日々旁午

2004


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本日は勉強会を開催します。テーマに悩んでいましたが、先ほど決めました。ところで、ちょっとお知らせですが、少し前に勉強会のことについて書いたとき、ALTの方に来ていただく、というようなお話を書きました。現実味を帯びてきました。日付けはまだ調整しなければなりませんが、年内可能な状況です。17:00までの勉強会の終了後、コーヒー会に来ていただき、英語の討論とまではいかないまでも、フランクに語れる機会を設定したいと思っております。昼からの勉強会を控え、本日はこれにて御免仕候/私信・とりこさん、連絡したものと思い込んでいました。メールお送りしています。ご覧ください。そのほか、勉強会ご案内メールが到着していない方はいらっしゃらないこととは思いますが、なにしろ日に50通のメールになにがしか関係しており、またワタクシひとりで全部対応しておりますので、なんらかの不手際があるやもしれないのです。みなさまお許しください(9/20)

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明日は勉強会を開催いたします。参加されるみなさま、よろしくお願いたします。2次試験終了にもかかわらず、その報告や今後の勉強の在り方を確認されるために参加される方々もいらっしゃり、ありがたいことです。集団討論や面接は、ステレオタイプの応答が求められているわけではありません。「kou君」シリーズに述べていることですけれども、指導要領や答申はベースとして活用するところに意義があります。それを単に憶えて述べるだけでは、面接官は決して面白くないでしょう。だからといってまったくベースに基づかず、空想的な事柄を提案しても、それはどうかな、ということになります。つまりはベースを咀嚼した上で、自分なりの発想や考えをどのように表現するかにあるといえるでしょう。しかし、そこまでに自分の主張を高めるのは、2日、3日で可能なことではありません。しかも、そのように練り上げたとして、7〜8人の集団の中、自分の主張がいい切れるかどうかもわかりません。それを補う役目も、個人面接にはあるのでしょう。「さっきの討論、いかがでしたか」と尋ねられるのは、その事情を証しています。しかし、自分なりの発想や考えを集中化して、個別のテーマに拘泥せず、自分なりの教育的な理念、信念を築くことこそが、一番大切な作業でしょう。そうした教育に対する熱い思いを持っていることが、あらゆるテーマに即して語ることのできる核心になるということです。そうすれば、揺れない自分ができるとともに、他者を受け容れる態度もできます。なぜならワタクシたちは、他者の「核心」に非常に興味をもっているからです。核心を築くことは、教員としての出発に不可欠です。そこがヤワならすぐに辞めてしまいます。そんなものです。現場の苦しさは詳説するまでもなく、みなさまの方がよく知っていらっしゃいます。そんなところに赴任するわけですから、確固とした核心が受験生の時になければ、それは通用しませんね。いわゆる“覚悟”が要求されているといってもいいのではないでしょうか。2次の傾向は、しかし、きわめて実践的な問いにシフトしているようです。すなわち答申的な議論をするのではなく、もっと生徒指導の実践やクラブ活動のポイントなど、即戦力的態度がとれるかどうか、そうしたところを測定しているようです。しかしまた、生徒指導ひとつとっても、それが教育的な理念、信念あるいは核心から離れたところからの単発的な指導に終始するならば、児童生徒の心に響くでしょうか。そんなことはありえません。ところがその核心も、いつかは色褪せてきます。そんなとき、がんばった受験時代を思い出し、そこに新しいペンキを再創造するきっかけを見出すものでしょう。そうした意味では、当サイトの主宰する勉強会が、いわば「心の故郷」になるとすれば、とっても幸せなことです。そして、色褪せてきた教育的な信念や中核は、さらに磨かれ、また「10年経験者研修」で一層確かなものに生まれ変わるものでしょう。5年、10年たてば、そうした教員としての自分を問い直す時期が必ずやってきます。ワタクシもその例外ではありません。みなさん、自分をいつも作っていこうじゃありませんか(9/19)

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物事はあとまわしにしてはならない。これは小さいころは家族から、大きくなってからは先生から、よくかけられる言葉であろう。春先のちょっとした出来事で、あるいは裁判になるかもしれない事態を迎えている。まあ、弁護士を頼むことになるかもしれないが、ざっくばらんに応ずるほかあるまい。全部の説明は秘すが、ただ、内容を確認させず捺印を強制されたことについては問題があると思っている。いままでイロイロなことを経験し、勉強し、理論的なことにとっくんでいたワタクシだが、ケーススタディのサンプルになるかもしれない点では意義あることかもしれない。憲法にせよ、刑法や民法にせよ、判例が積み重ねられることによって新しい生命の息吹が吹き込まれる。そこに一市井の人間の世界観や法意識が、かすかに折り込まれていくわけである。まさに「憲法は生きている」といえよう。法学を勉強するのは、ワタクシたちの日常生活が法によって守られ、あるいは対決の姿勢を要求するからであり、経済学を勉強するのは、これまたワタクシたちの生活がサイフを中心に回っている現実に目をやり、その効率的な在り方を追求するためであろう。では、教育学はどうなんだろうか。何を追求するべく勉強するのであろうか。教育も社会に欠かせない固有の領域であることはまちがいない。教育学は、歴史的に人間生活を豊かにする問題意識をもつがゆえに、そのあくなき模索がある。教育行政の検討や教育思想の問い直しもそうであろう。そうだとすれば、はたして、最近文相が主張している義務教育における留年制度は、現時点で妥当な議論なのかどうか。こうした国家教育行政の態度はズバリと切り込んできて、すがすがしさを感じさせる一方、その背後に教育制度設計の困難さを予想させる案件が多い。留年を設定したことによる義務教育年限の児童生徒数の増加の問題、留年を判別する成績評価の透明性の問題。児童生徒数増加による教員雇用の問題つまり教育財政の問題、進路における年齢の問題、ひいては将来の就職問題にまでかかわる。現在の社会においても、一般論として、浪人には大学入学というはっきりとした目的があるのである程度就職先企業の見る目はおだやかである。しかし、大学時代における留年は、なんらかの合理的な目的意識なしであった場合、印象が悪いとされている。とすれば、義務教育年限における留年は、どのような意味をもつものになるのであろうか。「うしろのこくばん」にも提言をいただいているが、ワタクシたちが「チーズを食わせる」などして、「楽しい授業」をなんとかして紡ぎ出す努力を果たそうとしている最中に、留年、留年と教育行政のトップが述べるのは、寂しい事態ではあるまいか。やっぱり「教育学は生きている」のである(9/18)

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みなさま、本日は旁午お休みさせていただきます。17日朝はやくから打ち合わせがあり、どうも文案作成する時間を前日の内に作ることができませんでした。申し訳ありません。それから、当サイトに、かなり多くのメールが届いており、それらに返信をしなければなりませず、どうにも時間が作れなかったのです。だからといって「メールよこすな」というわけでは毛頭ありません。いただいたメールにはすべて目を通し、ご返信させていただいております。もし返事がないとお叱りありましたら、先日のPC故障ゆえでありまして、もしよろしければ、「ご立腹メール」をくださいませ。すぐさまご返信さしあげます。いや、ほんとに秋の気配が漂ってきました。こんな気候を感じられるのも、もうあと40年くらいなんですね。これを読んでびっくりしています(9/17)

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ふと南の空を見上げたくなるときがある。ロマンチックでしょ。仕事やなんやかやに疲れたら、南の空をみることにしているのです。ぼんやり。願いごとをするほど空想家ではないんだけれど、願いごとをしています。「いい先生がひとりでも誕生しますように」。ところで「青森のこくばん」開設しました。マスターにお2人もご応募ありがとうございました。ご連絡差し上げています。それから、NATSUさん、わざわざ試験情報の再送ありがとうございました。願いごとが叶ってウレシイです。はい。星は、人生どのように歩むべきかを教えてくれる存在だと、古代人は考えたそうです。現代人も、そう変わるものではないですね。オリオン座とか、こぐま座とか、いろんな星座があるけれど、先生座ってないですね。ははは。じゃ、また明日(9/16)

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自由、それは人間世界でつねに再確認を求められるべき価値である。ただ戦さに破れ囚われの身となり、古代ローマ奴隷船の「動力的装置」たる身分から逃れることだけを自由というのではない。手足にがっちりつながれた鎖から解放されることだけが自由を価値付けるものでもない。経済活動であれ、政治行動であれ、理性的な決断が国家の拘束なしに可能であるということをもって、20世紀の自由の価値の一つというならば、21世紀の自由の中身はなんなのだろう。ワタクシたちが、学校やスポーツクラブ、会社や趣味の登山会など多彩な部分社会に所属し、そこで楽しみあるいは苦しんで、自由を謳歌しているつもりでいる。だがそれは自由の価値への問い直しの停滞状況なのではあるまいか。また、なんでもかんでも好き勝手にやっていいと履き違えていた19世紀後半の自由意識たとえば文明開化期の、「盗っ人するのも自由でござる」的自由意識に対し、法や道徳を外皮に纏い、巧みに制度を設けて「楽園」を作ったつもりでいて、そこでの行為行動を自由であると思い込んでいたのが20世紀の自由意識であろう。もちろんそこまでに自由意識の成長を促した人間の営みには、尊い情熱が歴史的に認められる。しかし、そうした20世紀的自由価値から脱皮し、新たな自由の価値を追求するべきではないか。そうでなければ19世紀的自由価値に舞い戻ってしまう怖れがあるからである。たとえば学校世界で、自由の名の下にどれほどの「勝手」が横行しているか、怪しむに足りない。それはなぜなんだろう。誰かヒントをくれ。究極に結晶した自由価値も、あるウィークポイントにタガネをあてて力を加えれば崩壊することを、この横行は実証している。人びとの19世紀的な自由意識への先祖がえりによる「横行」がそのタガネでなければ、そのタガネに相当するものの正体はなんなのか。誰かヒントをくれ。不思議な形容だが、規制的自由の中で生きてきた現代人は、本来自由を作り上げる立場にあるにもかかわらず、自由に飼い慣らされている。実践はすばらしいが規制緩和という言葉が、逆に、規制さえとっぱらえば自由だと思考する点で、やはり囚われの身といわざるをえない。自由は必然に規制とある種の桎梏を随伴するものであるが、自由そのものの本質は思想的に前進しないのであろうか。あるいは前進しているのに、その成長スピードが遅々としたものなので、検証できないでいるだけなのであろうか(9/15)

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2次試験も最終盤戦に突入しましたね。大阪では残すところ英語くらいになったでしょうか。是非、初期の目的を達成してください。最近、ノドから手が出るほど欲しい本があって、ヤキモキしています。「浩さん、そんなん買いなはれや」と京都弁で語りかける悪友もいます。でも、1冊2万、全10巻なんで、いくら商売道具であったとしてもおいそれとは手が届かない薄給身分。いまから12、3年くらい前だったか、そのときは有島武郎の全集が欲しくて東京神田神保町をさまよい歩いたこともあった。で、見つけて値札をみて落武者のように東海道を西下した。なつかしい思い出が甦る。今の社会全体の不況(そうでないと認識を示すひともいる)や出版業界の不況からすれば、よくまあ1冊2万の本を作るなあと呆れる人々もいるけれど、買うバカもいるのである。欲しいモノは欲しいモノなのである。ただ、買うバカたるワタクシに勇気と愛がないだけである。いや、無謀と所有欲がないというべきか。目にいれてもいたくないほど可愛がっていた万札に、ようやく羽が生えて飛び立つさまを、親鳥のようにあたたかく旅立たせてやる愛ほど尊いものはない。だが旁午読者よ、過保護になる気持ちもわかってくれるであろう。長い睫毛がなぜか追加され描かれるデイジーダックのようには、なかなかなれないものである(9/14)

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いやはやいろんなことがあった週末でありました。しかし今日は「外仕事」を早々に終了し、古本から虫が出てくるのか、ちょっと座るだけでなんだかムズガユクナル仕事部屋に、よせばいいのに長時間座りすぎて、腰がいたくなっています。ところでみなさま、有料論作文および面接個票添削に多数申し込みくださり、ありがとうございます。これほど反響あるとは思いませんでした。東北地方からのご依頼や、地元大阪からのご依頼など、ただいま急ピッチで着手しております。論作文および個票とも、パーソナルな側面にもできうる限り対応し申し込み者の期待に沿うよう努めております。従来の論作文道場にも久々に投稿いただき、ありがとうございました。こちらも手を抜くことなく対応いたします。ただ、こちらの方は必然的にお時間いただくことをお願い申し上げます(9/13)

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今日は所用あって、産経新聞大阪本社にいってきた。確認というか、なんというか、ある写真とその説明内容の文章掲載についての問い合わせにいったのである。ワタクシの回りの人々に関することなので、その内容は秘すけれど、大したことではない。ところで、営業部の人々はいいひとたちばかりである。懇切丁寧に東京本社と連絡をとってくださったり、メモをいただいたり、こんな一介のサイト運営者のワタクシごときにも、対応してくださるのであるから。ただ本社内部営業部に入る許可をいただくまでのガードは厳しかった。さすが新聞社だなと実感した。九州の新聞記者の友人は元気かなあ。ふっ、と思い出す。讀賣新聞に就職した可愛い後輩は、もうずっと前に結婚して寿退社しているだろうけど、いまはどうしているのであろう。そんな感傷にひたっているから、帰りに携帯を忘れて、自宅と本社を2度も単車で往復しなければならない愚を犯してしまった。あいかわらずワタクシは抜け作であった。携帯を取りに戻ってきたワタクシに、笑いながら返してくださったのは、かなり年配の記者であった。新聞記者になりたくて大学にいったというくだくだしい話をこの旁午に書いたことがある。興味ある方は、上の「サイト内辞書」で「新聞記者」とか「新聞」を見出しに検索されたい。まあ、こんなサイトであってもつらつらやっていると、いろんな関係が生まれるもので、変な話、東京のテレビ番組製作会社から教育番組への出演依頼が来たこともある。テレビに顔を出せるほどの美男子でもないし、ちょっと日にちが合わなかったのと、ほかにもいろいろあることどもを紹介してほしいということだったので、情報流出をおそれ断ってしまった。悪いことをしたと思っている。旁午読者諸賢の中にもサイトを運営されている方は多いだろう。運営の最大のツボはなにか。それは、ほそぼそ、息長く、である。それ以外に有り得ない。あと一月で当サイトも丸3年になる。今後もご愛顧よろしくお願いします(9/12)

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(前承)第2のテーマは、「評価は難しい仕事です。あなた方が評価について工夫したいところはどんなところですか、議論してください」というものでした。討論の出だしに、「成績をつけるのは悩む」と講師的現実を吐露していただきましたが、これはワタクシも含め、教員や教員を目指すものならば誰しもが抱いている感覚といえますね。さて、「評価」がキーワードですから、絶対評価や相対評価、到達度評価が議論にでてくることは当然予測されました。しかし問題はそれを自分の工夫・提案として色付けできるかどうか、そこにこのテーマの本質があります。こうした、評価をめぐるいわば制度的な枠組の議論は開始数分で終わり、評価する教員の姿勢、つまりワタクシたち自身の心構えを論じ合うように変化しました。それが「工夫」としてあらわれました。テーマの本質を捉えている証拠でしょう。議論を見守っていて、このような流れる転換は、論旨の節目がはっきり認識できて聞きやすかったことを「評価」いたします。その転換以後は、評価が生徒だけでなく先生の自己反省を求めるものなのであって、そのために生徒の実態把握が欠かせない、ということがちらほらでました。つまりは、多様に、複数の角度から生徒をみつめ把握する能力がワタクシたちになければならないのであり、生徒の生活をつかまなければならない。だが、このことに関する教員間の情報交換は思ったより難しく、ここをどのように解消するか。それは連絡の場の設置ということになります。評価にぶれや揺るぎがあってはなりませんから、ある程度は職員会議または教科担当者会議で共通した評価基準を設けなければなりません。しかし、これはワタクシの感想ですが、今日、校長の上意下達機関と化している職員会議で基準決定が実現できるかどうか、さらには生活態度を個々の生徒に密着して観察できる余裕があるかどうかという疑問ももってしまいました。しかし、できないと諦めたらそこで終わりでして、若々しく理想を語った解消策の提案があればよかったなとおしみます。それから、「先生の自己反省」ということに関しては、カリキュラム編成に対する反省をも議論の俎上にのせることができればよかったと思います。さてさて「工夫」ということに立ち戻ると、成績を減点方式でなく加点的態度で実施する手法を採用したいとご意見が出ました。さらに、点数ということから外発的動機付けから内発的意欲に転換する手法に話しがおよびました。大の大人がスヌーピーの「よくできました」のハンコをカバンにしのばせているのは、結構お茶目であります。電車で忘れ物しないことを祈ります。ところで評価とは、生徒を前進させるものでなければならないという名言もありました。評価という言葉そのものを問題視する指摘もでました。ところが、よく考えてみると、生徒は「評価」という言葉にではなく「通信簿」という言葉にあるいは「怯えて」いるのですね。「評価」という言葉は先生たちの言葉であるということを再認識いたしました。そして、次に進めるよう「がんばるんだ」と書き添えることが、通信簿を無味乾燥な文書状態から抜け出させるコツであり、○×ではなく、「おしい、もうちょっと、だめ」というような表現を中学生に対しても有効に使うことによって、前に進める意欲を賦与できるのではないかとの指摘がありました。それはポートフォリオ評価の可能性を論ずることでもあります。つまり単なる記号評価が文章を伴った評価スタイルになり、さらに写真入り冊子になる。ワタクシは、権威ある文書としての通信簿を、「少年サンデー」ばりの厚みにして、こんこんと「多角的評価」を述べてもいいのではないかと、討論後、少し乱暴なコメントをいたしました。他方、記号評価の意味を問い直す発言もありました。誰もがパッと見てわかる評価をすることも現実的な意味を持っています。進路を決定するのに言葉の評価だけでは読み返すのが困難あるいは入試選別上シンドイということになるとすれば、5段階評価も価値が全くないわけではなく、その活用の仕方にかかっているといえます。したがって、相対評価と絶対評価のどちらを採用するかでもめている大阪の悩みは、先生の卵たる教採受験生の悩みでもあることを鮮やかに示しています。4と5の違いを教員は保護者に尋ねられ絶句することしばしばだとすれば、それは確定数値を安易に決定したと批判されても不思議ではありません。数値の持つ重みを知り繊細に扱う姿勢が生徒の信頼を得る道です。生徒指導だけが人としての行為振る舞いを教えるものではなく、成績のつけ方もそれを教えるものでしょう。冒頭に「成績をつけるのは悩む」とあるのはこのあたりの感慨なのですね(9/11)

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