日々旁午

2004


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本日は第11回「浩の教室」主宰勉強会に参加いただき、ありがとうございました。本日もお忙しい中、たくさんご参集くださり、魅力ある議論が行なわれ、充実した時間を過ごすことができました。また、今年度1次で涙を呑まれたにもかかわらず、巻き返しをはかる強い意欲から、参加された方もいらっしゃり、教職をめざすつよい覚悟を感じました。大阪2次の極めて緻密な報告も、お聞きすることができました。勉強会の後、河岸を代えての自由参加・「コーヒー会」にもお残りくださり、最初から最後までいた方なら、正味7時間はお話ししていたでしょうか。次回、第12回においても、2次の報告を臨場感持って語っていただける方が参加していただけるようですので、ここにお伝えいたします。また、「大阪2次の極めて緻密な報告」は、再度同内容のことを報告しても構わないという快いお申し出もありまして、ひろく2次一般の在り方をお知りになりたい方にとっても有益ではなかろうかと思われます。さらにある方から、横浜・岡山の2次試験報告の詳細なまとめノートをも提供いただきました。今後勉強会に参加いただける方に配布できればと思っております。もちろんこれには提供者の許可が必要でありまして、その条件を確認してからのことといたします。第12回当日までには、その結果がわかるでしょう。さて本日は11名(男性5名、女性6名)の方に議論していただきました。今回も喧喧諤諤、なんと形容していいか、そうですね、難しいですな、いや、カギカッコ付きでいわせていただくと、「うーむ」討論でありました。この「うーむ」というのは、非常に魅力的でありまして、「みんなで討論する内容そのものや討論姿勢を、オープンに忌憚なく、誠実な理解の上で批判する」という当会合の基本姿勢を守りつつ、自由に議論できているということを意味します。ひとことでいうと「シゲキテキー」ということでしょう。討論の場面では叩き合うことや納得できないことをトコトン追及する、しかし、コーヒーの場面では、そんなことを根にもたず、ザックバランになる…非常にいい姿勢ではないかと思われるのです。カントの言葉に、「私は、議論は2人ではしない、3人以上でする」という内容の言葉がありますが、味わうべき至言でしょう。ワタクシたちの勉強会は、行司が多いわけです。それゆえにこそ、客観的判断や生み出された価値を共有できるということなのです。第1のメンバーの討論が、まさにそうした討論形態であったわけでして、テーマは「教員の資質として必要なことをまず一言づつ報告し、それらをもとに一般の社会人と教員の違いをどのように捉えるか、(教員に)直す点があれば議論してください」という一歩踏み込んだものでした。なぜ「踏み込んでいる」のかといいますと、「直す点」にまで立ち入って議論することは、採用試験ではなかなかないと思われるからです。しかし、そこに踏み込むことによって、現在の教員世界の問題状況を委員会の方々にも、いい意味で伝えられるという含みを、このテーマにワタクシはもたせていました。討論では、「一言報告」でまず、謙虚さ、教員こそ社会人の代表という意識を持つこと、生徒にこうなってほしいという意図をしっかりもつこと、他者の視点に立てる態度を伝えること、プロ意識をもつこと、が提出されました。論争的になったトピックのひとつに、全体の奉仕者としての立場をどのように捉えるか、がありました。そして教員の社会貢献のあり方はどのような形で実現するのか、それを探ることが「直す点」のトピックのひとつになりました。民間の方が所属企業に深くコミットし、利潤追求のために働く姿勢をみせるのとパラレルに、教員は、税金から給与をいただくかぎり、対費用効果をたかめつつ、住民の一員を育てる使命が課されます。税金の使途にコスト意識をすべりこませるとすれば、これは民間のコスト意識を学ばなければならないことになります。ミスコピーをそのまま捨ててしまう学校現場があったとしたら是正しなければならないでしょう。それから、一般人⇒会社の発展のために働くこと、教員⇒国あるいは自治体の発展のために働くことという図式的一刀両断には、対象は違うが発展に向けての姿勢に共通点はあるものの、内容的にはさらなる吟味が必要なように感じ取れました。この問題意識に付随して、企業の社会貢献としてメセナ(文化貢献事業)の議論が登場します。このメセナをめぐっても、見解の相違から、いいかえれば「全体の奉仕者性」は公務員一般に課されるだけでなく、それに近いものが利潤追求を眼目とする企業にも、理想として存在するのだということで論争になりました。また、メセナは詰るところ大企業の広告効果をねらったもので純粋な文化的貢献ではないという本音も飛び出しました。企業が社会的貢献を掲げ、社会に理想を投げかけないと、その存在意義は薄っぺらいものになりかねません。たとえばトヨタやホンダがエコカーを実用化するのも、例の「環境にやさしい」を企業理念のひとつとしてもっているからでしょう。企業人が「顧客にぺこぺこする」ばかりという辛辣なご意見もでましたが、それに反論するご意見も当然でまして、フトコロの深い議論になりました。やみくもに「ぺこぺこ」は企業であってもできない、提案型の態度で顧客と対応することこそとるべき姿勢であるということでした。ところで、技術立国日本が、たとえば我が国で使い古した飛行機を、経済的に貧しい国へ売り払うのは、どうもいただけませんね。自国の安全基準を超えたマイル数のジャンボをまだ使えるがゆえに売り払う…。どうも矛盾があります。走行過剰乗合バスの輸出も、同様の問題性をはらんでいます。討論の最終段階において、営利は、最小労力で最大利益を追求し、教育は、最大労力で最小利益かもしれぬ、そうした意識が参加者に存することは、教育に賭ける意識の尊さを再確認できたという意味で、年寄りのワタクシなどはうれしい気持ちになりました。「人格の完成」に職を奉ずる気持ちこそ、教員をつづけていく原動力となるのでしょう。人をつくるか、金をつくるか、モノをつくるか、共通点と相違点を定める座標をしっかりさせながら、討論を積み重ねることができるかどうかに、内容的なポイントがあるように思われます。討論の形式面では見解の相違もありました。それは主観の相違によるところが多分にあり、その食い違った視点を掘り下げることから、それぞれの立場に立つものが、自分に生かせるところを取捨選択すれば問題ないと思われます。ところで第2のテーマとその報告については、長くなりましたので、明日いたします。キーワードは「評価」です(9/10)

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往来ですれちがった美人を振りかえってもう一度見たいと思うのは人情である。ボカシのはいった写真の、ナマの原版をみたいと思うのも人情である。後ろ姿をちらりと見せられただけでは満足しないのもそうだろう。芸術表現の発表の際は、その芸術性をめぐって、人々に作品を観覧させる前にシビアな関門がまっている。その判断を「誰か」が国民を代表して行なっている。インターネットが国民に膾炙し利用されるようになり、多様な情報をピックアップするという受動的な使い方だけでなく、自らもつ情報を発信する利用が一般的になった。法やルールも利用価格の均一性もかなりの程度未整頓のまま、発信する自由を「表現の自由」の憲法精神のもとで行なえている今は、夢の時代と後世評価される予感がある。ただそれゆえに発信にかかわる防衛は、各利用者に任されざるを得ない。芸術表現でないまでも、運動会で楽しんでいる様子をインターネットを経由して見るとすれば、イキイキした子どもの顔をそのままに楽しみたくなるのは人情である。前にもこの旁午で書いたが、インターネットの世界は豊饒の海である。家族が安心して楽しめる浜辺もあれば、光の侵入をすら許さない深い海峡もある。反射的に身体を動かすかわいい熱帯魚もいれば、急に闇からあらわれて人を襲う獰猛な鮫もいる。顔にボカシをいれて表現するのは自己防衛だろう。「子供の安全に対する意識が高まっている。写真の悪用や、子供の顔や名前などが外部に特定されることを避けたい」(『讀賣新聞』)と大津市教育委員会はじめ多くの教委が気を揉むのも当然といえば当然である。開かれた学校を実現する大きなパイプのひとつが、各学校のホームページである。だが学校は悩む必要はない。40人学級ならその各40人の保護者に掲載の許可を個別にもらえばいいだけである。ある子どもはボカシ入り、ある子どもはそのまま露出。極論をいえば、そんな合成写真を公開すればいいのである。しかしそれが全面ボカシ入りの写真より、一層「異様で見苦しい」のはまちがいなく、芸術表現的には誰も評価しないホームページとなるであろう。しかし、学校のホームページが、芸術性でなく学校の開放性を旗印に開設しているかぎり、暗証番号を配給し学校関係者だけに閲覧を許可するのもまた自殺行為であろう。矛盾を抱えながらの学校サイトの出発は、あるべき帰港地を求めている/明日は勉強会開催日です。多様な議論を期待しましょう(9/9)

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文明開化の真っ只中、西洋の科学技術はじめ西洋的価値の入力に力を注いでいた明治初期の文部省が、教育行政方針を掌を返すように転換した時期がある。明治14年を境にその前後で、洋学を中心とする西洋芸術的方針から復古的方針にガラリと変わり、焚書坑儒とはいわないまでも、近代的思想家の著作した教科書が一斉に学校現場から放逐された。あいた子どもの手に代入されたのは、儒教的な教科書である。福沢などは不思議さを隠さず、「恰も文明世界に古流回復の狂言を演ずる」と、糊口にその政治的意図を説きつつ憂いていた。西洋化をめざす文明論者にしては青天の霹靂であったろう。この転換を近代化に対する反動と歴史的に位置付けたとして、その意図はどこにあったのか。道徳的退廃にシビレを切らした年寄り連中が、明治の若者にカツを入れるには、仁義礼智信、孝悌忠信の規範意識を再注入したかったにちがいない。日本の主体性意識を士族の精神生活を支えた儒教思想に見出した結果、文教政策に反映されたのであった。だが、これは線香花火のように、瞬間的な喜びを退役した年寄り連中に提供したに過ぎない。ところで毎日新聞によれば、「米長(邦雄東京都教育委員会)委員は『(養護学校への)導入の時、健常者にふさわしいと採択が決まった経緯もある。この中高一貫校が伝統文化を重視するということと関係なく、一番いいと判断し、これ(扶桑社)にマルをつけた』と語った」そうである。つくる会の教科書を採択するにあたって、その根本的な理由をあえて表明する必要は米長氏に必ずしもないが、「この中高一貫校が伝統文化を重視するということと関係なく」というところに、ある種の疑問を感じるのである。例の歴史教科書が、日本の伝統文化を最大限に「尊重」する立場から神話を挿入したり、いままで他の教科書が学問的な批判に堪えられずとりあげなかった記述を臆面なく採用したり、その性格は、人の知るところであろう。来春新設される都立初の中高一貫校の中学校が米長氏のいう「この中高一貫校」である。この新しい学校の理念や東京都の教育姿勢にマッチする、あるいはマッチさせるがゆえに、扶桑社教科書を採用したいわけであって、そこと関係ないなら、なぜ「一番いい」のかよくわからない。盤上この一手と確信する裏には膨大な読みの量が将棋にはある。できればその「読み」をわかりやすく教えてもらいたいものである。いまでは敵にまわすと手強い存在になってきている「つくる会」。本当は、弱小なこの旁午においても触れないで、無視してかかるのがよいのかもしれない。そもそも同じ土俵に立つ資格がないのであるから。「つくる会」にか、それとも「旁午」にか?(9/8)

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水素と空気中の酸素を化学反応させて電気を発生させる装置がどのような構造を持っているのか、アトムを作った博士でないのでワタクシにはよくわからない。だが、わからないながらも、家庭用従来電池より40%以上の二酸化炭素排出量を削減できると見込めるのであるから、燃料電池というのは将来性ある一品であろう。配備予定の電池は、家庭用ではなく中規模のシステムらしい。これを全国の小中学校に導入すると環境省が大きく出た。よい試みである。初年度予算1億円で10校に配備しようと小さく計画しているが、単純計算で1つの電池設置に1000万円もかかるのだから驚きである。これでは完全配備は2100年かもしれない。10コの燃料電池の争奪戦が繰り広げられるのはいうまでもなかろう。環境問題を総合学習で実施しているケースはあちらこちらの公立学校にみられる。こぞって燃料電池公募に申し込み、くじ引きするのであろうか。運を天に任すよりも、環境省はコンテストを開催すればいい。燃料電池にまつわる学習研究を各学校に求め、京都山上にある寺院の書道発表会のように、「総理大臣賞」を与える。「環境大臣賞」を与える。全国の小中学校が10位入賞をめざす。ところで実際にこの燃料電池は、学校1校あたり、どれほどの電力を供給できるのか。100%まかなえるとすれば、万歳である。こうした温室効果ガス発生を食いとめる小さな出発が、将来の天馬博士やお茶の水博士、スカンク草井、そして2003年に小学校の先生となるヒゲオヤジ先生を生み出すのであろう(9/7)

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このたびの事件については、チェチェンの政治的動機、民族的動機からする独立要求の自由はあっても、凄惨な映像を見れば、その実際的手法には非難が浴びせられよう。上半身裸であの区画をさまよい、スペツナズに抱きかかえられる子どもたち。血染めのシャツのまま、とにかく遠くヘ逃げまどう子どもたち。死者300人を超えんとする地域の学校を舞台としたノースオセチアの現実は、ロシアの複雑な民族ピースからの独立を夢見たチェチェンのテロリズムが巻き起こした。ここにアルカイーダが一枚噛んでいるのだからやっかいというほかない。テロ連帯である。世界全体の「バルカン半島化」が21世紀になってもかわらず繰り返されている事態といえる。いまのロシアはズウタイが疲弊し、まるで一枚の大きなステーキが、周辺部分から腐敗していっている様である。リンゴはひとつ腐ると籠全体が腐るというが、こうした悲劇を対岸の火事と受けとっていいのかどうか。地理的に海峡をはさみ諸外国と断絶した日本は、古くは遣隋使や遣唐使を別として、文化的摩擦が起こりにくい状況にあった。いわば瞬間的な交流がポイント的にあるのであって、その複数のポイントに定規をあてて1次関数のグラフを見込むがごとくに日本の文化的発達が進行した。そうした文化摂取環境が、時に直線グラフを絶ち切るがごとく、これまた一定期間だけ国風を純化させる特異な文化的側面もあった。断続的文化の摂取はほどよいボトルキープ制であって、世界の文化、とりわけ中国居酒屋にボトルをもっていき、すくっては呑み、摂取してきた。時にはインド酒もあおりたかったにちがいない。この文脈において勘合貿易や朱印船貿易を捉えても、そうそう専門家には叱られないであろう。秀吉の城の堀も難攻不落なのに、日本海は完璧な防波堤といえよう。造船技術の未発達の内は鎖国のようないわば内部からバリアを張りめぐらすことをも可能とした。そうした断片的文化受容が日本文化を規定している。日本の主体性を発揮せよという言論がやまないのも、それだけ日本の2000年間の重層的な文化形成にショボさがあるからである。そうした主体性の脆弱は、侵略という文化刺激を陸続するヨーロッパのように否応なく経験していない帰結である。それがまた単一民族神話の源泉でもあった。しかし以上の説明は侵略を経験せよという命令形を主張するものでは全くない。はたしてこの事件をみつめる目をもって日本国内の学校に重ねてみよう。まぶたを閉じてあの映像をなにも事件の起こっていない平穏な国内の学校にオーバーラップしてみる。上のような日本の地理的歴史的なり立ちゆえに、民族的な間欠泉が吹き出ることが究極にない日本の場合、最近愛する夫人を亡くされた国からの一発ドカンの心配にだけ備えればよし。ある政治屋にいわせればそんなところか。オセチアのように弾丸が飛び交うことはない。しかし、子どもの抑圧された心が飛び交っている。苦難の倉庫が学校なのか。地震の夜にタッチを止めながら打つ。被害がないことをなによりも望む(9/6)

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ちょっと遅れましたが、第10回勉強会の報告です。今回も新しい参加者を迎えることができて、盛んな議論が行なわれました。今回は26名(男性6名、女性20名)ご参集いただきました。オブザーバーの方からも積極的に発言いただき、トピックもたくさん出てきました。討論参加は26名うち18名で、これを3グループに分ける手法をとっております。今回は討論席につくべき方との連絡が当方のミスから調整不良になってしまいましたが、なんとか最後のグループを7席とすることにより回避できました。とすると、次回から7人グループ設定でもいいですね。さて、第1のグループには、「少人数学級と習熟度別学級との関係について議論を深めてください」というテーマで議論していただきました。このわかりにくいテーマをどのように料理できるか、参加者の姿勢をみておりました。討論者は最初に、「少人数≠習熟度別」を確認されました。そして、これを受けて、クラスの人数が少ないことのメリットとデメリットが議論の俎上にあがりました。これは校種や教科によって見方が変わりました。たとえば、中学校の国語なら、講義形式は尊重すべきである、共通理解をクラス全体に求める方式は捨てられないというご意見でした。ただ、いわゆる「高得点者」は授業で手をあげる頻度が少なく、逆に、「高得点でない生徒」が活発に手をあげる…、講義形式だと一方通行授業になり静態的になる問題をどのように解消するかが「問題」となるようです。音楽の楽器指導では、一人ひとりを指導する時間をかけるには少人数が有利であると意見が出ました。その反面、必要となる教員の確保、そこから地方の教育財政にまで話がおよび、土木にかける資金を教育へまわせという過激な、しかしまっとうな提案がありました。これは太田さんに頼むほかありません。しかし、2300億円の削減をめざされていることからしても無理難題かもしれませんね。さらに、理科教員の立場から、大学との連携(いわゆるスーパーサイエンススクール)、おしえあい学習の意義が語られました。一方、小学校ではどうか。少人数は体験学習の実施にメリットがある、完全習得学習を進めるためにも少人数は意義があるというご意見が出ました。また、少人数にすることとグループ活動のちがいはあるのかどうかもトピックになっていました。学級集団が学校生活の基礎単位であるだけに、その設定は児童生徒の日常に大きな影響を与えます。選択教科にかぎって少人数を導入するかどうか、高校段階での高い専門性を要求される場合にだけ習熟度別をとり入れるかどうか、など、考えるポイントはいくらでもでてきます。翻って、小学校の土台的学びが緩いと、砂上の楼閣的学習が延々とつづく可能性もあります。すると習熟度別を小学校から導入する視点も否定できません。ところで、議論の中に「個性」をどのように捉えるかのトピックがあれば、難しいですけれど、ヨリ実りある考察も可能ではなかったかと感想を持ちました。次に、「わたくしたちにとって国際感覚とはなにか。国際感覚を身につけることを学校でどのように展開するか、議論せよ」、これが2つ目のグループの議題です。国際感覚の定義は、「自国の文化を知り発信しつつ、諸外国の文化を理解し相互尊重すること」と参加者のうちでまとまったように思えました。世界で何が起こっているのかを包み隠さず児童生徒に伝えることが大切というご意見から、中国でのアジア杯(サッカー)における反日感情の沸騰、アテネ・オリンピックなど時事的関心事や、在日の問題、日本アニメの輸出、韓国ブームに加熱をもたらした「冬ソナ」について和気藹々と議論されました。しかし、結構こうした話題はデリケートな討論に傾斜する可能性もあります。サッカーのブーイングから民族的「恨(ハン)」の議論に突き進んでしまわないかどうか、ハラハラして見守っておりました。しかし、こうした議論ができるということは、それだけ他者感覚が磨かれていることの裏返しでもあります。「平和の心」を伝えていくにはどうすればいいのかが主張される根拠でもあります。アジアの平和を議論することに関連して、日中の教科書比較についての紹介が登場するなど、内容豊富な討論となりました。文化的な感性を磨くことが国際感覚につながるのはもっともですが、それを相対化する世界人(コスモポリタン)をいかに考えるかという視点をワタクシの方から提供し、議論は終了しました。第3のグループには、「児童生徒に感動を与えるためには、あなたがたはどのような指導をしますか。具体的に議論してください」というテーマが与えられました。簡単なようで難しいテーマです。討論は参加者それぞれの感動体験を語ることからはじまりました。ところがどうも討論者個人の感動体験、たとえば子どもの頃家族でキャンプに行き、そこでみた星降る夜に感動したというような、また、水泳のクイックターンが成功したときというような個人の体験報告がはじまるのかと思うと、だんだん講師として児童生徒が体験した感動あるいは無感動話に転化していきました。これは致し方ないことでしょう。討論進行途上の若干のネジレはあるものです。アテネオリンピックの中継に感動している教師志望の討論者と、「キレイな花ね〜」の問いかけに無反応な児童。対照的でした。ワタクシたちの見知らぬところで児童生徒は感動しているんだと思い込むことで、きょうびの子どもたちも感動しているに違いないと確認するのはなんとも寂しいものでした。言葉でいいあらわせない感動などない、という小林秀雄の一節を思い出させました。たしかに、自分の世界が広がったとき、泣きたいくらいに心がふるえるとき、それが感動というものでしょうね。修学旅行でモンゴルに行けば、児童生徒の世界観に刺激が与えられるでしょう。修学旅行もそうですが、どのようにこうした感動を与える指導を具体化するかについては、枠組としての総合学習をはじめ、指導環境の設定について討論されました。生活科のサツマイモ収穫パーティーもそうだし、達成感を味わうための手作りの体育授業用ハードル、というお話もでました。こうしたテーマではなかなかに難しかったと思いますが、養護教諭志望の方からも、不登校気味の生徒が健康診断の手伝いをしてくれ、その生徒がクラスメートから感謝される一駒を紹介され、感動体験はどこにでもあるのだと、ワタクシは思い知らされました。以上のように、ワタクシも感動させられる3つの議論でした。それにしても、まったくはじめてお会いする方々がおおくなり、ウレシイかぎりです。営利事業ではないところに、この自由な会合の特色があります。一所懸命に、無心に教育について議論することが、こんなにも楽しいのかと、いまさらながらに感動しています。とすれば、感動は情熱を従えた高めあいの中で醗酵するものなのでしょう。ワタクシが大学でいささか学んだことを、少しでも還元できないかどうか――そうした無償の意欲がワタクシを支えています(9/5)

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あほあほまんさん、試験情報の再送ありがとうございました。試験情報につきましては、メールフォームで送っていただいた場合は、「全国教員採用人物重視試験情報」のコーナーへ掲載させていただきます。また、各「こくばん」にも試験情報を書き込んでいただきありがとうございました。こちらの方は、書き込まれた方が「転載許可」などと明示されている場合には編集し、上と同じようにコーナー掲載させていただきます。このたびは、勉強会関連や試験情報提供にあたって、ワタクシのPC故障のため、多大なご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。ところで、9月、10月以降の勉強会に参加メールいただいた方、本当にありがとうございます。継続的参加の申し込みもいただき、ウレシイかぎりです。いま、構想を練りつつレジュメを作っております。どういうふうにすれば効率よく学習できるか、しかしそれだけでなく、どういうふうにすれば「血の通った教育的な学び」になるか、ここに原点をおいて考えています。ところで、英語の先生をめざされている方のために、ひとつの計画があります。いま、何度か近所のALTの方にお会いしているのですけど、何とか協力を願えないかと頼んでいます。これについては、そう何度も開催できるわけではありません。この構想についてはまたこの場でご報告します。このように、いま、いろいろと動いておりまして、なかなか「本来の旁午」スタイルの記事をこなせておりません。旁午読者のみなさま、長い目で見守っていただきたくお願い申し上げます(9/4)

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本日は更新お休みさせてください。PC復旧に精魂尽き果てました。ワタクシにとっては、つらい2学期のスタートとなりました。なんとか無事PCは動いておりますが、いわゆる「関連付け」がマズイ状態で設定更新されてしまいました。下の赤字部分にありますように、折角いただいた試験情報を台無しにしてしまったのです。こんなワタクシのサイトのために情報提供していただいたあほあほまんさん、ゆかりさん、ZIPさん、NATSUさん、海人さん、再送いただくか、各こくばんに投稿いただくことを海より深く山より高くお願い申し上げます(9/3)

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昨日から、いやになるほどPCをいじっています。99%の機能は回復し、デフラクメントも途中終了することなくなりました。ホッとしています。とはいえ、アウトルックはだめですなあ。結局、pstファイルは発見できず、困った事態になりました。みなさまはメーラーになにをお使いですか。いいメールソフトがあれば、ご紹介ください。「こくばん」にお願いします。今度のことに懲りて、WEBMAILを変更し、サーバーに保存されるようにします。第11回以降の勉強会参加者の方々、再連絡いただきありがとうございました。本日ご案内のメールを差し上げます。到着しておられない方、申し訳ありませんがご連絡お願いいたします。ご迷惑おかけします。更新後、最後の力を振り絞って復旧につとめます。今回の更新は復旧の中間報告みたいです。PC内部に台風がやって来ているみたいです。みなさまにあっては、明日や明後日など、2次試験を控えていらっしゃる方がおられると思います。最後の力を振り絞ってください(9/2)

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はぁ〜、いまちょっと、まいっています。メーラーにアウトルックを使用している(アウトルックエクスプレスではありません)のですけれど、「.pst」ファイル(?)が変わったのか、フォルダ一覧の受信トレイがそれまで使っていた通りにフォルダ分け(自己作成のショートカット)が表示されず、デフォルト化し、みなさんからいただいたメールが読めない状態になっているのです。しかも「連絡先はありません」になっているのです。さすがにまいりきっています。もう8時間以上この状態から復旧できないでいます。ウイルスチェックは頻繁にやっておりますし、今回も事態が変化してから、すぐさまウイルスチェックしました。ファイヤーウォールとウイルスソフトが機能して、情報流出はありません。PCを10時間以上灯をいれっぱなしだったので、熱暴走でもしているのでしょうか。それとも…ウイルスがきてから検疫まで10数秒タイムラグがあったのですけれど、その影響でしょうか。それが不思議な話でメーラーを立ち上げていないのに受信していたのです。C:\WINDOWS\Application Data\Microsoft\Address Bookは、「ほかのファイルによってロックされています」表示でなんともなりません。だいたい、アウトルックのpstファイルはどこにあるのでしょうか。C:\WINDOWS\Application Data\Microsoft\Outlookのなんらかのファイルだと思うのですけど、どうも見つからないのです。消えちゃったのか…、Microsoft Outlook Internet Settings.RWZでもなさそうだし、office2000系の問題なのかなァ。だいたいこの最後のRWZやNICKというのはなんなのだろう。こんな拡張子あるんかな。大文字だし。そのほか「ファイル」の「インポートとエキスポート」もさんざんやったのですけど、なんともならない…。送受信は普通にできるのですけどね。過去に設定した環境を取り戻せないのか…。いままで、いろんなPCの病状を回復させてきました。しかし今回はなんともならないかもしれません。プリントアウトしたわずかなアドレスメモがすべての状態です。ただ、有料面接個票添削に送っていただいている内容は、サーバー保管してありますので保護されており、ご迷惑はかかりません。しかし、第11回、12回の勉強会参加希望の方々の連絡先を失っているのです。PCのどこかにあるのですが、それがどこだか分からない、悲惨な状況なのです。こうしたドジを踏んでいるワタクシめをお許しいただき、もしこの文章にお気付きであれば、申し込みメール再送をお願いしたいのです。申し訳ないです。そうしたわけで、頭を抱え込んでいるワタクシめは、勉強会の報告ができないでいます。最近謝ってばかりです。ああ、2学期もはじまるというのに。すいません(9/1)

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