日々旁午

2005


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隣の家に、たくさんの枝を持つ太い幹の常緑樹が伸びている。アスファルトに舗装された街中で、担当を命令された1uの土肌をしぶしぶ守り、生えるのも苦しそうな街路樹とは育ちが違う。イキイキと緑をみせつけている。広い自然の地面をあとに、深夜から早朝にかけてセミの幼虫が登ってくる。空蝉を残す。夏の出発である。

 あの、目覚し時計の音よりも、耳に響いてくるほど鳴いていたセミはどこにいったのだろう。しかし、絶対あのセミたちはここに戻ってくるに違いない。なぜなら、幹線沿いの煤臭い樹皮よりも、艶がある枝を選択するだろうからである。セミも、それくらいの趣味は持っているものである。

 セミの鳴き声を気にしなくなると同時に、早朝や夜はとても過ごしやすくなった。28度を刻んだクーラーもいらない。風量最小の扇風機が、書籍の散乱したワタクシの部屋を掻きまわすのみである。その風はワタクシの願望をも軽やかに排気する。

 朝から昼にかけて意中の本を熟読し、昼から夕方にかけてネットを回覧しつつ旁午を書き、夕方から深夜にかけてグウタラしながら幾許かのものを書く。そうした夏の過ごし方が定着したのも束の間、夏が終わる。こうした生活が永劫つづけばいいのに。決して叶わぬ望みが、景品で当たったタダの豪華扇風機によって、太い幹の常緑樹が見える窓から必然的に出ていくのである。

 September Blue の心地よい風が入ってくるよう、狭いマンションに数箇所ある窓やガラス戸を全開にする。取り入れた洗濯物に紛れて侵入してきたのだろう、ワタクシのTシャツのラベル付近で足をとられていたコガネムシを、その全開のガラス戸から解放してやった。空中に放り投げるやり方で、無理矢理羽ばたかせてやるのである。投げられた瞬間、ハッと気付くのか、コガネムシはブンブンと名前を変えてどこぞに飛んで行く。そうした野生感覚くらいブンブンも持っている。洗濯物に紛れているより幸せだろう。今後もみつけたら投げてやろう。

 投げるのはコガネムシだけではなく、学生も投げてやろう。そう思う秋のスタートである。
(8/31)

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勉強会報告の続きです。

 ところで勉強会を週に2回開催すると、報告書を書くのは大変なことなんだと実感しました。いまさらながらに、あはははは。たとえば昨日の報告を書くのに、3時間もかかってしまっているわけで、コリャ、ワタクシの生活時間を剥奪されているなと。あはははは。まだ、こうして笑っていられる内はよいのですが、笑うに笑えず、あらゆるスパゲッティを引っこ抜いてPC環境を自爆させる漫画的将来がやってこないように、鎮静剤でも処方していただくとしましょうかな。教育評論的な小品も、最近はこの旁午において書いていないので、ひと段落つけば(いつつけるのであろうか)、再チャレンジいたします。教育最新記事では、噛み付きたい話題がイッパイです。たとえば、網走の高校再編問題、学力テストの復活実施、大阪府高校授業料(14万4千円)減免措置の是非、教員採用権の市町村委譲の行方、NEET対策費7億円の使途、東京都無免許教員問題、生涯学習意識の内閣世論調査、学級編成の自主性、などがそうです。ひとつひとつ考えていくうちに、新たな語らねばならない話題が現実に潜んでいるわけで、いずれまた論じようと思っています。

 2つ目のテーマは、「子どもの頃の遊びで、現代に活用できるものがあるか。あるとすれば、それをどのように学校で実践するか議論せよ」というものでした。言外に要求されているのは、自分を振り返ることでした。みなさんが少年少女時代を過ごされた70年代、80年代を想い返し、その頃のナマの子どもとしての感覚と、現代の子どもを観察し培った子ども認識と、ズレがあるのか、あるいは、あまりないのか、みなさんの視点から子どもの遊びを通して、一体何が現代の子どもに欠落しているのか、といったモロモロのことを考えていただきたかったのです。ある意味、過去の回想からなる談笑討論となっても、それはやむを得ず、そのことで評価が下がることはないでしょう。みなさんの遊び経験による共通感覚が議論の土俵になるはずで、そういえば、あんな遊びがあったなあと、遠くを見つめる眼になると予想されます。テーマの後半部分の、どう実践するかというところは、そうした遠くを見つめる眼から覚醒させるよう示唆しています。であるからして、モデルとしての討論は、談笑⇒現実分析⇒提案、となるでしょうか。20分間・5名の方に議論していただきました。例によって、仮にA〜Eさんとします。大学3年生の方も含む、小中志望の「おはなし」は、どのように進んでいったのでしょうか。

 まずDさんから、現状認識を議論の出発点にする発言がありました。登校途中、2人の子どもが手に手に携帯型ゲームを持ち、互いに話もせず歩いている。私が挨拶しても気付かない。これは、日常的風景なのでしょう、Dさんは、こうした観察から、しかし、「2人並んでいるということは、たとえ会話がなくても、一緒に過ごしたいという気持ちのあらわれではないのか」ときょうびの子どもの寂しさを抉り出すご意見を頂戴しました。

 Aさんの現状分析がこれにつづきました。現在小学校3年生の担任をしているが、私の子ども時代と変わらないということです。極めて短い朝の休み時間であっても、ボールを持っていって遊ぶ。ハァハァいいながら教室に戻ってくる。お別れ会を開催するにあたっても、何をして遊ぶかと問えば、ボールを使った遊びと鬼ごっこになった。こうしたことからすれば、友達とワーワーいて遊びたいのが、現代の子どもの心理じゃないのだろうか、と述べられました。

 Bさんからは、Aさんの観察と微妙に違い、「子どもたちがテンデンバラバラに遊んでいる」状況を報告されました。つまり、家庭に子どもの様子を聞くと、みんな遊びに家にやってくるのだけれど、みんなで何かをするのではなく、ひとりは好きな本をみているし、他はゲームをしている。Dさんのいう、「一緒にいたい」のだけれど、個人で何かをする遊び方が認められます。Bさんは、集団としての子どもをどう捉えるかという観点から、コンビニの前に群がる子どもたちのことにも触れられました。昔は駄菓子屋さんに集まり、いまはコンビニに集結する。コンビニで遊びのカードを買うにもお金がかかる。子どもたちは十分に消費社会に組み込まれている…。

 鋭い指摘です。これを聞いていて、ワタクシは、討論終了後、ひとつの挑発的な投げかけをしました。昔、駄菓子屋、今、コンビニ、それならいいじゃないかと。子どもたちは金銭感覚がどちらであっても磨かれるのではないかと。少し討論再現からズレますが、これに対して、「使うお金が大きくなっているのが違う」、「駄菓子屋はおじちゃん、おばちゃんがいて、いろいろな注意もあった。それに比べてコンビニでは人間的接触がない」、「駄菓子屋は夕方には閉まる。コンビニは24時間」などなど、多くのご意見がありました。中には、「密室でアジトのようなものができて、そこで陰湿ないじめが発生するのに比べれば、コンビニならまだいい。コンビニ前は人の眼に触れるから」と、現代の子ども事情が、討論終了後に、聞き手にまわっている方々も含め、様々に語られました。

 さて、筋を戻します。

 Cさんから、新しい視点の提供がありました。私たちの子どもの頃は、緑がいまよりもたくさんあった。私たちと、花摘みや虫採りも近かった。総じて動植物にかかわる実体験が、現在、減少しているのではないか。こうした経験が生活科や理科に直結するのであって、体験不足の結果は好奇心を低落させることにもなる。これを受けてEさんは、学校にはグランドがあるが、地域にはいわゆる空き地がなくなり、子どもたちが自由に外で遊ぶことのできる領域が少なくなった。空き地の減少は子どもたちを必然的に室内に追い込み、現代流のPCゲームを弄ぶことになる。

 遊び環境が変化していることに対する指摘です。思うに、こうした「資本主義的発展」の結果、緑が掘り崩され、安心した遊び場がなくなっていく現状、子どもたちは、遊び環境を求めるのに必死なのかもしれません。学校が子どもたちを夕方になって締め出してしまえば、子どもたちの行き場はなくなります。コンビニ前に集合する以外、どこでどう遊べばいいのか。室内に囲い込まれる条件を突き付けられて、子どもたちは圧迫やストレスを感じているに違いありません。広く太陽がさんさんと輝く中で遊びたくない子どもなどいないのが、本当のところではないでしょうか。そういう意味ではとっても健全で、後にAさんが主張されることに通じます。

 では、みんなで集まった時に子どもたちにやらせたい遊びは何か。Dさんから投げかけがあり、みなさん考えることになります。Dさんご本人は、ドッヂボールをあげられ、その他の遊びがようやく参加者から発せられることになりました。Cさんはカンケリをあげられたほか、遊びの条件や枠組みを考えるよう提案調に述べられたのです。それは、@全員でできること、Aルールが簡単、Bクラスでも、縦割りの学年縦断的な場面でも実施できること、でした。こうした外堀を埋める発言は、集団に想像力を与えよかったのではないかとワタクシは評価しています。Eさんからは竹トンボと声があがり、日本文化がわかる遊びとして例に挙げたようです。Eさんが述べられたように、子どもの協調性を育成する目的も遊びには必要で、そうした条件をCさんの提案した規定にいれるよう議論を構成すればいいのではないでしょうか。また、竹細工だから削り方など器用さの開発につながりますね。こうした器用さの問題に関連し、Bさんから、実習であぶなっかしいカッターナイフの扱い方をみてハラハラしたと報告されました。Cさんは、家庭科で扱う包丁は、家庭でも指導を充実させれば子どもたちのためになると述べられ、議論がつづけられました。なかなかよい展開です。

 小刀の扱いは下手、でも、ゲームは好きで器用。社会の発達でどんどん器用さが子どもから剥奪されているとは、Aさんのご意見です。ロウ石を使った遊び、探検ゲームなど、子どもたちに生来ある好奇心や力を引き出し、こうした伝承されてきた昔遊びを楽しむことがなによりとのことです。Dさんからは、昔の遊びも装いを変えて登場しているが、これはこれでいいのかなあと発言ありました。昔のカルタは、今では学習カルタ、たとえば都道府県カルタなどになっている。遊びであったものが、学習メインになりつつある。この他、ケン玉やアヤトリなど、子どもに伝えていけないものかと若干、嘆がはいった発言となりました。

 遊びの行為に私たちも参加していくことも必要ではないかとCさんから述べられ、討論は新局面になります。Aさんからは、いま、講師として子どもと交じるため、ドッヂボールを練習していると、涙ぐましい努力を披露され、ジーンときましたよ。遊びの効用をどう学級に活かすべきか。Cさんから、遊びを通しての集団形成に触れられました。最後にBさんが、自分も積極的に遊びに加われば、子どもたちと一体感が生まれ、授業の学習意欲も高まったことを実感したと述べられ、子どもの中でメリハリもでき、クラスの雰囲気もよくなったと、遊びの効用を見出していらっしゃいました。

 ここで時間がきました。均等に発言があり、議論が進んで行ったようです。ただ、聞き手の参加者からは、もっと遊びの種類がでるのかと期待していたとご意見がありました。たしかにそうですね。もっと具体的な昔遊びの名前がでてきても不思議ではないのに、量的には少なかったといえます。どんな遊びがあるのか、もっともっと思い返してみましょうか。

 さて、2つの集団討論が終わり、個人解剖をいたしました。今回はちょっと面接個票を題材に質問をした方もいらっしゃいました。ワタクシとルパンさんとで、面接官役をいたしました。

 模擬授業は小学校・生徒指導の課題でした。

 2次もたけなわ、みなさん、持てるものを出し切ってくださいね。この秋、模擬授業の課題集を右欄に少しアップしようと思っています。では、9月の勉強会でお会いしましょう。
(8/30)

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すでに2次試験が終了され、どちらにころぶにせよ安堵されている方、面接を来月にひかえ、学習パワーの持続に苦しんでいる方など、それぞれに日々を消化されていることと思います。そんな中、昨日、第49回当サイト主宰勉強会にご参加いただき、ありがとうございました。新しくご参加された2名の方、いずれメールにてご感想などお待ちしております。おひとりご参加いただけなかったのが残念ですが、男性6名、女性10名の方にご参集いただきました。

 当日は、集団討論を2題、個人解剖と模擬授業を行ないました。また、この勉強会の試みに賛同いただき、ルパン先生に来ていただき、強力にバックアップしていただきました。いつもながらのご支援ありがとうございます。勉強会の終了後のコーヒー会では、「うしろのこくばん」に書き込みいただいた「合格のための2次面接」をさらにわかりやすく口頭で教えてくださいました。ありがとうございます。

 では、討論の模様からお伝えします。ひとつめのテーマは、「人の心を読み取るとは、どういう力をつけることによって可能ですか、議論してください」でした。5名(A〜Eさん)の方に25分間で討論していただきました。

 まずEさんが、テーマに関連し、いまの生徒は集団になると「やんちゃ」であるが、一人ひとりをみればいい子どもたちであると認識しているといわれ、そうしたいい子どもたちに、はやいうちから様々な体験を積ませることが、人の心を読み取るよう個を成長させるのではないかとご意見されました。具体的には、就業体験やボランティア活動を実践させてみたいということです。

 Dさんは、特別活動や総合的な学習の時間を活用し、相手の立場を尊重しながら会話ができるよう指導したいと抱負を述べられました。

 こうしたEさん、Dさんの直接体験による児童生徒の情緒形成に対して、Aさんは読書をあげられ、読書活動を充実させることによっても、相手を思いやる気持ちが養われると主張されました。Bさんも、このAさんの意見を受け、直接経験的な他者理解も有効な方法である一方、文章を読み取る力の育成が、客観性を児童生徒にもたらすことになり、現実の学校生活における人間関係をスムーズに始動させることになると考えておられました。

 Cさんは、「人の心を読み取る」能力=コミュニケーション能力であると、ズバリと捉えられ、心のキャッチボールができるようにするにはどうすればいいかを問題にされました。そこから、心のキャッチボールは挨拶からはじまるといわれ、家庭環境が楽しくうまくいっていれば、挨拶も自然とできるようになり、コミュニケーション能力の端緒が築かれると述べられました。

 家庭のことが話題にあがったのを受け、Eさんから、保護者は子育てに不安をもっていると発言、家庭が正常に機能しないと、そこで児童生徒に安定した情緒性が育まれず、ひいては友人や先生との「付き合い方」にも齟齬がでてくるやもしれないと述べられました。またEさんは、Aさん、Bさんの間接経験の有効性の指摘に関し、もちろんそれも重要で、タイミング的に直接経験としての多様な体験を経験させていくことが意のあるところであるとご意見を補強されました。

 こうした直接経験と間接経験とのミックスによって、児童生徒の他者理解が進むわけでありまして、どちらか一方でよい、というわけではありませんね。そういう点では、こうしたふたつのご意見が集団討論のトピックとして話題にあがったことをこそ評価すべきでありましょう。問題は、ではこの両者によって培われる心情理解の力が、具体的にどう醗酵するのか、醗酵させるのか、というところにありそうです。直接経験と間接経験の螺旋階段的実施が、児童生徒にとって一番よい「教育」であることはまちがいありません。ただ、体験活動の最中に、文章理解を通して身についた能力を活かせといっても、それを自覚して捉えている児童生徒は少ないわけで、そのあたりはどうなんでしょうか。その逆はまたどうなんでしょうか。体験活動の事前・事後指導に、文章理解的な学習は可能であり、そうした展開に「人の心を読み取る」方法が具体的にあらわれるのかなとワタクシは考えています。

 とすれば、具体的な体験活動、たとえばこの討論の終盤でも登場しますけれども、老人ホームに行き、福祉感覚を身につけることや高齢者との関わりあいの前提に「読む」書籍において何を選択するか、教員としての手腕が発揮される場面でしょう。だがなにしろ20年も人生を生きていない児童生徒に、その3倍も4倍も生きている高齢者の心情を理解せよ、といってもきわめて難しく、またそれを書籍を通して理解しようと努めることは大切なことですが、そうそう簡単にいくことはなく、実際には体験活動における「新たな発見」の方が多いですよね。高齢者の心情を理解する書籍といっても、具体的に本の名前をあげることができません。ハウツー本以外に、なにかこうした試みを成功させるいい書籍はないでしょうか。

 さて、Dさんから、これまでの議論は、相手の心を理解するといった、児童生徒側の理解度を考えてきたが、わかりやすく児童生徒の側が相手にいいたいことを伝える能力形成も忘れてはならないと、以上の討論をまとめるような発言がありました。

 そして、ここで1分くらいでしょうか、空白の時間が過ぎていきました。この沈黙をどういうように破ればいいか。集団討論におけるこの種の沈黙は、本番でもオウオウにしてあると思われます。この沈黙が長く続くと、マイナス評価になりかねません。みんな焦る瞬間です。

 この空白に切り込んだのが、Cさんでした。それは、「では、具体的に教科を通して『人の心を読み取る』ことにどのようにタッチしていくか、議論していきましょう」というものです。Cさんは、英語教員の立場から、読む聞く話す書くのコミュニケーション能力の育成を推進し、かつ、相手の立場を理解するため、相手の環境や文化をも視野にいれる必要があると語られました。つづいてDさんは国語志望ですので、物語理解における心情理解について述べられました。登場人物の心情理解については、一人ひとり感じ方が違うので、討論材料になるのではないかという主張です。ただ、こういうようにいってしまえば、試験問題の「登場人物の心情について解説せよ」に正答が無くなる恐れがあります。感じ方は人それぞれとしても、疑問は残ります。Bさんは、道徳の時間の資料活用において、班ごとに分かれ、話あって考えさせるアプローチがいいのではないかと述べられました。いわゆるワークショップ型の討論を実施するということですね。資料に登場する人物に、手紙を書いてみようという提案もありました。

 ここでAさんから、伝記を読むことの効用を語られました。Aさんは生物志望だけに、科学者の伝記を奨めるべくご意見があったわけですが、後の反省で、「ではどんな科学者の伝記があるの」と聞かれると、なかなか答えられず、検討課題となりました。あまりにもマイナーな生物学者の伝記を生徒に紹介してもいいものかどうか、ということも議論になりました。一般には、ファーブル、キュリーなどですかね。参加いただいたルパンさんは数学の先生ですので、ガウスと即座に答えられました。さすがに面目躍如です。

 Eさんは、体育教員をめざされており、「ちょっと読書は苦手」と思わず口をついてしまいましたが、まあ、これはいわない方がいいでしょう。Eさんは、議論を(意識的にでしょうか)転換し、「身体が動けば心が動く」とキャッチをいれながら、動くことの爽快感を強調され、体育のチーム編成について触れられました。球技であれ、陸上であれ、得手不得手があるので、そうした状況において生徒どうしで助けあいをさせてみたいようです。集団指導と個別指導の関連についてもご意見がありました。

 このことに関連し、Aさんから、学級経営の問題についてご意見がありました。クラスをどうまとめていくかについてです。ただ、「人の心を読み取る」という主題から離れてはいけません。経営の問題は重要な問題ですが、それを主題から独立させてしまうと混乱と方向性の不明を招来します。

 この後、Cさんから、部活動のコミュニケーションについてのご意見があり、Dさんから交流教育における取り組み、それに対するEさんからの具体的な老人ホームにおける体験が語られました。体験活動の教育的な意義を主張する方向に再転換していきました。こうした討論のもんどりは、これまたよくあることでありまして、それほどワタクシは不自然に感じませんでした。

 討論の最後にCさんが、体験活動は、生徒に傷つくこともぶつかることも教えてくれる、そしてそのフォローをするのが教員の役割でしょうと締めくくられました。

 ここで25分が経過し終了しました。5人で25分でしたから、単純に割ればひとり5分は消費することができます。かなりいいたいことがいえたのではないかと思っています。本番は7人から8人でしょうね。それだけ「他者」が増えるので、憶えておかなければならないことも増えます。

 討論の秘訣、それは集中力。

 この言葉を掲げておきます。2つ目のテーマはまた、あすに。
(8/29)

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本日は、当サイト主宰、第49回教育学勉強会を開催いたします。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。

 きのうは、京都にいきまして、これをみてきました。画家ってなんであんなに写実できるんでしょうね。練習でしょうか、天賦の才でしょうか。こちらのリンクもどうぞ。

 みなさまからたくさんのメールをいただきながら、返信が滞っています。すべて拝読しておりますので、ご理解ください。なお、一般的な質問に関しましては、掲示板を活用いただきたく、よろしくお願いいたします。
(8/28)

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続・勉強会報告です。もうひとつの集団討論のテーマ、「部活動の意義について、担当できる部を報告しながら議論せよ」について考えていきましょう。討論参加者は、6名、20分間でチャレンジしていただきました。

 まず、1巡目には、どのような部活動を担当することができる、あるいは担当していた(いる)ということについて報告がありました。Aさんから順に、吹奏楽部、バレーボール部、放送部、ラグビー部、野球部、美術部、武道一般、バスケットボール部ということでありました。この討論のテーマを提示する前に、運動系でも文化系でもいいと指示しましたので、両方答えるのが最善でしょうけれども、報告するのはどちらでもいいと思います。

 一巡したところで、Cさんが、部活動の意義について挙手し話されました。部活動の意義は、チームワークを意識することや、ひとつの活動を通して互いに支えあっていることを実感することにあるということです。また部活動は学年の隔たりをなくし、活動する点に授業では得られないものがあると述べられました。Eさんも、上下関係が発生する集団の中で、自分自身の位置を捉える捉え方について学べるとされ、人間関係の形成の仕方をおのずと知り得る場であるとされました。Aさんも、クラスの活動では得られないものがあることを認め、かつ、どのような活動であれ、部活動はそれを続ける継続力を生徒に教えると主張されました。

 一方、Fさんは、学校生活におけるメリハリについて指摘されました。部活動がなければ学習活動=授業もうまくいかないのではないかということです。部活動は思春期の人間形成に大きな影響を与えます。主将ないしは代表者がリーダーシップを発揮し、自主的な集団活動を可能とするものが部活動です。生徒が主役といいながら、授業では教員が方向性を一定程度与えるのに対し、部活動はかなりの場面で生徒の自主性を尊重しますね。学校生活が有意義になるのも、部活動、授業の両者が欠けてはならないというのが、Fさんの認識であると思われます。ここでひとつ問題なのは、それでは部活動に参加しない生徒はどうなるのかということでしょう。これについてはご自分なりの回答を考えてみてください。

 Dさんは、Fさんの議論を引き継ぎ、部活動と教室でみせる顔は違うということを指摘されました。教員として観察眼を養わなければならないことを教えてくれる発言です。Eさんからは、部活動の成果について話されました。参加してそこで何が築けるか。そして、たとえうまくいかなくても、努力した成果はあるものであって、決して無駄にはならないということを、生徒に伝えることも教育的な指導であると語られました。

 ここでCさんから、別の視点が提供されます。練習量の激しい部活をどうみるか。ご自身が相当厳しい部活に所属されていたようで、そこからくる実感でしょう。いわゆる朝練もあって、早朝から学校に私はいく。だからお弁当もはやくに作ってもらった。そういう負担が家庭にもある。逆に、そうした負担が愛と感じられるかどうか。部活を支えるうえのような「母の愛」的協力や、顧問の指導があって、部活動は成立している。そこのところを気付かせる指導をしたいということです。部活動のことだけで家庭訪問に来てくださった先生方にも言及されました。ワタクシもそうですが、いまから思えば、先生って、休日をほぼ無償提供し、ワタクシたちの「面倒」をみてくれていたのですね。頭が下がる思いです。Fさんからは、こうした顧問の指導に関連し、目標設定を助けてもらったこと、挑戦していく姿勢を学んだといわれました。また、現在、高校で部活動指導している立場から、部活動において生徒が自分で工夫をしていく必要があると主張されました。練習のメニューもそうであるし、球技系におけるシュートの仕方もそうでしょう。

 Bさんからは、たとえばバレーボールでチームメートにトスをあげるにしても呼吸が大切で、相手のことを考えないと、トスもトスにならないということを語られました。チーム内における「思いやり」ということですね。そうした感覚を直接的に身に付けられるのも、部活動であるからでしょう。さらに、Dさんとちょっと意見が違いましたが、生徒の顔が輝くのは、部活動でも授業でも一緒、と述べられました。希望的にいえば、部活動でも授業でも輝く顔は一緒「でなければならない」ということになりますね。何事も、ひとつのことに打ち込む姿勢は美しく、部活は部活、勉強は勉強、というように別けて捉えるべきではないと発言されました。学ぶべき内容は違えど、学ぶ姿勢は両者ともに真剣さを伴ってほしいということですね。

 さて、さきに述べたFさんへの質問、「部活にはいっていない生徒はどうなるのか」については、討論参加者も感じられていたようで、Aさんがこのことを指摘されました。このことに関連し、顧問の立場に立つ私たちは、将来、どのようにして担当する部活の魅力を生徒に伝えるべきか、広報努力についてのヒントがないか、みなさんにご意見を求められました。部活動を敬遠する生徒を無理に入部させようとするのはマズイし、かといって、部活動に参加しなければ、生徒の活動範囲が狭くなるのは事実ですし、どう解消するべきなのでしょうか。

 原理的には、Bさんがいわれるように、目標をともにする部員と過ごす時間はなにものにも代えがたいでしょう。広報という点では、Dさんがいわれたように、部活動紹介に受賞歴を報告するだけでなく、どのようなことをやっているのか積極的に伝えていけば、賛同を得られ、入部もあるのではないかと述べられました。部活動の魅力を伝えることは、とても難しいですね。部活動の勧誘では、厳しさが伝わるばかりで、楽しさを伝えられないところに問題があるのではなかろうか、とは、Eさんの的を射た指摘でした。

 Cさんから、ここで、これまた別の視点の提供があり、学校の部活動のあり方について疑問を投げかけられました。現在の学校における部活動のあり方は、ひとつの部にしばられているのではないか。サッカーなら3年間サッカーをするというように、多様な活動を疎外する形態があると。多くの活動を経験することもいいことではなかろうかというご意見です。また、Fさんからも、大きなトピックになる、アルバイトと部活動の関係について話題提供がありました。どちらを優先させるかは、高校生活を左右する大問題です。Fさんは、「いましかできないこと」を尊重し、高校生として、生きている時間を燃焼するよう勧めたいと力強かったです。

 こうした最後の2トピックは、残念ながら時間の関係で、議論されないまま終了しました。このように、あとからあとから湧くようにテーマに関するトピックが登場することは、それだけ各参加者の問題意識および建設的な学校改革意識が豊富であることを物語っています。

 討論は、なにがしかの結論を要求される場合もありますし、発展的に議論が進行していればそれで可とする場合もあります。テーマの性格によって、どちらがよいか、規定されていくものでしょう。

 討論上達の秘訣は「場数」です。いくら参考書を読んでも、ほとんど進歩はありません。ワタクシはそう感じています。あす、また、実り豊かな討論を求めましょう。
(8/27)

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昨日の続きです。集団討論のテーマは、「現在求められている学力とはなにか」でした。これを6名の方に25分で議論していただきました。例によってA〜Fさんとして、討論の模様を再現してみましょう。

 まず、Eさんから、学力といってもどういうものなのか幅が広いので、だいたいのところ参加者のみなさんがどのように捉えているのか一人ひとり述べていきましょう、という提案がありました。これを受け、参加者全員が思うところを順次、述べていくことになりました。

 Dさんは、学力とは読み書き計算の力をつけることであり、まとめていえば「生きる力」が学力ではないか、問題解決の能力を身につけることこそ、現在求められている学力ではないかと述べられました。つづいて、Aさんが、基礎基本を身につけることが学力を身につけることであると主張されました。また小学校教育では、今後中等段階で学ぶ土台としての学力を養成するべきであると強調されました。小学校で九九も満足に学習し切れていない状況を打破しないと、なんともならないからというご自身の教員経験を踏まえての主張です。このほか、Aさんは、学習そのものに対する興味関心を持つことそれ自体が学力であると述べられました。

 Cさんは、学級崩壊も散見される現状、「なぜ学んでいるのか」を理解させつつ、将来にむけて必要とされる学力を付けさせていきたいと抱負を語られました。ただこれは、学力の中身を表現したものではなく、ある意味状況把握であり感想であったので、議論を別の方向にむけさせてしまう危険性がありました。そしてそのレールに集団がのってしまうことになります。というのは、Cさんの学級崩壊という言葉に敏感に反応していくことになったからです。

 順番に学力とはなにかの定義を話すよう討論は進行していっていますので、Bさんは、Cさんの言葉を少し横におき、これから社会にでていく子どもたちには読んだり書いたりする能力、創造していく能力が必要であると述べられました。ここに、AさんとCさんの違いがありましたが、トピックにならなくて逆によかったです。つまり、Aさんのいう中等教育に進む子どもと社会にでていく子どもではニュアンスが若干相違するからです。

 最後にFさんは、学習の仕方、やり方を身につけること、学習方法を修得させることが現在求められている学力ではないかと、他の方が指摘していないご意見を述べられました。最後の発言者は、おうおうにして他の方のご意見の繰り返しになる場合が多い中、違った角度からの切り込みは印象に残ります。また、Aさんのご意見とともにFさんは学習意欲について触れられました。

 そして一巡したところでここから議論が本格化します。EさんがAさんの発言をうけ、塾で中学生を担当した経験から、割り算や少数を理解しないまま進学してきた中学生を指導する困難さを述べられ、わからないまま学年だけがあがる問題性に触れつつ、その結果、学習に対する集中力もなくなると指摘されました。さらに、Cさんの問題意識を汲み、たとえばひきこもりや不登校の子どもたちは、勉強がわからないより先に生活習慣が崩れていっているのが問題ではないかと議論をつなげられました。Eさんは、こうしたことから、生活習慣を自己管理するする力も学力に含めていいのではないかと主張されました。これがCさんの発言とともに波紋を呼ぶことになります。また、聞いている参加者も展開が変わったと感じられたところでした。

 生活習慣を自己管理する能力が学力であるという前提がおのずとできあがってしまったように感じられたDさんは、しんどそうな小学生をみてその理由を聞いてみると、「朝食べていない」という返答があったということを報告され、学校と家庭がタッグを組んで生活習慣を整えていかなければならないとご意見されました。

 討論が微妙にテーマからズレていっているように感じられた部分です。

 さらにCさんから、学びんぐサポート経験が語られ、不登校の現状をどうみるかと、テーマからのズレが鮮明になってしまいました。学力論と不登校問題とは、深いところでつながっているのはワタクシも同意するのですが、現在求められている学力というテーマに対して、生活習慣、そして不登校とトピックが移動すると、採点官役のワタクシとしましても困惑します。Cさんは、無自覚ではあるでしょうが、問題意識が強くて不登校など学校をめぐる病理の解決の方に論をもっていこうと「誘導」されていたようにも感じられました。討論参加者にもそう思われた方がいらっしゃったようです。ただ、こうした問題意識が強いことは、それだけCさんがこれを深く考えようとされているわけで、それはきわめて大切なことです。

 こうしたズレを含む展開は、はじめて会ったものどうしですし、調和をはかるのは難しいものです。それをなんとかしようと、Fさんが、学習用具の話題を提供されました。学習に対する姿勢が児童生徒の持ち物に、自然、あらわれるものです。忘れ物の多い子どもは、その子ども自身の「注意度」にも依るとともに、家庭の教育に対する「関心度」にも依りますね。このほか、給食袋や体操服袋の汚れ方や、学校に持参する様々な教育的小道具の状態に、家庭と学校との接点を見出すことは可能でありましょう。このFさんの発言は、こうした議論を掘り起こすだけではなく、Fさんの内面的感覚としても、聞いている側の客観的感覚としても、議論を立て直す発言です。このように両者から捉えられているところに、討論に対する貢献度つまり評価が認められます。というのは、議論が上のように撹拌してきたとき、もう一度、純粋にテーマに即した「学力」問題へと舳先を切ろうとしているからです。不登校や、生活習慣の話題を、学習用具を話題にすることで受けとめ、かつ、鉛筆や消しゴムが揃っている児童生徒の状態が、学力を身につけさせる前提になるとして、ここから学力そのものに話題を戻す契機になっていることが理解されるからです。ただ、このあと、Dさんの発言が、ものを大切にしない子どもが増えているという論調となって、また別の方向にいかないかどうか、少し心配ではありました。

 議論の立て直しは、Aさんの発言にもうかがわれます。前の議論をスパーンと切り捨てて、もう一度学力とはなにかに立ち戻り、ご自身の教員経験から、難しい問題も自分の力で解決するためにはどうすればいいか方法論を提供されました。それがスモールステップを設けて子どもを理解に導く、達成感を味わわせるという発言となりました。個人の課題解決の方法論、そして問題解決の先に、教員として「感動する心」を子どもたちに身に付けさせたいとのご意見は、力強いものでした。これを受け、そうした学びへの姿勢をどうすれば自覚させられるか、Cさんから発言がありました。子どもは、「やれやれ」とせかされてもそう簡単には勉強するものではない、だから、態度で示すことが大切なのではないか、と。大人の姿勢を子どもは観察しているのだから、教員をめざす私たちを含め、大人一般が学びへの姿勢を示すべきである。読書についてもそうだろうとのことでした。ここには、教員の「常に学ぶべき姿勢を忘れない」という教員という存在への反省が確認できます。教材研究にせよ、生徒指導の実践力の向上にせよ、それを自分たちの課題として強く主張することが、採点官へのPRになりますね。

 Eさんからは、先生だけが学びへの興味関心をもたらすのではないという意味で、友人に触発された経験を披露してくださいました。Dさんも、友人と学びあい、切磋琢磨する重要性を指摘し、自尊感情の形成が大切と述べられ、学習の前提に子どもたちの相互の尊重があって、それが学級の学ぶ姿勢を強化するという内容を主張されたと思います。とすれば、Cさんのいわれたように、学力の向上の根底に良好な対人関係の形成が望まれるというのも当然でしょう。

 ここでEさんが、情意の伸張と学力の形成の問題は区別して捉えていたと述べられ、それが過ちであったと教育実習経験から教えられた旨、報告的にご意見されました。国語の物語の授業において、登場人物の心理を追いつつ進めていくやり方は、単に知育ではなく、心情理解というところから人の心を理解しようとする情意感覚の向上につながっているのを、実習の担当教官から教わったということです。

 この発言をはさみ、Bさんから、自尊感情、セルフイメージ(セルフエスティーム)を高く持たせるにはどうするべきかと問われ、自分を表現できる場所をみつけられるかどうかがきっかけになると述べられました。体育のできる子は、体育の授業におけるモデル例に登場させることで、自尊感情が満たされ、自分を認めてもらえる場となると、現場をイメージしながら述べられました。では、特別支援の場では、これはどういうようになるのかとDさんにバトンがわたり、以降、特別支援教育における学力形成がトピックになりました。

 学力の基礎を築きにくい子どもがいる、LDの子どもが6%も存在することをどう捉えるか。いわゆる健常児の学級にLDやADHDの子どもがいる場合、どのように学級全体としての学力形成を進めていくべきなのか。Dさんの提供されたこの問題は難しい課題です。

 討論の豊かさが、こうした特別支援に話題が進むことで感じられました。Fさんから、障がい児だからといって区別してはならないと別学体制批判の意見もでましたし、Cさんから、知的障がい児に対する指導、叱り方のご意見も登場しました。さらには、簡単な算数の問題を解くにも時間がかかる実態をどのように解決し、障がい児の成長を見守るべきかとAさんが述べられました。生活に役に立つ知恵を伝えさせる工夫をするべきとのことです。そのためには、学べば伸びるという教育の可能性を信頼し、課題を細かく分け、私たちの指導が障がい児にしっかり伝わるようするべきで、彼らが学びへの階段を登れるようにしたいとFさんが述べられたところで時間がきました。

 現在求められている学力とはなにか−これがテーマでした。最後に欠落したトピックを単語で示しておきましょう。小人数教育、能力別学級編成、OECD、ゆとり教育などです。学力をどう捉えるか、評価の問題もあるでしょう。多様なトピックの形成が、この一行のテーマから可能です。豊かな討論を求めて、さらに邁進しましょう。それは、単に教採合格を越えた、みなさんの教育的な問題関心の深さに支えられるものでしょう。

 あす、もうひとつのテーマについて考えていきましょう。
(8/26)

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昨日は、当サイト主宰・第48回教育学勉強会に多数ご参加いただきありがとうございました。昨日は、平日にもかかわらず、男性4名、女性10名の方にお集まりいただきました。新しくご参加いただいた4名の方、いかがだったでしょうか。新鮮なご意見をいただき、ありがたく思っております。いたらぬところがあることは重々承知ではありますが、ご参加のみなさんの要望を受け容れつつこの会合をよりよく発展的に「創造」してまいりますので、今後もよろしくお願いいたします。

 さて、昨日は、集団討論を2テーマ、場面指導と個人面接を実施いたしました。討論のテーマは、「現在求められている学力とはなにか」と「部活動の意義について、担当できる部を報告しながら議論せよ」でした。

 場面指導は、小学校における理科実験室使用にあたっての注意を授業でしている最中に、授業妨害の態度や言葉を投げかけ、その対応をみる、というものでした。

 個人面接はひとり15分程度、突っ込み満載の少々圧迫型を採用しています。

 個人面接では、右欄のシートを活用し、コメントを各参加者が記入、それを交換するといういつもの手法です。個人面接は、10名以上の参加者の前で、ということは衆人環視の下で、面接官役であるワタクシが対象者に質問を投げかけます。それを参加者全員が聞いている。いってみれば10数名の目が対象者に注がれるわけです。かなりの緊張を強いられるでしょう。だからこそ、これを乗り越えられれば、度胸がつきます。しかも、参加者それぞれの視点からのコメントが得られることになります。

 1次面接とちがい、2次面接では、かなり突っ込んだ質問が想定されます。「対象者の人間性を引き出す」観点から、対象者の返答に突っ込んでいきます。付け焼刃では対応できないですね。ワタクシは、できるだけ面接対象者をシドロモドロになるよう追い込む。対象者は、逆に、一本筋が通った受け答えになるようがんばる。

 面接は姿勢です。それは、背筋が伸びているなど外面的なものも含みますが、発言の一貫性、上にいったようにシドロモドロにならないしっかりした自己をお持ちであるかどうか、ということを意味します。自分の発言した言葉に責任を持つといいますか、ある種の力強さが感じとれるかどうか、ではないでしょうか。しかもそれが横柄でなく、説得力がなければならない…。難しいものです。

 ところで、みなさんからの受験報告をナマでお聞きして思うことは、自治体によって面接のやり方がウマイ自治体、ええかげんな自治体があるなあということです。大阪府・市はいづれでしょうかね。膨大な数の面接を捌くと、なんらかの見落としがあるものです。面接を受けられる方は、「印象に残るなんらかの工夫」を是非ともすべきでしょう。

 思うに、面接官は、質問することに必死で、加点式か減点式か、面接評価の方法は多様ですが、なかなか採点するところまで気がまわりません。何十人、何百人やってるうちにフラフラになります。それは事実です。だからこそ面接官は複数人を用意されます。また、ちょっとした失敗を咎められても、そんなところが評価の対象にはなりにくいです。小さな失敗を面接の途中でクヨクヨするより、結構大胆に最後まで切り抜けるようにした方がよいです。面接は与えられた時間精一杯表現している受験生に対する総合評価だからです。

 ワタクシは、個人面接の面接官役として、のべ人数でいうと100や200はみています。そうした経験からいえることを上に書いています。しかし、この意見はワタクシのもので、それがそのまま各自治体の面接官に共通するものとはいえません。しかし、「面接は姿勢です」というのは、真理ではないかと考えています。10〜15分の受け答えでなにがわかるのか、というご意見もあるでしょう。だが、相当みえてきます。

 面接官は多様な受験生をみていますし、なによりも多くの児童生徒を育てている方々です。したがって人間を類型化し、ある人とあって二言、三言、会話すれば、その人物がどういうタイプであるのか判別します。まま、予断や先入観があることは否定できませんが、そうでもしないと数多の人数をみる採用試験をこなすことはできないでしょう。

 ワタクシの経験からいってもそうで、自分自身の持っている人間類型の、どのタイプ、パターンにあてはまるか、みています。その人間類型の豊富さが、面接評価のヨシアシにあらわれてくるものでしょう。

 面接について、長くなりました。討論の模様再現は、あすにいたします。
(8/25)

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(再掲)ひょっとすれば、当サイトをはじめてご覧になる方が、本日もいるかもしれません。場合によっては、失意の内にフラフラとこのサイトに寄っていただいた方かもしれません。

 教員への道は、ことのほか厳しいものです。フラフラとしながらもこのサイトに辿りつき、この文章を読まれている方々は、「挑戦」を忘れていない方でしょう。不合格がわかってすぐに来年を考えるのは酷なことかもしれません。でも、早いリスタートをするほかありません。なぜなら、「教員以外は考えていない」と、覚悟を決めている方だからこそ、このサイトに寄っていただいていると思われるからです。

 自分の敗因を分析するのは辛い仕事です。しかし、そこから次の一歩がはじまります。敗因がなかなかに見つけられない方もいるでしょう。だが、どこかにある。それを見出して解決すること、これが「自己指導能力」なのでしょう。

 さらにいえば、教採の面接でうまくいかなかったとしても、それは「人格否定」ではありません。「人格否定」を教育委員会の人々がするはずないでしょ。ただ、人間的な魅力をもっとしっかり表現できるようにしろということ、自分自身をもっともっと見つめ直してこいということを意味しているのではないでしょうか。総合点で1点に泣いた方も多いと思います。それを埋める努力を1年かけてしましょ。

 いつもいう言葉ですが、教職は人生を賭ける価値ある職業です。そこに就く覚悟と力量が身につけば、誰でも合格します。

 当サイトをご覧のみなさま、おそれいります。お願いなのですが、1次、2次試験の情報を募ります。とりわけ、集団面接や討論、面接個票関係につきましてお教えくだされば幸いです。来年度を目指す受験生に、愛の手をお願い致します。また、7月末のことで若干前になりますが、大阪府・市の1次における集団面接の質問事項を箇条書きで教えてくださることを期待します。もしご好意いただけますなら、その際、当サイトにアップ許可をご明示下さるようお願いいたします。
(8/24)

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この17日に開催した第46回の勉強会における集団討論の様子を報告します。この日のテーマは、15期答申のいわば「公式」である不易と流行について、再度議論していただきました。このテーマは、1度議論していただいたことのあるものです。テーマそれ自体は、「教育における不易と流行を具体的に議論せよ」でした。7名の方に25分間で討論していただきました。

 あらかじめ申し上げますと、この討論では、参加者それぞれが頭に描いていた「不易」と「流行」について報告するような「発表会型討論」となりました。したがって、議論の噛み合わせがあまりみえないものでした。そこが最大の反省点であると思われます。参加者が順番に、「不易とは・・・である、そして流行とは・・・である」ということを発表していったわけで、参加者の意見が建設的に発展的に進んでいく様子が残念ながらみることができなくて、「おもしろくなかった」という感想が、討論終了後ありました。

 これは、テーマを提案するワタクシの責任でもあります。発展型討論となり得るようなテーマを選択提供しなければならない責めがあります。なかなかしかしそうしたテーマは少なく、また、参加者の個性によっても左右されるものです。テーマの出題に関しましては、ワタクシの現在の問題意識から提供する場合が多く、そうしたバイアスがかからないようにと、参加者からのテーマ募集をしています。今後もやってみたいテーマをお寄せください。ここ最近のテーマは、そうした、参加者から寄せられたものでした。

 参加者7名をA〜Gさんとして、例によって討論を再現してみましょう。

 口火を切ったのは広島から参加されたDさんでした。Dさんは、不易を心の問題と捉えられ、今も昔も変わらず大切にすべき価値あるものであるとおっしゃられ、流行とは時代にあった教育、たとえば情報教育がそれにあたると述べられました。これを受け、Cさんが不易とは、子どもに接する教員としての態度であるといわれ、流行は体験活動ではないかといわれました。Cさんの不易の指す意味内容が「教員としての態度」であるかどうかは問題のあるところです。Fさんは前者を教育的愛情といわれ、後者は情報教育であるといわれました。Bさんは、前者を教師の愛情と信頼、後者をカウンセリングマインドといわれました。Aさんは前者を心の問題、後者は情報。Eさんは、前者を生徒の心の面をみて「すなおさ」といわれ、後者を情報化社会においてどのように指導していくかということであるとご意見されました。最後にGさんは、前者は人を思いやる心、後者を情報教育と述べられました。

 このように綴ったことからわかりますように、参加者においてほとんど出てきた意見が同じなわけで、これでは、どうもおもしろくないのですね。

 このように一巡してから、ポツポツ意見が出るのかと思いきや、またもや遠慮しあって発言の順番を守って発表していく形態でした。だから問題意識の連鎖が生れない状況になる。これでは討論とはいえないでしょう。単なる喉自慢発表会です。このようにかなり厳しく書きますのは、本番でこれでは苦しい評価だろうからです。

 このほか、各参加者の発言を拾っていきますと、Aさんは、情報化社会に関連して、10年前にすぐさまわからなかった情報が、いまではPCなどを活用してすぐに手に入れられる。このことは、便利である反面、何でもすぐにわかってしまうので知的好奇心が低下するのではないかと述べられました。さらに、従来の価値観から新しい価値観に児童生徒が転換する状況をどう捉えるべきかという問題を提起してくれました。最初この表現を聞くとわかりにくかったのですが、具体的に、「お金持ちになりたいという希望が、高校になると楽に生きたい」というように変化していくということであるようです。この「お金持ち」は、ひとつの例ですから、Aさんがいわんとしていることは、単なる「金持ち」ではなく、そうなるためには何をすべきかということを考える「価値」を指すものと思われます。また、心の教育に関連して、一人ひとりの持っているものを表現させることが大切である、そこから、自分にとって大切なことを発見させたいと指摘されました。

 Bさんは、情報教育に関し、情報機器は手段であって目的ではないことを生徒に伝えるべきだと述べられました。また、学校教育に携わる立場から、生徒の「ああしたい、こうしたい」をすべて聞き入れることはできないのではないかと喝破されました。学校は、流行を追い求め、生徒の「やりたい学び」をすべて引き受けることはできないということです。たしかに迎合的態度はマズイですね。そして、最近の生徒は自分の都合でよい結果を得たいと考えているといわれました。ここでいう、自分の都合=努力をしないで、ということであり、忍耐力の欠如の指摘です。

 Cさんは、情報教育に関し、@プレゼンテーション能力の育成をどう指導できるか、Aインターネットにのめりこみ過ぎるのをどう防止するか、ネットモラルをどう教えるか、PCをしっかり使いこなせる能力をどのようにして教育課程で実現できるか、ということを主張されました。これにつづけてキャリア教育のことをの話されたのですけれど、これがどのようにテーマとつながっているのか不鮮明でしたので、そこを考えてください。

 Dさんは、不易と流行の具体的内容を最初に述べられたのを敷衍し、この両者は車の両輪であって、分けて指導することはできないと述べられました。不易の中身を流行で確認するということでしょうか。ちょっと難しく感じました。実際、不易と流行をわけて捉え、同時に指導することが求められているのはまちがいありません。もう少しそこを具体的に語っていただきたかったです。また、不易に関し、家庭の中で思いやりの心は育っていくものであるといわれていました。お家の用事を手伝うことがひとつのきっかけとなると考えられているようですね。

 Eさんは、不易な価値を追求し指導していく現在にあって、児童生徒が人間関係をうまく構築できないことを指摘され、その点が昔とは変わってきているということを述べられました。Eさんには、ここのところをもう少し具体的にわかりやすく展開してもらえたらわかるのになと、聞いていて思っていました。なぜ、コミュニケーション能力を培うことができないのか、これを流行と絡みあわせて立論すればよかったのではないでしょうか。

 Fさんは、発言量が少なかったですね。その中で、情報を探し出す喜びについて主張されていたのが印象的でした。Aさんとは反対の意見で、なにが議論が生まれるかなと期待していました。ちょっと時間が足りなかったようです。

 このように、今回の討論は物足りなさを感じる討論でした。なぜこのようになったのかの一端を、上に厳しく指摘しています。しかし、実はそれだけでなく、今回の討論参加者のメンバーに、今回新たに来られた方が多かったということにも原因がありそうです。まったく新しく参加された方とどのようにして討論を作り上げていくか、難しいものです。それがリーダーシップに関わる評価につながるのでしょう。集団討論の難しさがここにあります。

 討論が終了し、この後は、個人面接、模擬授業を数名の方にしていただきました。個人面接については、圧迫面接を少し取り入れました。質問に答えられた内容に、突っ込んでいく手法です。また、主張されたご意見をあえて否定し、参加者がどのような態度をとるか、確認しておりました。ひるまないでがんばっていらっしゃり、全般的によかったです。

 あす、はやくも第48回の勉強会開催を迎えます。あすはおひとり枠がまだ空いています。参加ご希望の方は、メールくださいね。

 「歴史論考」のコーナーに「教育秩序の再編と『新たな「公共」』」をアップいたしました。ちょっと長いものなので、お時間ありましたらチェックお願いいたします。
(8/23)

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とぎれとぎれの更新で失礼しております。ようやく締め切りを終え、サイト運営を正常化しようと思っております。

 ここ数日、広島では自主的な勉強会が開催され、とってもウレシク思うとともに、ワタクシが広島にいけないということにおいて、残念に感じております。来年度、広島2次対策勉強会をワタクシの主宰で行ないたいとも考えますが、さすがに手弁当では苦しく、二の足を踏むやもしれないところです。

 本日は、大阪府の2次試験(筆記)ですね。いかがでしたでしょうか。ご健闘をお祈りします。2次の筆記対策は各教科にわかれ、ワタクシ個人ではとてもとても手に負えるシロモノではありません。忸怩たる思いです。各自の奮発を願います。

 また、連日のように各「こくばん」に書き込みいただき、ありがたく思っております。今後も、価値ある書き込みを期待すると同時に、ボランティア・マスターに助けられつつ、ワタクシもレスに精進します。富山をお受けになられた方の厳しい結果を読むに、ワタクシとても、どう返答してよいのか迷うばかりでした。そんなところに、あたたかい書き込みが寄せられているのをみまして、ある種の連帯が「こくばん」を通して隆起しているように受けとめられ、広島の例と同じように、これまた管理人冥利につきます。今後も、よろしくご活用お願いします。
 さて、遅れに遅れていた勉強会の報告をいたします。まずは、この13日に開催した第45回の集団討論の様子を報告します。この日のテーマは、今年度多数の自治体で議論されたやに思われる「NEETやフリーターが増えることで社会に与える影響を議論せよ」でした。このテーマは、過去の勉強会でも議論したことのあるテーマです。勉強会に参加いただいている方から募ったテーマでもありました。討論は25分間、6名の方にしていただきました。今回も仮りにA〜Fさんとして、議論を再生してみましょう。発言順に追っていきたいと思います。

 まず、Eさんから、2007年から労働力人口が減少すること、NEETとはなにかの定義、が話されました。34歳までに定職を持たない状態をフリーターをいいますが、それは34歳以降においては社会的に就職が困難になることを意味していると述べられました。これにつづき、Bさんから、このテーマのように、NEETやフリーターが増えれば日本の将来がどうなるのかを語られました。それは、納税する人口の減少、社会保障制度の崩壊、という状況を作ります。

 両者のご意見から導かれるのは、教員として児童生徒にどのようにして職業観をもたせるか、ということです。Fさんは、NEETが増加するのは日本社会にとってダメージ大であり、それはスキルの低下という点でもそうであると述べられました。これを大きくまとめてFさんは、「日本文化の衰退」と捉えられました。ここのところはもう少し内容に厚みを持たせて発言されると、「文化」の中身がわかってよろしかったのではないかと思われます。Fさんは、「とりあえずフリーター」という風潮をなんとかしたいと訴えられ、それは個人が目標を持つことに尽きると述べられました。

 Cさんは、これまでの議論をお聞きになり、NEETやフリーターの問題は、財政、文化など多方面にあらわれると総括され、定職につかない若者の増加は、家族を形成できないことにつながるのではないかと新しい視点を提供されました。これは当然ながら少子化を考える視点にリンクしますね。また、晩婚化の問題を考えることにもなるでしょうね。AさんはこのCさんの発言を受け、社会保障制度の財政負担者が減ることを述べられつつ、それを解消するには学校で働くことの意義を伝えなければならないと主張されました。ただし、大学卒業を含めれば16年になる期間の長さを問題にされました。社会に出るまでのモラトリアムの時間の長さを気にかけられていたようです。たしかにこれは問題で、今日、どのような方面であれ、スキルを手にいれるのには時間がかかりますね。これは、でませんでしたが生涯学習と関わりあう論点の提示を可能とします。

 Dさんからは、やりたい仕事がみつからない児童生徒が、適性の発見につまずく状況があるといい、何になりたいのかみつけられる教育を用意すべきではないかと提案されました。とすれば、働くことの意義を理解するために、就業体験の話にうつったのは妥当でしょう。Cさんが地元のスーパーレジ体験を実践していることを話題提供され、働くことの楽しさと同時につらさを実感させることこそ学校に求められると語られました。それがNEETを食い止めるのではないか。

 また、Fさんからは、NEETを「している」のであるけれど、共同で喫茶店を開いて運営する行動的なケースもあると教えてくださいました。また、学校が、「父の働く姿をみにいこう」企画をたて、児童生徒が保護者の社会的なポジションを知ることも、NEET解消策になるのではないかと提案されました。

 ここでEさんから、「働くのは食べていくため」というご意見がでました。この意見が後々、参加者、傍聴者から議論のまとになったのですけれど、この当然の主張に不自然といいますか、それをいっていいのかどうかわからないと感じるみなさんがいらっしゃるのが、ワタクシにとっては新鮮でした。といいますのは、うえに紹介していますように、学校と職業との関係では、理念、意義を伝えることに課題があるように捉えられています。つまり、職業観が重視され、働くもの食うべからずというもっとも原始的といいますか、基本的なことが忘れ去られている学校現実にわざわざ触れなくてもいいのではないかという空気がこの討論では支配的だったのですね。

 ところで、フリーターが長引けば、Bさんのいわれるように、無職期間となって、採用面接官に「いままでなにしていたの」と突っ込まれることにもなり、実際困るでしょう。理念的にいって、フリーター期間が長いと社会の一員であることを忘れてしまうことにもなりかねませんね。では学校が何か新しい方策を用意できるのでしょうか。この点、多様な職業があるということを実感させる企画として農村体験、山村留学についてAさんは主張されました。デスクワークのほかの職業の提示です。そして、こうした学校における活動が地方の活性化につながると議論されました。

 また、新しい職業の開拓とNEETの関連から、介護・福祉の正しい姿を学ばせるのもよいというご意見がEさんからでました。こうしたAさん、Eさんのご意見を受け、Fさんから、講師経験者の方が討論参加者にいらっしゃったら、実際にどういうふうに職業教育を実践された経験があるか質問を投げかけられました。ご自身の講師時代の経験も語られ、高校を中退してフリーターになった生徒のことを保護者の苦しい立場も合わせて報告されました。もちろん守秘義務の範囲内においてです。Bさんがこの質問に答えるようなかたちで、講師としての職業教育経験ではなく、ご自身の体験をお話されました。Eさんからは、「まずは働け」という政治家のいい方を問題視しつつ議論をつづけようとしたところで、タイムアップとなりました。

 討論全体を通して、議論の重なりあいを見出しにくいと感想を述べられた方もしらっしゃいました。ワタクシは、盛りだくさんの話題が登場し、それをNEETと関わらせてなんとか議論しようとする姿勢を評価したいと思います。

 さて、後半は、個人面接、模擬授業を合計6名の方にしていただきました。模擬授業は、四則計算(小学校)、ベクトル(高校数学)でした。

 あすの勉強会、総仕上げの意味で参加される方もいらっしゃると思います。充実した時間にしましょうね。
(8/20)

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