日々旁午

2004


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本日は第6回勉強会を開催いたします。今回は、関東方面遠征組がいらっしゃいますので、シートが少し空いてしまいました。関東受験の方々、力を出しきってください。1分前までノートから目を離さないように。それが出ます。祈健闘!今後は開催日を考えます。今回は、致し方ないでしょう。みなさん、受験組に負けず、がんばって集団討論いたしましょう。忙しさと疲れとで大変な身体が、灼熱、熱風でさらに痛めつけられています。みなさんも、ご自愛下さい。忙即是閑、閑即是忙、心頭滅却、火又涼。ヤルコトオオスギテフラフラ。20万ヒット、ありがとうございました。本日の確認:@ICTA地域運営学校B総合の全体計画C明瞭連合系統方法D10年経験者研修E新たな「公共」Fクラブ活動G輻輳説H生活科Iスモールステップ(7/10)

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歩道のタイルも浮き上がる猛暑である。たまらない1日であった。朝、ハンカチを忘れた方はコンビニで買わざるをえない。滝のように流れる汗を拭えないからである。こんな日は、勉強終了後のビールが、ことのほかうまいだろう。スーパーが閉店してもこれまたコンビニがあるので、夜風にあたりながら買いにいくのもよい。ところで新発売するペットボトルのビールというのは、どうも調子が抜ける。ビールだけに、気も抜ける。ビールはボトルよりも缶が美味く、缶よりも瓶が美味いに決まっている。グラスで呑むのが美味いのである。ペットボトルにビールを詰めて、街中でチビチビされた日には、怒りが爆発しそうである。若者がターゲットらしいが、いっておこう。ビールやお酒全般は、ひとところに落ち付いて呑むからいいものなのである。そして、ひととおり友との議論が終わり、「河岸を変えよう」なんてセリフも使えるというものである。ぶらぶらしながら呑むのは粋ではない。さてさて、もっとまじめにビールの宣伝から人生や社会について考察している作家がいる。その考察を学びたい方は、石川啄木の『食らうべきビール』という小品を読みたまえ。本日の確認:@ソーンダイクA検察官送致B教育課程の基準性C最近接領域D政治的行為の制限E隠者の夕暮れF懲戒G憲法20条HコンドルセI特別支援学校。第6回の参加意志最終確認メールを送信しました。ご返信お願いします(7/9)

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今日は七夕ですね。1年に1度、牽牛と織女がミルキーウェイを渡っての逢瀬。なんだかロマンティック。願事が叶うそうですから、空を見上げてみましょう。「合格できますように」です。いままで積み上げてきた努力は無駄ではありません。必ず実ります。最後の一押しを支えてくれます。関西圏における25日の筆答試験まで、毎日、毎日、なにか10個づつでも憶えましょうよ。そうすれば、180項目憶えられます。これは大きいですよ。教職教養でも、一般時事でも、何でもいい。地道にコツコツを続けるのです。膨大な出題範囲に怯えてはなりません。みんな一緒です。何が出るかわからない、風声鶴唳にビックリしててはなりません。明日は旁午、更新お休みします。でも、残念ながら、1年に1度の逢瀬を楽しむためではありません。野暮用です。本日の確認:@ICFA総合学習のねらいB奉仕活動CデューイDWAISE職務専念義務FワトソンG小原国芳H採光I情報教育の「光」と「影」、さあ、どうでしょうか(7/7)

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教職教養は、5択の問題が多いが、あんなのに良問はない。良問はないが、それよりもむしろ問題なのは、その解法を安直に求めようとする受験生の姿勢である。答申を読まずに答申関連の5択問題の正解を求めやがる。小手先のテクニックは批判されて然るべし。物事、そう簡単にはいかないものである。それに、小手先のテクニックで教職教養の問題が解けたといって、それが今後の教員的人生に何の得になるのか。なんにもなりはしない。小手先で解けるよう訓練すること、安易さを求める態度、そんなもので教採に合格したって仕方がないぞ、と、この時期にきてぼやいてみる。もう少ししましたら(7月半ば)、第7回の勉強会の受付を開始します(7/6)

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あー、1週間が飛ぶように早い。昨日は北海道の試験でした。受験された方々、いかがでしたでしょうか。教育時事や答申にどのような問題が出されたのでしょうか、興味津々です。北海道の速報、「うしろのこくばん」に書き込んでくださると幸いです。よろしくお願いいたします。青息吐息ももう幾許、最後の最後は無酸素泳法でいきましょう。倒れ込んで合格!なんか、かっこええですよ。こちらも無酸素泳法状態がつづきます。みなさん、がんばりましょうぞ(7/5)

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昨日、定期勉強会に参加されたみなさま、お疲れさまでした。第5回では、1次対策として、1分間の自己PRと、集団面接をいたしました。ゲストとしてコメントいただいたモンチッチ先生、誠にありがとうございました。体ほぐし運動は高配点なんですね。さて、1分間の自己PRは、みなさま、かなり、固まってきた印象です。いままで作り上げてきた内容を大きくは崩さず、あとは、どーん、といけばよろしいでしょう。PRの要領は、やはり、「目を引く言葉、内容」、「印象に残る言葉、内容」、「いい意味での元気よさ」だと思われます。自分を売り込む言葉を簡潔に述べる、に尽きます。ダラダラいうのは厳禁中の厳禁ですね。集団面接では、数問提出しました。その内、代表的なものについて少し書きます。@自分の短所はどこか、そのことで会社や学校で困ったことは何か、A保護者から、児童生徒を茶髪にしたいと申し入れが学校にあった。どう対応しますか、Bいまの児童生徒に欠けているものを1つあげなさい、Cあなたがテニス部の顧問であるとすれば、次期部長を選ぶときに注意する点をいえ、です。@については、苦しい場面に直面したとき、どのように対応するかを聞きたいというところに、問いの本質があります。現場は戦場ですしね。短所をいうのは辛いものがありますけれど、短所をめぐりめぐって長所にしたてるのではなく、本音のところを語ればいいでしょう。性格的な短所は両義性に満ちています。ひとつのことに打ち込むと周囲が見渡せないのは、集中力があるということでもあります。短所をいい切れるということは、しっかり自己分析できているということであって、ご自分のことがご自分でわかっていらっしゃるということ、さらには、客観的に物事をみることができるということですね。Aにつきましては、多いに議論がありました。しかし、到底結論は出るものではありませんでした。期せずして、「うしろのこくばん」でHappy!Micky!さんとたまごさんとが往復書簡している内容を話し合っている風がありました。校則ともかかわり、茶髪は小学校では許されているが、中高で許されない云々です。急に中学で茶髪はダメといわれて頭を抱える保護者についてのご意見が面白かったです。それから、親が金髪なら子も金髪、というのも。保護者への対応が問題ですから、具体的に説得力ある応答が求められるでしょう。保護者に対し、「茶髪で就職活動できますか」と逆に質問を突きつけ、TPO、マナーやルールを大人たる保護者に再考させてみるというのはいいですね。さすがモンチッチ先生です。理詰で説得する術を持っておきましょう。そのほか、皮膚の健康安全の観点から美容師さんの意見を基に答えてみる意見もでました。異論はあるでしょうけれど、たとえば「発表会で茶色に染める必然性」などの特殊ケースを「申し出」という言葉から嗅ぎ取るのは着眼点いいですが、あまり考えなくていいでしょう。そこまで深読みすると短答できなくなるからです。Bについては、一般的に、思いやり、責任感、コミュニケーション能力等、妥当なところを発言されていました。これはこれでいいでしょう。手短に答えるにはスパンと単語を出すのが有効です。Cについては、生徒どうしの信頼、人望、日々の努力など、生徒理解を前提し教員としての立場からどのような示唆を与えられるかということでしょう。ウマイヘタが問題ではない、とほぼ全員が考えられていたようです。以上です。集団面接は、あっさり答えることに秘訣があります。あっさりというのは、もちろん時間のことです。「手短に」は20秒が限界でしょう。いろいろいいたい気持ちをぐっと抑えて、適確にポイントだけを伝えましょう。「ひとことで」といわれれば、理由や背景など何もいわず、単語だけでいい切りましょう。テキパキ、これがキーワードです。そうでないと、このような事態になっている大阪府をパスすることは難しいといわざるをえません。15000人超えているんですね、ビックリ。受験態度、癖については、個別に指摘した注意点をそれぞれ守るよう願っています。本日、第6回の参加意志最終確認メールを送信しました。ご返信お願いします(7/4)

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本日は、第5回浩の教室主宰、定期勉強会を開催いたします。その準備をしているところです。参加されるみなさんも、明日、どのような自己PRをしようかと、何度も何度もストップウォッチ片手にがんばっていることでしょう。明日は、試験直前ですけど、ちょっとキビシメにコメントつけるつもりでいます。Take the BISIBISI train!どうぞよろしく。ところで、ワタクシの主観では、集団面接の方が集団討論より評価しにくいなぁと感じています。集団面接の評価基準は、しっかりした受け応えができるかどうか程度じゃないでしょうか。内容は二の次でしょう。討論は、盛りあがった議論の形成と議論への貢献度から、スパっと評価可能なのに比べ、集団面接は、どうも「のりのり」の感覚を面接官役のワタクシが感じにくいので、このように思うのかもしれません。今年も、「てみじかに」、「簡潔に」の掛け声が、嵐のように飛ぶのでしょう。すっきり、はっきり、くっきり、ポイント押さえた表現力が勝敗をわけそうです。コクがあって、キレがある、そう、ビールですな。ところで定期勉強会のペットネームを、昨年に続いて「職員会議」にしようかどうか、検討中です。「職員会議」は補助機関になってしまいましたから、当勉強会の、受験生の主体性を重んじる特徴と齟齬するんですよね。なんか別にもっといい名前があればと考えているのですけれどね。「定期勉強会」、「教育討論会」はあまりにもベタですから。「クラブ活動」でもないし、「放課後の教室」は当サイトでときどき開催するチャットの名称ですし。「初任研」はいやだなあ。「Club KOU」はネオン街のようですし、「土曜の午後」は紅茶になっちゃう。うーん、いい名前がありましたらメールください。ただ、合格したら、「修学旅行」には行きましょう、そして「卒業式」もしましょうね!(7/3)

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昨日の追加。結局、情報教育は、情報ツールの活用能力の育成と情報モラルの自覚要求とを内容とするのであろう。それ以外のこと、つまりソフト面なり、主体的情報選択能力なりを養うことは、各教科や総合学習が担当することとなるのではなかろうか。教育の情報化は、教育のIT活用を意味し、ハード面のデジタルディバイドをなくすところに、究極目標があるように思われる。だから、機器を操れる能力は平等に身につけるようカリキュラムは編成されるべきである。しかし、「何を伝えるのか」や「伝えるどのような内容をもつか」は個人に帰するワケであって、それをもたない限り、情報機器を生かした指導は難しい。初等中等教育は、情報教育、情報教育とシリを叩かれすぎて、こうした「内容」問題を置き去りにしている観がある。児童生徒が語るべき内容を自己の生活圏から紡ぎ出そうとすれば、当然、友人関係に触れることになるのであって、その時に、表現力の有無が友愛を深めることにもなり、感情のすれ違いを導き出すようにもなる。情報発信が誰にでも可能となったIT社会は、子どもたちも含め、「1億総作家」状態を現出させている。そこでは、表現の自由を謳歌できると同時に、シビアに責任を問われるし、場合によっては「発信内容」が、写真も含めて血祭りにされることもある。著作権の問題も看過できない。そうした意味で、IT社会は非常に恐い社会でもある。匿名性、誹謗中傷、ドロドロした人間性、そうした人間の思念が、ネット上には赤裸々にあらわれている。混浴状態である。底のない桶に、赤や青や黒の液体が混ざり、何とも形容しがたい色になっている。数枚の絵画を描き切ったあとの絵筆洗いのコップのようなものである。このように考えてくれば、情報化社会はマイナス面の方が強いのかもしれない。無意図的な教育としてインターネットは期待されていたが、そんな生易しいモノではない。かといって、そうした社会がすでに所与であるかぎり、子どもたちは逃げることができない。これは、リヴァイアサンの発見以来の相当な化け物が出現したというほかないのだろう(7/2)

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情報教育について、そこはかとなく考えていることを書こう。情報の「光」と「影」とは中教審答申において指摘された言葉である。その「影」の部分の克服が学校教育の解決課題となって久しい。と同時に、ここに情報モラルの問題、つまり「心の教育」が関わってくるから、一層やっかいになっている。その「影」の部分に数えられる症状に、PCとにらめっこするあまり、人間どうしの生身のコミュニケーションがとれない児童生徒をどうするか、という病いがある。児童生徒どうしがコミュニケーションをはかる難しさは、しかし、社会が情報化されようとされなかろうと、あまり関係がないのではないか。長崎の事件なども、情報教育がうまくいっていないから発生したわけではなかろう。ただ「心の教育」がうまくいっていないから事件が起こったのかどうかは、はっきりいってわからない。もうちょっと違うところに原因があるのではないか。以下では長崎のことに限定し考えていくわけではないことをことわっておく。そもそも大人であっても、人と人がコミュニケーションをとるのは、あるいは「わかりあえる」のは、困難なことなのである。さらに、大人が「心の教育」を完成させていない代表例としては、たとえば、三菱自がいわば「殺人車」を生産し続け、人命に関わる事故について隠語で表現していたことを挙げれば足りる。さて、情報ツールを使ってコミュニケーションをとるといっても、正確に人の意志が第三者に伝わるかどうか。生身のコンタクトならば、言葉は空中に消え、いい直しすることもできる。「いや、いまのは、そういう意味ちゃうねん。こうやねん」である。だから、かなり正確にいいたいことが伝えられる。だが、メールや掲示板の書き込み、あるいはホームページの文章などは、いったん書き込まれてしまえば、正確にその文意が理解されるかどうかは、書き手のしっかりとした文章表現力と、受け手の読解能力に委ねられる。いまこうして書いているワタクシの文章も、果たして正確にみなさんに伝わっているかどうか。非常にあやしい。それはワタクシの文章力のつたなさと、ひょっとすれば読者の読解能力の低さが相乗している結果である。読解能力の低さは現実問題である。かなり失礼な書き方だがいたしかたない。ワタクシも読解能力が低い。いままで何度も現代国語の試験を受けてきたが満足な点数をとったことはなかった。現代国語の試験結果を文章読解能力の基準にするのは乱暴であるけれども、それに代わる基準もなかなか見当たらない。みなさんはどうであったであろうか。単に低いだけなら能力を高めればすむ。そして、この国語の試験、というのが、以下に続く論旨のポイントとなる。文章読解は1+1=2のように確実ではない。論説文など書き手が客観性や論理性を備えていくら書いたとしても、読み手は感性を照射して文章を読むケースが多い。大人の誤読は感性侵入の結果といえる。こうした感性は別として、問題は、大人は子どもに比べて相対的に文章を理解する能力を備えているが、子どもはその途上なのであり、読解能力にも限界があることに起因する。児童生徒は常に国語の試験で満点をとるわけでもなく、文章理解の背後に豊富な人生経験を持っているわけでもない。「書く」能力において未熟な児童生徒が、モノを書き、場合によってはサイトに発表し、「読む」能力において未熟な児童生徒がそれを誤読し、批判を浴びせる。親しい友達からのメールでも、全然意志が伝わらない。仕舞いには喧嘩になる、絶交になる、長崎のような事件になる。児童生徒は文章を書くなということを、ここでいおうとしているのではない。情報ツールの活用能力育成は、学校の教育課程にあってもいい。「書く」能力は、「読む」能力よりも格段に育成するのが困難な能力であろう。情報教育を云々する前に、ことばの力をはぐくまなければならないということを強調したいのである(7/1)

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