日々旁午

2006


フィー、ようやく帰ってきました!仕事山積。悩み事多し。

 香川における勉強会、10月21日(土)になりました。みなさまのご参加お待ちしております。
(9/20)

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2次の合格報告いただいています。おめでとう!!

 では、名古屋にいってまいります。
(9/17)

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あす、あさってと、台風接近の中、名古屋へ出張いたします。サイト更新お休みします。すんません。

 申し込まれております有料論作文添削、順次発送しております。フリーメールは、やりとりがうまくいかないケースがありますね。ご迷惑おかけします。

 勉強会のお申し込みありがとうございます。30日、もう少し座席が空いています。

 ところで、何度ご連絡してもメールが届かず戻ってくる方がいらっしゃり、電話連絡もさせていただいたのですけど返信ありません。なんとか連絡をさせていただきたいので、この件で「身に覚え」のある方は、ご連絡お待ちしています。
(9/16)

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毎日新聞の報道は真実だろうけれども、どうもやりきれない。対教師暴力が増加しているとの報道は、既に周知のことであるけれども、その実体をルポ的に記事化されたのを読めば、生々しく伝わってくる。

 その描写に、「兵庫県内の小学校に勤務する40代の女性教諭は03年10月、学級崩壊したクラスの『応援』に入り、モノをけ散らす男児を廊下に引きずり出した。『何かをけらないと収まらないなら、私をけりなさい』。男児はためらわなかった。手加減もせず、女性教諭のおなかや足を20発以上もけり続ける。担任は別の児童を指導しており、暴行に気がつかない。女性教諭にとっては、児童から受けた初めての暴力を、隣のクラスの男性教諭が助けに来るまで耐え続けた」(『毎日新聞』9月14日付け)とある。すべての小学生がそうではないのは頭では理解していても、こうした状態の小学校が大半なんだろうと推測する気分になる。デフォルメしてしまうわけである。

 この女性教諭は、多分こういえば蹴らないだろう、と考えていたのだろう。そうでなければ「何かをけらないと収まらないなら、私をけりなさい」(『同上』)とはいわないはず。しかし、この言葉を真に受けて、蹴るのは、一読してウソだろうと思った。しかし、もう一回読み直して、この女性教諭の言葉の後に、「男児はためらわなかった」(『同上』)と記者が書いているので、これはホントなんだなと読まざるを得ない。

 ここまで現場はひどいのか。小学生といえば、「かわいらしい存在」であると思い浮かべていたのに。そうでもないんだな。まさにデフォルメはいけないのだが。「すれ違いざま、何もしていないのに『くそばばあ』と言われて……。今も小学生の登下校を見ると、心臓がどきどきする。退職するかも……」(『同上』)という女性教諭のPTSDに近い嘆きは、かわいそう過ぎる。

 自己中心性が脱色されないまま就学前教育を終了し、あまり躾教育を家庭で経ていないまま小学校に入学する。その結果が上の女性教諭をして心中の不安を語らせしめたのだろうか。この女性教諭は兵庫の先生だそうだが、大阪でもこれとよく似た事例は多いだろう。この記事の下に都道府県別暴力件数が掲載されているけれども、大阪府が突出して多いからである。

 05年度、神奈川の6088件に次いで4574件である大阪府、辞めたいとこぼす先生が多いのも怪しむに足りない。全国で34000件のうち、6000、4500なのだから。

 なるほど「大阪市教員、138人が精神疾患で休職」(『日経ネット関西版』9月2日付け)ということになる。

 ところで「個性重視の半面、競争主義や成果主義が教育現場にも持ち込まれ、そのひずみが子どものストレスとなり、暴力や学級崩壊となって表れている。崩壊は力で抑えることで表面的には治まったようだが、次は校内暴力という形で問題が噴き出している」(『毎日新聞』9月14日付け)と学者は語るが、このコメントはよくわからない。女性教諭のいっているのを読めば、崩壊が力で抑えられ、次に校内暴力という形になっているのではない。なんだかルポと関係ないところで付けられたコメントのように読めてしまう。

 それから、子どものストレスは、本当に「成果主義」の所産なんだろうか。こうした理解はよくあるし、さも合理的に語られるけれども、このような「成果主義」からくるストレスが、たとえ意識下であっても、小学生にあるのだろうか。ちょっと違う気がする。原因はもっと別のところにあるように思えてならない。それが奈辺かと問われれば、答えるのに窮するけれど、超基本的なコミュニケーション能力の欠如または未熟としかいえない。蹴って蹴って蹴りまくる理由が、「成果主義」の一言で片付けられるのは不自然である。

 そしてまた別の理由、たとえば「この子はADHD児である」と根拠付けし、特異ケースとして現実の由々しき事態の解決策をあやふやにするのも正しくない。

 コメントの最後に、「社会構造のレベルでの問題解決が求められている」(『同上』)というけれど、言うは安し行なうは難しであって、どうやってするのだろうか。これは、なにもいっていないに等しい。「社会構造」という言葉は便利な言葉で、これをいえばサマになるし、読み手もなんとなくわかった気になる。だが実際には、具体的でないのでなんのことかわからないのである。

 「社会構造」のレベルを変えることとは、ゼロトレランス的な意味を含めて体罰容認的教育社会に転換、ということがいいたいのだろうか。それとも、保護者の養育態度を向上させる「方策」のことがいいたいのだろうか。後者なら、保護者が我が子の養育に専念できるよう家庭の経済的保障をすることによって解決しようという意味なのだろうか。まあ、3行ほどしか書いていないので、この学者の意図は、やっぱり、よくわからない。あるいは下記のようなことなのだろうか。

 「もっと子どもと向き合う時間と余裕がほしい」(『同上』)というのが解決するべき本質である。これを「社会構造のレベル」というよりも「政治と教育のレベル」でいえば、義務教育国庫負担の問題になる。すると、教員定数削減なんて教育現場状況を無視する政治的決定といわざるを得ない。例の10人委員会のスタンス(「公務員の定数削減の対象から教職員を除外すべき」『讀賣新聞』9月11日付け)が正しい。最後に、その主張をリンクしておこう。
(9/15)

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フィー。読めば読むほど、大阪の1次試験教職教養の問題は難しいね。なんというか複合的で。先月より精査開始し、すでに「まぐプレ」では、その成果をちょこっとづつ配信中です。勉強会に参加される方は、コピー代で提供しますので、お楽しみに。
(9/12)

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