、そのためにも「『力を合わせてキラリと輝くクラス』」(『同上』)の実現を期待したい。カッターナイフで傷つけられ亡くなった女子児童のご冥福を祈る。また、残された父親が、この2年間、新しい感情で以前の感情を押さえ込む死ぬほどツライ心理的作業をされていることに、思いを致す。そしてまた、加害少女に対しても、思いをめぐらすべきであろう。右欄下に長崎新聞へのリンクがあるので参照されたい。

 また、大阪教育大学付属池田小学校の凶行も、6月に起こった事件であった。なんらの反省もなく刑を執行された犯人詫間であった。よくわからない自分勝手な犯行動機にご遺族が嗚咽を漏らされたのは、5年前である。ご遺族は警察に寄せられた通報記録をみることもできなくなった(『毎日新聞』6月1日付け)。たとえ前例がなくても、故人を偲ぶためにも、大阪府警はご遺族にその全貌を明示してもよかったのではあるまいか。大阪にとどまらないで開かれたこのような講演が、実を結ぶことを強く望みつつ、児童生徒の安全にワタクシたちが一層尽力しなければならないと考える。

 すなわち、大教大における特別講演で稲垣卓学長が、「『池田小事件で、学校が安全という常識は崩れ去った』と説明。『教訓を学び、安全な学校の実現に向けて、一人一人何に取り組むべきか考えてほしい』と学生に呼び掛けた」(『共同通信』6月8日付け)とあるが、この学長の言葉は、「学生」だけに呼びかけたのでもなく、ワタクシやこのサイトを見ていただいている方々だけに発せられたのでもなく、すべての人びとに実感されるべきものなのである。

 秋田男児殺害事件やシンドラー社製エレベーター圧死事件というように、児童生徒の、また、学校の安全をめぐる事件が、いまもあいついでいる。広島小1殺害事件については、死刑が求刑されたようである。もっと小さくて新聞沙汰にはならないものの、シリアスな事件や事故があると思う。「一人一人何に取り組むべきか考えてほしい」との言葉が擦り切れないようにしたいものである。
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昨日は初開催の水曜会に多数ご参加いただき、ありがとうございました。みなさん、真摯な姿勢で勉強に取り組んでおられる様子が伝わってきて、及ばずながらみなさんを合格に導きたく、決意新たにしております。

 昨日は、集団討論、集団面接、個人面接を実施いたしました。申し訳ないながら、水曜会の集団討論については、その再現模様をサイトにアップするのはご容赦ください。といいますのも、週に2回集団討論の模様をアップするのは、ワタクシの仕事量としては限度を越えるものでありまして、これをすると、他の公務に支障をきたすからです。なにしろサイト関係だけでも、個票添削、論作文添削はじめ、まぐプレの発行(月6回)、旁午記事とほぼ休日なしのアップアップ状態なのです。

 いまでも、このように精一杯やっておりますので、ひらにひらに、お許しお願いいたします。しかし、昨日、人物対策においてワタクシから申し上げた注意事項は、是非とも心に刻んでいただきたいと強く感じております。また、傍聴に回った方からのご指摘を生かし、本番に備えてください。個人面接に挑戦いただいたMさん、ありがとうございました。よくぞ耐え抜きました。その意気よし!

 資料の配布がうまくいっているかどうか不安です。申し込んでいたのに次回にお渡しするようになってしまった方、申し訳ないです。Rさん、申し込まれた資料は忘れず次週持参いたします。
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地方の苦しみはどこ吹く風、中央では、さもわかったように議論が進行している。教育委員会は必要か否か。規制緩和の立場からはいらないといい、既得権益を守る文科省からは絶対必要との声が出る。「既得権益」というのは、教育委員会が文科省の出先機関化しているので、それを文科省が死守する意味でここでは使用している。文科省のキャリアが箔をつけるため、地方に出向くケースがあり、教育長の座に着くのである。それで、数年経てば中央に戻るという、ほとんど「警察署長」的な人事がある。戦後の教育委員会の在り方を延命し、崩壊するのを防ごうとする意志が文科省にはあるといえよう。

 『朝日新聞』(6月2日付け)をみると、中馬規制改革担当大臣と小坂文科大臣が喧々諤々で議論しているようである。中馬氏がいうように「硬直化した文科行政の上意下達システムとして機能している」と批判される教育委員会の実体が現実にある。これは民主党党首の小沢氏の指摘した、教育行政における責任の所在にも関わるところであって、その是正は喫緊の課題である。文科省の出先機関たる教育委員会であれば、地方分権の名に値しないし、地方の特色を生かした教育行政を各学校と協力し作り上げていくということもできないだろう。

 一方、手足としての教育委員会がなくなれば、文科省の存在意義は半分以上なくなるのではないか。「全国一律どこでもはずせない」(『同上』)という小坂氏の発言は、果たして本当か。「はずせない」根拠を小坂氏は語る義務がある。

 だが、いっそのこと、文部科学省をなくすのがはやい、とワタクシは考えている。文部科学行政のある部分、たとえばロケット打ち上げなどは国の責任で実行管理しなければならないから、そういう仕事はやらねばならない。だが、これは微々たる仕事なので、他省庁に分散的に任せればいい。文部科学省解体論である。文部省解体によってなくしてしまって、独立した地方教育行政を各自治体が担当すればいい。完全に教育行政の責任を地方に持たせることになるし、自治体間競争が盛んになって、いい刺激を与え合える。ただ、教育の機会均等などに関し、地方間格差が生じないようにだけ、行政監督庁を設ける。つまり文部庁としての再出発である。こうすれば、ムダな行政費用が削減できるし一石二鳥である。

 戦後の中央教育行政と地方教育行政の2本立て制度を白紙に戻し、地方教育行政一本化で臨むのが特色ある学校作りを実現できる方策のひとつであろう。
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あすは第1回水曜会を開催します。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。平日開催の勉強会ですから、あまり参加者がいないと予想しておりましたが、ふたを開けてみると満員御礼です。

 通常開催している勉強会とほぼ同じようなカリキュラムで実施してまいります。メインはやはり面接対策です。ここ数年、教採において重視され、配点も高いのが面接、討論です。マークシートはほとんど「足切り」の意味しか持っていないといっていいでしょう。

 さあ、いっしょに乗り越えましょう。
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第80回勉強会における集団討論の模様を再現します。テーマは、「在日外国人の児童生徒の教育に関し、わたしたちは指導上どのような立場をとるべきでしょうか。議論してください」でした。討論参加者は7名、25分間です。A〜Gさんとして、発言を追ってみましょう。

 討論をはじめてくださいとのワタクシのうながしの後、元気よく「よろしくお願いします」とみなさんが大きな声で挨拶されました。気持ちのよいものです。つづけて少し沈黙があったのですけど、ご愛嬌。第一発言者には、ある種の責任がありますからね。でも、Gさんがなされたように、テーマの確認を最初にすることによって第一発言者の責を果たす発言の仕方は効果的です。

 Gさんは、まずテーマを確認、これをどのような立場から議論するか提案されます。@担任の立場から。A家庭・地域とどう協力するかという立場から。B学校としてどう取り組むかという立場から。の3点です。Gさんご自身の発言としましては、在日外国人の数が増えていること、国際化している現状において、彼らを歓迎して向かえるということ、彼らの文化を知る、学ぶ姿勢が私たちに求められているということでした。

 これに応え、Bさんが、在日外国人に対する「悪い見方をなくすこと」を述べられ、外国人に対する「一般的な誤解」の観念をなくすようすべきであるということ、それから、これは後半のトピックになるのですけれど、本名・通名(討論の後、みなさんで確認したのですが、「本名・通名」の読み方は、「ほんみょう・つうめい」に落ち着きました)問題を提起されました。

 このGさんとBさんのやりとりの中に、在日外国人の方に「きていただいている」という表現があり、この感覚の是非が、討論終了後、議論になりました。というのは、おそらくGさんの発言は国際化している日本の現状において、他国から多くの外国人が入国される「いまの現実」を念頭に置かれているからこそ、こうした「きていただく」という表現になったのだと思われます。それに対して、在日韓国朝鮮人の2世、3世の人たちは、歴史的に日本に在住しているわけでして、その人たちに「きていただいている」というのはちょっとちがうなという感覚があったからです。

 日本全国における外国人の数は昨今、200万人を越えました。ちなみに大阪府に定住している在日韓国朝鮮人の数は、だいたい20万人を切るくらいです。そのうちの約半分は市内在住で、生野区と東成区に集中して居住されています。昨年の大阪府1次試験に登場した在日外国人と公教育に関する正誤問題は、この民族と教育の関連性についてたずねる問題でしたね。府や市は、在日外国人の教育についての真摯な取り組みを新採の方に求めるため、こうした問題を出題したと考えます。それゆえ、討論でも聞いてみたいと思い、勉強会でこのテーマで議論していただきました。

 さて、Eさんが次に発言されました。Eさんは、在日外国人の人に、そのルーツを知り、誇りをもつよう指導すると述べられ、日本人と違った文化的歴史的背景を持つ存在として自己を確認し、かつ日本人児童生徒はその存在を認知することが大切であると述べられました。Dさんは、「2世、3世はもういて当たり前」であるといわれます。つまり、もう当然の存在として異質な目でみるのではなく、いて当たり前の存在それだけ普通に私たちと一緒に暮らし教育を受けている存在であるということです。だから、Dさんは、そこに議論の力点を置くよりも、一人ひとりの児童生徒という視角こそが、このテーマを話し合うポイントではないのか、と問題意識を鮮明にされました。

 Aさんは、自己のルーツに誇りを持たせるという教育的指導に賛成の立場にたっています。しかし、そのことを日本人と在日外国人の両者で構成される教室において実践できるかどうかが問題となるとされ、在日外国人を受け入れられる体制や雰囲気を醸成することが教員に求められていると指摘されました。Fさんは、地元姫路の在日外国人のことを語られました。Fさんは、「同じ人間」=人類ということを強調され、在日韓国朝鮮人の場合なら朝鮮半島の文化を知る活動を採り入れるべきであるといわれます。また、ご自身の経験として、フィリピン人、ハーフの人との「教育的格闘」をお話されました。ここで問題が、在日といった場合に狭く韓国籍、朝鮮籍の人びとに対する教育的関心だけではなく、広くアジアの人たちに対する教員としての指導をどのようにするべきかという問題が提出されたといえるでしょう。

 Gさんは『世界の人々』という著書を使用した小学校における授業の模様を紹介され、「世界にはいろんな人(人種)がいる」ということを理解させる指導をされたようです。ワールドカップにも触れられ、世界各国の人種や文化の違い、習慣の違いなど、相互理解を進めたいと抱負を語られました。それはBさんがいわれるように、国際社会に生きる私たちという自覚を児童生徒に養わせることに直結します。Aさんも、日本人として日本の文化を理解し、そして他の諸国の文化も理解する、それで共存していく必要性を説き、具体的に在日の人びととの交流や体験学習を提案されました。そうした点で、Eさんも学校と地域との交流は深めるべきで、世界的な状況を児童生徒が知ることにつながるとされました。身近なところでは、在日韓国朝鮮人児童生徒と日本人児童生徒との相互理解のため、在日韓国朝鮮人児童生徒の保護者との交流を進めたいとご意見、いわゆる「キムチ外交」を進めるなどして学校と地域との交流を展開し文化的な背景を理解させたいと述べられました。

 ここでCさんが問題提起的発言を討論参加者に投げかけられました。すなわち、在日韓国朝鮮人の人びとは、自分自身のアイデンティティをシリアスに考えている。たとえば、在日の人びとはそれぞれの祖国にあるいは認められていない存在としてアイデンティティの確立に悩みを持っているのかもしれないといわれます。つまり、在日の人びとの帰属意識の問題です。Cさんは、そこで、在日韓国朝鮮人のアイデンティティの問題を教育の場で思考するとき、在日という別の枠で捉える捉え方も成立するのではないかと指摘されました。この捉え方は、在日韓国朝鮮人の問題一般つまり在日に対する歴史的な差別の問題をどう解消するかにつながる重大な問題です。Dさんはこの問題とも関わり、チョゴリを切られた事件を紹介されつつ、保護者の相互理解をどのように進めるべきか、教員の立場からの苦悩を述べられました。つまるところAさんがいうように、「どんな立場の児童生徒にも、公平、公正に向き合っていくことが大切」です。担任として、人種問題的な差別を許さない毅然とした態度を貫徹することが重要ですね。

 そうした差別解消のためにも、Fさんがいわれるように地域において勉強会を開催するのも一つの提案でしょう。児童生徒の人権感覚は保護者の育児態度に左右されます。そして、在日に対する差別の問題を突破口に、同和問題、人権問題とリンクさせ、差別一般の問題解消を指導していくのが、教員の地域における役割といえるでしょう。Gさんは、府の「心いきいきプロジェクト」に触れられつつ、文化の相互理解、そのために音楽ならチャンゴの紹介、映画なら「パッチギ」の紹介と、具体的にお話されました。また、担任として、在日外国人の人びとに日本文化のよいところをも伝えるべきであることを付け加えられました。そのためにはEさんいわれるように、クラブや同好会の活用もいいと思われますし、Bさんいわれるように地域の協力の下、多様な人たちとともに「カレー」を作るのもいいでしょう。ちなみに「カレー」の作り方はアジア諸国であっても相当違いがあって、その違いを実際にみることのできる交流会は、それだけでも興味が持てます。

 Fさんは、ベトナム人が昨今増えてきており、どのように教育現場で対応すべきかを問題とされ、在日アジア人の枠組みで問題解決を図ろうと考えておられます。朝鮮舞踊でも南北で違いがある点にも触れられ、相互交流のポイントを指摘されました。Dさんの視点は一貫して「一人ひとりの個人を尊重する」という態度でして、社会的弱者である場合が多い定住外国人の問題をマクロな視点から問題視するべきであると問題提起されます。たとえば健康問題で苦しむフィリピン人のことを紹介されつつ、ギリギリのところで生計を立てている在日外国人の苦しさを代弁されていました。Gさんは、「一人ひとりの個人を尊重する」立場から、在日の人びとの心の中の大変大きな痛みを想像し、本名・通名のことに触れられました(以下、これを「本名通名問題」と表記します)。大日本帝国の犯した歴史的な罪として、創始改名があったわけで、先のアイデンティティの問題とこの本名通名問題は一体化しています。この問題はEさんご指摘のように、一人ひとりの在日韓国朝鮮人の人びとが心に刻んでいる課題です。この問題でクラスに亀裂がでてしまったり、友人関係が壊れてしまっては大変です。これはAさんが指摘されるとおりです。不登校にもつながる問題ですね。

 Bさんは、本名通名問題に関し、「いつかは本名を名乗って欲しい」とのご意見です。その「いつか」がいつなのか、それは一人ひとりの在日の人びとの心の中に、祖国に対する愛情とアイデンティティが確立するときでしょう。これは在日の人びとによっても温度差があるはずで、当事者の意識の問題です。Fさんは、ご自身の経験から、「日本人ではないとはっきりいう人と、隠す人」とがいるといわれ、ナイーブな人ほど差別を恐れ本名を隠す傾向があると指摘されます。それだけ、日本社会に根強い差別が存在することの裏返しです。ワタクシたちは「島国的根性」を反省しなければなりませんね。
 Cさんは「帰化」の問題に触れつつ、「在日としてアイデンティティを持って生きている」人びとに対し敬意を払うべきで、単に差別されるのがイヤで通名を名のっているワケではないことを指摘されました。Bさんがいわれるような苦悩や葛藤を背負いながら在日の人びとが生活してるのは事実ですが、Cさんの考え方も理解されるべきでしょう。デリケートな解決課題です。

 ここで25分間が終了しました。

 今回、テーマに「わたしたちは指導上どのような立場をとるべきでしょうか」とあったのですが、議論が多方面に波及しました。これはこれでいいのですけど、学校における取り組みとしてどのようなことができるのか、もう少し深められてもよかったのではないかと感じております。どちらかといえば、在日韓国朝鮮人問題一般を議論している風でありました。それから、最初にGさんが提起された3つの立場からの発言が、整理されてあったかというと、そうではなかったことが気になりました。

 このような在日外国人の教育的問題を議論するテーマが本番で課された場合、問題の性格上かなりナーバスな議論になることが予想されますけれども、学問的な見地から誠実な発言をすれば、大丈夫です。怖れず、縮こまらず、一歩踏み出した発言を期待しております。

 また、今回、議論が「文化」に集中していたところもテーマに対する広いアプローチでないと感じられた原因になっています。お互いの文化を知る必要があるという指摘、相互尊重しあえるための取り組みを紹介することなどが繰り返し発言されていたので、議論の前半がもたもたしていたと、傍聴者から指摘があり、ワタクシもそう感じておりましたことを追加記述しておきます。
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昨日は、当サイト主宰勉強会に多数ご参加いただき、まことにありがとうございました、遠く四国の地から駆けつけてくださった方もいらっしゃり、ありがたく思っております。また、今回、初参加の方もいらしゃいましたが、いかがでしたでしょうか。なかなか勉強がすすまないとすれば、こちらでお受けになった刺激をパワーに転換していただければと思っております。

 昨日は、いつものメニューどおり、大阪歴史文化問題報告、自己売り込みのツボ、集団討論、集団面接、個人面接をいたしました。大阪歴史文化問題報告担当のMさん、ありがとうございました。よくぞ調べていただきました。自己売り込みのツボ報告者Hさん、がんばりましたね。ほぼ完璧でした。みなさんからのコメントも、「GOOD」ばかりでしたね。骨組みはあれでよく、表現を少し手直しすれば満点です。分量の多さにもかかわらず、姿勢のよさと、ゆったりした、かつ、堂々とした語り口で、形式面でも評価が高いでしょう。自己売り込みでは、イイタイコトを適確に伝えきることができるか、表現力と情熱が評価されます。また、姿勢も大切です。ピシッとした姿勢は、気持ちがいいものです。

 つづいて、集団討論です。こちらの内容は、次回の更新といたします。

 集団面接は、今回、7名の方に実践していただきました。集団面接は、右欄の「よく出るかもしれない教採面接質問集」からワタクシがピックアップした質問に、本番さながら答えていただくものです。ちょっと手垢がついてきた質問事項ではありますが、しっかりと答えていただいてよかったです。質問事項の再編成は、今後の課題といたします。みなさんがこの夏お受けになられる試験報告を待って、構成しなおしますね。みなさんへの質問も、みなさんの先輩が報告してくださったものです。こうして世代がつながっているわけです。

 個人面接では、Kさん、挑戦ありがとうございました!みなさんがおずおずとされている中、チャレンジ精神旺盛に、果敢に受けてくださいましたね。個人面接は、集団面接と違い、対象個人の「中身」をより深く知るため、こちらからの質問に答えられた内容に関してさらに突っ込んでお聞きする方法をとっています。ですから、当サイトでは個人面接のことを「個人解剖」と呼んでいます。今後も、圧迫面接、非圧迫面接などタイプを用意して実施しますので、みなさん奮って挑戦してください。
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現職の先生方の免許更新に関連して、中教審がこういっている。「新たに教員免許を取得する者についてのみ更新制を適用するのでは、保護者や国民の信頼に十分こたえることはできない」(『産経新聞』5月26日付け)。こたえることができないと指摘する背景に、教員の資質・能力への国民の批判が高まっている「事実」があるのは理解できるが、その「資質」に対する「批判」の中身は多様だろう。

 もちろん教科の指導力不足という教育内在的な批判もある。だが、「思想教員」問題を視野に入れて更新制度を議論していないか。中教審の判断は、正しいというべきかどうか。産経の「主張」(6月1日付け)が東京地裁判決をもとに一刀両断的批判をしている元教員などを「排除」ないしは容易に「懲戒」的運用をするべく更新制が活用される怖れなしとしない。だから更新制は、その要件を限定した更新制でなければならない。

 『産経新聞』(5月26日付け)は、つづけて中教審WG(working group)のいい分が、「現職教員が終身有効な資格として免許を取得している点にもふれ、『既得権益で、絶対不可侵ではなく、公共の要請で合理的な範囲内で新たに制約を課すことは可能』とし、法的にも適用は可能」としていることを紹介している。ここにいう「公共の要請」を国民の要請と解釈すれば、それは一般的社会通念を集約した「要請」でなければならず、その集約的判断は難しいし、「合理的な範囲内」というのも、なにが「合理的」なのか、これまた恣意的になる。「合理的な範囲内」というのは、えてして法制度解釈の放棄を産む。
 同じ地方公務員であるのに、市役所務めの公務員にはない更新制を教員にだけ導入するのは不自然であろう。人確法も廃止して給与の優越もなくなるのであるから、余計にそう感ずる。

 ちなみに、産経の「主張」(6月1日付け)について、最後に触れておこう。「ふだんの授業で、日の丸や君が代の意義や由来を含めてきちんと指導していれば、式典で強制しなくても、子供たちが自然な気持ちで日の丸を仰ぎ、君が代を歌うことができる。それが教育というものである」(「同上」)などという議論はお粗末で、「日の丸や君が代の意義や由来」を小学生に理解させれば、不自然な気持ちで歌わないこともある。そうした「小学生」個人の判断力をつけさせることこそが、「教育というものである」。だが小学生はそのような判断力をつける途上にあるのだから、「強制」という事態になるのである。「ふだんの授業で」「きちんと指導」というのは、一方的な知識注入であってはならない。教育の中立性はここでも死守されなければならない。

 本日は、当サイト主宰勉強会を開催いたします。とうとう80回を迎えます。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。大阪歴史文化報告はMさん、自己売り込みのツボはHさん、よろしくお願いしますね。集団討論は、「民族」のことを考えていただこうと予定しております。
(6/3)

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「見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその『今日』に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは」。さあ、これは、誰の文章か?「教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だ」との記述は、洋の東西を分けない教育思想だろう。カントとそっくりである。この人の書いた文章は、ほとんど読みました。蚤と戯れながら。
(6/2)

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前回第79回勉強会の終了後、「コーヒー会」に代えて「カレー会」になりました。残念ながらご一緒できなかった方々にその散策の過程をお伝えいたします。

 勉強会の大阪歴史文化問題報告に登場した事柄に関連し、文学散歩してまいりました。そこで写した数カットをご紹介します。

 まずは、法善寺です。この人は誰かわかりません。

 つづいて、その中のいわゆる水掛不動です。

 このあと、カレーを食べに行きました。

 これです。

 なかなかロマンチックな散歩となりました。

 法善寺横町は、2度の火災を乗り越え、再生しています。残念ながらこのお店は改装中でした。みなさん、合格してから食べに行きましょう。さあ、アタックチャンス!パリがあなたを待っています!この写真を通じて浮かび上がる大阪の人物は誰でしょうか?
(6/1)

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