日々旁午

2004


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サッカー選手を育てるんです、と宣言して中高一貫教育を運営するとは思い切った試みである。福島県もやるもんだ。国際スポーツ学科を準備し、1学級の英才教育展開である。そして、将来Jリーグ入りする選手を特待生制度もも実施してなそうというのであるから、全国から応募が殺到するのはみえている。いわゆるPL方式(野球)のサッカー版と考えればよいであろうか。スポーツ選手は幼少のころからそれとして鍛錬すれば成功の可能性が高くなる。ichiroをあげれば納得いく。オリンピック選手に対しても、こうした選別教育を世界がこぞってやっているわけであって、そのうち日本も右ヘ習えであろう。この記事を伝えているのは朝日新聞であるが、事実とはいえ、天下の朝日が「総合的なエリート教育も目指す」とこの連携型中高一貫校を紹介していることの方に驚いた。学力エリート養成校でなく、体育系のエリート養成校であるから、このように書いたのであろうか。明日のナカタやイナモトを育成する努力に福島県が取り組むことは、どのように評価すべきか。しかしこうした教育の在り様も時代の流れなのであろう(9/30)

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うーん、昨日予告したとおりになってしまいました。南の空をみあげながらがんばります。また台風が日本列島を直撃しそうですが、みなさまお気をつけください。変な気候変動ですね。こんな時は笑ってください。よろしければ今年の旁午1月14日をご覧ください。旁午の傑作篇にはいる小品と思ってマス。「ニャン」(9/29)

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いやまあ、27日は昼からほぼ深夜まで原稿を書いていたので旁午更新する余力がありません。申し訳ありませんが、お休みいただきます。代わりといってはなんですが、こういうページこうした記事、さらにここ、つぎにここなど、お読みください。しかしこういう記事を読むとどうなっているんだろうと他人事ではありません。また、こんな職務命令はどうなんですかね。神奈川ではこんなことになっているようです。ではまた明日、といいたいところですが、原稿終了がただいま焦眉の急でありまして、なんとか仕上げて旁午に尽力したいと思っています。本日はバラバラなリンクの嵐でございました(9/28)

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ゆびとま方式とはなにか。「この指とまれ」の略である。京都のFA制度導入は斬新であったが、これの杉並区版である。「東京都杉並区教育委員会は、区立の小中養護学校の校長が求める教師像を公表して賛同した教師が応募する公募制度を、来年度から導入する方針を決めた。校長が学校経営の方針を示し、教師が主体的に応募する仕組みを入れることで、区立校に活気と特色を生むのが狙い」(『朝日新聞』)らしい。校長の教育観に親和する教員に集まってもらおうという仕組みといえる。校長がリーダーシップを発揮し、特色ある学校を作るには、うってつけの募集方法であろう。品川区に刺激を受け、杉並もやるぞ、というところか。こうした「ゆびとま」など公募制は、教員採用試験の在り方を大幅に変えていく可能性をもっている。大雑把な一括評価⇒採用の道筋と違い、綿密な採用方式がまず可能となる。マークシート試験がなくなるかもしれない。小人数の応募者となるから、論作文や記述式を活用し、じっくり選別できる。しかし問題がないではない。校長の恣意的な判断に拠りかかることになるから、どこまで公平さが保障されるだろうか。情実人事、コネクションの疑いがかかった場合はどうするか。第3者委員会を設置しなければならない憂き目になるかもしれない。このあたりは校長先生の力量にかかっているが、ソニー方式の採用方法をとるべきか。卒業大学も、論作文の氏名もなにもかも、個人特定要素を含むものは真っ白にして採用に挑むのである。問題は、こうした採用のことより、学校追放にある。学校方針とかけ離れた教員がいるとすれば、そして校長の「すぐれてときめきたまふ」ことない教員がいるとすれば、トコロテン方式に出ていかざるを得ないのではないか。現職教員の排除ということになる。校長会が幅を利かせている昨今、その情報が他校の校長に伝わり、トコロテンになった教員は、行く先が見えなくなろう。時代の流れとはいえ、教育公務員の特殊性が全面に問われるようになってきた。教員はティーチングマシーンではない。多様な発想や思想をもち、児童生徒に向かってこそ、「教員」になっていける存在である。そうだとすれば、昔の師範タイプの再創造は避けたいものである。この記事を追加す(9/27)

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プロ野球界に激震が走って数週間になる。子どもに夢を与える世界だけに、その顛末に興味津々である。「たかが」発言が火をつけたと分析しているのだがいかがであろうか。あの言葉は選手に対する評価であったが、深刻に受けとめたのは選手というよりもむしろ、ファンであろう。選手を応援してるファンは、自分のことをいわれるよりも苦しい気持ちになったにちがいない。かくいうワタクシもその一人である。子どもが「な〜んだ、たかが選手なのか」と捉えてしまう恐れはないだろうが、複雑な気持ちにはなる。サービス精神旺盛な元オーナーの勇み足とかばう評論家もいるけれども、そうした擁護は掻き消されたようである。プロ野球は土着の宗教であると評する人もいるけれども、それももう昔のことであろう。いまやichiroの活躍をみれば、土着などという形容は的外れである。ワタクシなども、阪神戦よりマリナーズの結果に興味がある。いや、チームよりichiro個人に興味があるといったほうが正しいが。プロ野球が土着宗教的な感覚を発していた時代から、国際感覚を発する時代、それが21世紀といわざるをえない。プロ野球の世界にまで構造改革が及ぶのであるから、いわんや他の世界において改革が進んでいくのは当たり前である。古い酒に酔いしれる時代は終わり、新しい酒が用意されようとしている。そのサーヴァントにIT関連企業が進出しているというのもまた時代なのであろう。PCを日常的に使えるか否かが、プロ野球との距離を縮めるわけである。そろそろワタクシも、XPでも買おうかな(9/26)

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道徳とは教えるものか、伝えるものか。この古くて新しい問いに、今も悩む。学校を舞台にした京都の事件で生徒が逮捕されたり、教員が生徒の成績ほか実態をサイトで赤裸々に報告し免職になったり、学校的世界における倫理的状況がゆがんでいる。このような事件の底に、ワタクシたちが拠って立つことのできる社会倫理がないこと、あるいは社会倫理の地盤沈下が起こっていることはまぎれもない。それは「自由」についてこの旁午のコーナーで書いたことと少なからず関連しているであろう。ところでうえのように歴史的に伝達されてきているはずの社会倫理が極度に揺らいでいるとき、社会や学校はどのような対応をするのであろうか。東京都では、中学生以下の児童生徒に対し性交渉は未だ早いから止めなさい的な条例を作るそうだが、人間の自然が法規で束縛されてしまうような気がしてならない。そこまでプライベートを拘束しなければ、新宿歌舞伎町や渋谷センター街をかかえる都はやっていけないのであろうか。豪腕石原氏の手法は議論を呼び起こすと思われるが、こうもいっているのでよくわからない。男女は互いに敬重すべしとだけ、教育基本法的に定めておけば、後は個人の判断に任せるというのは古いのだろうか。この条例が確定するとすれば、学校における人間尊重の教育や性教育に、行政が信頼を置いていないことを表明したといえるのではなかろうか。人間の自然は尊いものであろう。それを児童生徒が主体的に問うことにこそ意義がある。思春期に考えなければならないもっとも大切なことの1つではないのか。それを法で牛耳るのはいささか封建社会的な男女7歳にして席を同じくせず、の焼き直しあるいは現代版と感じられ、こっぱずかしくなる。人間の自然を法でなんとかしようとしても、それはザル法になるのは間違いない。結婚という制度の枠で縛られるのと、自然な恋愛感情における男女間のステキな関係と、どちらがより自然に人間らしく振舞えるかというような、ちょっと論旨とは関係ない問題をも思い出させてしまう。都のやり方をみていて、どちらかといえば大人の性的倫理の方が問題ではないのかという疑問が残るのだがいかがであろうか。さて都の中学校は、こうした条例ができれば、さぞ応対に困るであろう。条例の思想をどのようにして中学生に教えればいいのだろうか。逆に焚きつけることになりはしないか。一方で、生命誕生の大切さを保健体育や養護教諭の尽力によって伝えると同時に、他方、社会科の時間に条例の意義を説得力もって教えなければならない。法と道徳の対決が学校現場で行なわれるわけである。だがしかし、どちらに土がつくかという性格の問題ではないのでオタオタするばかりになる。古くて新しい、法と自然、法と道徳の関係を再考するよい機会である(9/25)

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本日は、旁午お休みさせていただきます。大学の講義準備やそのほかの書類作成、レジュメの作成など、ギリギリのところです。かなりのストレスがあるようです。しかも、秋だというのにこの暑さ、ビールでもかっくらって凌ぎます。みなさまも、お身体ご自愛ください。勉強会の参加者のみなさまには、ご案内のメールを本日中に差し上げる所存です。ご確認お願いたします(9/24)

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(前々承)最後のテーマは、「ウソも方便といいます。教師をめざすあなた方は、この言葉が教育現場で通用すると思いますか。様々な角度から論じてください」です。テーマを聞いた瞬間、ええっと感じられるかもしれません。こうしたあっけにとられるテーマが本番で採用されることが、ないとはいえないでしょう。メールをいただいたのですが、22日の大阪府2次試験、集団討論のテーマに、「教員のファッションについて」というものがあったそうです。これも聞いた瞬間どぎもを抜かれた方もいらっしゃったのではないでしょうか。さて、このテーマに対し、ウソといっても、いいウソ、悪いウソの2種類のウソがある、これをどのように現場に活かすか、という問題意識から討論がはじまりました。児童生徒に自信をもたせるウソならいいのではないか、というご意見もありました。そこから、オーバーな表現はウソというべきものかどうか、少しわかりにくい議論になってしまいました。児童生徒を伸ばすウソ、たとえば20点の子が40点とった。そのことをほめあげる。よくできたなあ、と。これはウソというほどのものではないかもしれません。また、音楽で「めっちゃ口あいてるやん」というのも、ウソかどうかよくわかりませんね。児童生徒のやる気を引き出す言葉、ハッパをかける言葉、その教育的意味を考えることは、「ウソも方便」を議論するひとつの視角であり、議論に値するものですが、ちょっと違うニュアンスのような気がしました。個人的な経験から「ウソも方便」について語られている方もいらっしゃいました。保育園でのヒトコマの報告に基づいたものです。ところで、このテーマの出題意図は、児童生徒とワタクシたちとの信頼関係を形成するうえで、ウソをついていいかどうかを議論してほしかったというところにあります。そういう意味では生活指導において「ウソも通用するか」ということを話し合っていただきたかったのです。今回は、意気込みありパワフルな方が討論をある意味で支配してしまったので、ちょっと全体的なグループの印象に?がついてしまったようです。それはワタクシを含めたオブザーバーの方々からの客観的な判定です。ただ、傷をつけるウソはよくない、というご意見、ピグマリオン効果に関わってのご意見が提出されたこと、大人対子ども、教師対児童生徒の枠組の違いから「ウソも方便」を考えなければならない、などといった貴重なご意見がでたことは、ええっというテーマではありつつも、なんとかしようとする姿勢が認められ、評価すべき点といえます。初参加の方に対し、討論参加の順番上ややびっくりするテーマに当たってしまったことを主宰者として反省しております。次回以降もよろしくお願いたします(9/23)

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(前承)1つ目のもそうなのですけれど、2つ目のテーマも難しいものです。これは、簡単なテーマではもう飽きたらなくなった討論参加者にイロイロと考えてもらいたいという主宰者の意識に発しています。テーマは、「学校における多様な営みの地域への還元について議論してください。その際、保護者との関わり方についても話し合ってください」とし、21世紀の学校像、保護者と学校との間を、教員をめざすものがいかに媒介するか、といった問題を議論していただきました。「還元」や「保護者」がキーワードになっていることはすぐさま理解されますが、地域への還元が具体的になんであるかをあきらかにしなければなりません。さらにこのテーマの枠組が正しいかどうかまで鋭くつっこんだ議論が展開されるべきでしょう。そうした点もクリアされた討論が誕生しました。学校の営みにおいて保護者が関わるものはなにか。それは多くは学校行事としてあらわれるでしょう。運動会や文化祭、遠足に社会見学。まさに人間形成に必要な教科外の活動が「還元」の視点になるでしょう。行事の案内状を保護者に送る、地域に送ることによって、学校の地域センター的役割を知らしめることになります。それは地域に向けての学校新聞の発行を促すだろうし、「楽しい学校」というイメージを地域にもたらすことにもなりますね。保護者との協力姿勢は地域ボランティアとしての登校指導を円滑にすすめる方向にも進みます。また、多様なボランティア活動は地域の教育力の再生を促し、学校でだけでなく、ボランティアを通して他者理解や自己肯定感を児童生徒にもたせる地域ぐるみの活動に発展するというご意見もでました。行事紹介を誠実に行なうことは「開かれた学校」を地でいくことになるわけでありまして、保護者からそうした活動を認められれば、信頼を得ることになります。文化祭開催の手作り垂れ幕の実例報告もあり、学校が発散する活気を地域に放出したいというご意見もありました。学校が元気であると地域が活気付くのではないか、さらには、学校の内情をあからさまにすることから、逆に学校に何が足りないのかも見えてきます。とすれば、学校がなにを欲し、どのような協力を求めているのかもアピールしやすい。生活指導や学習指導も、がんばっていることを外に訴えれば、保護者の理解も得やすいのではないか。そうしたご意見がありました。これに対し、しかし保護者に誤解が生まれるケースをどのようにして回避すべきかが議論されたのも、討論参加者の深い洞察と気配りがうかがえて評価すべきでしょう。こうしたご意見を受け、保護者と児童生徒が同一の目標を立て邁進するべきであるという話題につながっていきました。保護者の視点をとりいれ、授業でも生徒指導でも行なうべきであるということです。このように考えると、このテーマは保護者との関わりや学校の還元を問うているけれども、「双方向」の議論が本質的なポイントとしてあるのではないかと楔が打ちこまれました。この鋭い楔は面接官にも問題そのものを吟味させるパワーをもっています。そして、上で述べてきたような討論参加者のご意見を集約したキーワードになっているのではないでしょうか。そして一転、行事の減少についての報告がありました。たしかに多様な行事をしたい。しかし、指導要領もいうように年々総授業時数は減っている。授業数の減少が児童生徒に学習内容の不理解やストレスを巻き起こしているとすれば、行事を削ってでも授業時数を確保する必要性が教員の立場からは主張されるでしょう。そうした動きが都道府県単位で現実にありますね。こうしたプラス面だけでない問題点の指摘も山葵のように討論を引き締めていました。そこから、ワタクシの方から、2学期制移行の問題点も考えてほしいとコメントいたしました。21世紀の学校はどのようにあるべきでしょうか。学校が無理に地域のコミュニティーセンターになる必要はないというご意見も、最初のグループからでてきましたが、それではその先に何を展望すべきなのでしょうか。また、新しい行事構想の可能性を見出せるかどうか。それは生活科や総合学習の行末だけでなく、教育財政ともかかわってきます。それから、「還元」という言葉にこだわれば、学校施設の提供という視点があることを最後にお伝えします。つまりママさんバレーのために体育館を貸し出します。このヴァージョンアップはないでしょうか。余裕教室の開放、調理室、音楽室の効果的な活用方法など、周囲を見渡せば途切れることのない討論が明日まで続きそうです。保護者との関係形成に疲れ果て、辞職を決意する早期退職教員が多い昨今、新しきパワーたる討論参加者は、どのような新風を教員界に吹き込むべきなのか。明日をめざし、先輩に学びつつ、それを乗り越え理想と現実をわきまえつつ突進していただきたいものです。明日は第3のテーマ、ウソも方便云々についてレポートします。旁午読者のあなた、あなたもフレッシュで自由な討論に参加してみませんか(9/22)

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多様なそして深い議論が本日も行なわれました。そして、北海道、川崎市、大阪府の2次試験報告およびそのレポート交換が行なわれました。本日も多数(男性7名、女性9名)お集まりいただき、盛況な勉強会となりました。4時間かけてじっくり3題のテーマに取り組む勉強会の在り方は、そんなに時間かかるの?と思われるかもしれませんが、関連事項が数多く飛び交い、かつ問題提起的なみなさまからの、そしてワタクシの発言、かつ、みなさまからの独創的な発言があり、結局は時間が足らないくらいになりました。深めるとはこういう議論ではないかと思われるのです。しかし、今回も反省点が多くありました。議論進行、議論組み立て、討論への関わり方の姿勢、どれをとっても解決するのに難しいところです。本日は討論への関わり方の姿勢に関し、大きな反省点、グループの中で浮いてしまった印象が拭えないケースが出てきましたが、それが討論参加者の内面にまで響き反省材料になることを期待します。しかし、そうしたいわば「勇み足」的姿勢も、これから2次を迎えるにあたってのハイな気分のあらわれであったのかもしれません。それに対し、2次をすでに終え、リラックスした心持ちからの発言とは、かなり立場が違いますので、そこは割り引かなければなりませんね。失敗をどのように今後に生かせるか、それに尽きると思うのです。でもこうしたことも有態にいいあえる雰囲気は主宰者として有り難いものです。次回からは、討論ばかりでなく、教育学的に理論的な問題についてワタクシの方から投げかけ、それに立ち向かってもらうような、そんな趣も含めた勉強会にしようと考えています。すなわち、本日の討論でいわれた「双方向」ということですね。単に聞くだけでなく、少ない人数構成を活かした講義と議論をクロスオーバーしたような時間を共有できるよう企画しています。さて、本日の第1のテーマは、「最近、虐待事件が頻発しています。このことについてあなたがたはどのように捉えていますか。そして学校ではどのように取り組みますか、議論してください」というものでした。議論は虐待に関わる法律、制度の面から切り出され、しだいに児童生徒と密接な立場であるワタクシたちの立場の再確認というストーリー展開となりました。まず、児童虐待防止に関する法律のことについて簡単な紹介があり、続いて児童相談所、警察、病院など外部機関との連携に話が進みました。当然話題としては例の岸和田の事件も登場し、身体の傷、休みがちであることの意味など、ワタクシたちの虐待発見のサインについてご意見がありました。外部であり内部である存在として、スクールカウンセラーとの連携にも議論は及びます。そしてそうした制度的枠組から、なぜ虐待がこのように日常茶飯におこるのか、虐待の連鎖を食いとめる必要があるのではないかというご意見もでました。つまり、保護者が虐待体験を被っていることが虐待の再生産を促している、とすれば根から断たなければならない。すると保護者の精神的な傷をもケアする仕事があるのではないか、というご意見です。それと関連し、子育て支援、孤独に陥り易い育児環境のケアという発展的ご意見も議論を深めました。しかし、大きな問題として、家庭がどこまでワタクシたち教員を、そして学校を受け容れるのか。マスコミ報道から担任と家庭が相談をもてるのは30%程度であるというある討論者からの報告を叩き台に、保護者との関わり方の突破口の在り方に進みました。保護者の相談拒否は学校だけでない人間関係の絆から解消できるとすれば、コミュニティーセンターとしての役割を学校に賦与し、学校を新しく生まれ変わらせ、そこから虐待ほか保護者全体との関わりを議論するという視点もでました。虐待ホットラインについても考察されました。しかしあとでオブザーバーの方々からも指摘があったのですけれど、児童生徒そのものにどのようにケアするのかの発言が少なかったのが反省点でしょう。ありのままの児童生徒を愛すること、被虐待児童をどのように受けとめるか、お互いの悩み、本音を出しあい、ボタンのかけ違いを解消する解決の場の設定など、ちらほら聞こえてきたのが討論時間終了5分前であったのが惜しまれる点でしょうか。このほか、教科担任制をとる校種においては養護教諭との連携、遊びの意味、家庭との情報交換としてのなにがしかの通信について、地域で子どもを育てる視点など、とめどつきない雰囲気の中で時間がきてしまったようです。ところで、討論全体を通して感じたことは、こんなに落ち着いた議論が、本番で有り得るか否か、ということでした。発言と発言の間に適度な間があり、穏やかな進行であったことは事実です。第2、第3のテーマおよび解説に付いては明日、明後日にいたします。下に勉強会のヒトコマの写真を載せました。ご覧ください(9/21)

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