日々旁午

2006


本日は、第90回当サイト主宰勉強会の開催日でした。多数のご参加ありがとうございました。本日は、新規の方も5名いらっしゃり、ありがたく思っております。また、来年度に向けて来られた方も2名いらっしゃいました。来年の合格を勝ち取るために、今から一緒にがんばりましょう。

 本日わざわざ2次受験報告をするため、コーヒー会にご参加いただいたMさん、ありがとうございました。

 ところで、ところで、第89回の報告が延び延びになっておりましてスイマセン。第89回は、8月31日のことでした。当日は、集団討論と個人面接をいたしましたが、集団討論の模様をお伝えいたします。

 参加者は8名、25分間で討論していただきました。テーマは、「命の大切さをどのようにして児童生徒に伝えますか。それを具体的に議論してください」でした。仮にA〜Hさんとして再現しましょう。

 まず、Bさんが、テーマの確認をされつつ、漠然と命は大切であると説諭しても、伝わりにくいのではないかと疑問を提出し、命の発生=生まれたときのことを考え、生命の尊さをそこから理解させると述べられました。さらには、助産婦さんの仕事についても考えられるとされました。一方、命がなくなること=死についても、その悲しさをどう受けとめるかということも大切な観点であると触れられました。Cさんはこの意見を受け、学校における動物の飼育が、具体的に生と死を学べる教材になると提示されました。Aさんも同じ観点からですが、牛の出産について述べられました。生命が生まれいずる感動を児童生徒に感じてほしいとご意見されました。Gさんは、ご自身の出産経験を述べつつ、母子手帳をもらったときのことを語り、「大切な存在として生まれたんだ」ということを伝えたいと強調されました。

 Aさんは、社会か教員の立場から、祖父や祖母のことを調べてみよう、という授業を実践し、家系図を作成して命の連続性を考えさせたいそうです。自分の先祖がどういう人生を送ったのかを調べるのは生きた歴史を学ぶことになるとお考えです。このご意見に対し、Eさんは、出生について知ることは大切である反面、ナイーブな問題も含まれるので注意しなければならない旨、提示されました。たしかに、家庭の事情は複雑であり、祖父や祖母がいない家庭もあり、両親揃ってご健在でないケースもある。そうした点に対する配慮を付け加えられたのです。家系図作成にあたっては、それがもとでいじめられたり、変に気を使ったり、そうしたことがないように指導しなければならないとDさんもおっしゃいます。Aさんの提起された実践は、たしかにE、Dさんの指摘した問題点もありますね。このあたり、Aさんがご自身の発言をされるときに前提を作るといいと思われます。実際、この勉強会にご参加の中にも、お父さんを亡くされた方もいらっしゃるかもしれません。お母さんをなくされた方がいらっしゃるかもしれません。

 また、Dさんは、植物栽培についても話題にされ、植物であっても、育てるという行為から命というものを実感させることができると話題転換しようとされました。

 Fさんも、この話題を打ち切るかのように、ニワトリのお話をされました。学校における飼育体験です。そして、植物を育てる場合、水をやらないとどうなるかな、といった疑問を投げかけるなど考えさせるポイントを示されました。いずれにせよ、生物を育てる実体験が、命を大切にすることのキーになるようです。Hさんも、インコが死んだときのことを話され、命の大切さを実感したと述べられました。自分が担当することになる工業を学ぶ生徒に、命の大切さをいかに伝えていくべきか、講師としてもそうした経験がないので悩まれておられるようでした。

 一方、Eさんから、教科教育において命の大切さを伝える必要もあると話題転換がありました。そして、実生活において食事をすること、食べることは死を通して生かされているということを伝えたいの述べられます。これは食育をしようということですが、CさんがEさんのこの意見を受け容れつつ、「いただきます」の価値を考えることを指摘されました。また、Cさんは、食育の観点から、児童の現状認識を披露してくださり、パッケージされた肉を食べている児童生徒は、もともとその肉がどういうように加工され、われわれの目前にあり買えるのかわかっていないこともある、「ありがたみ」を知る必要があると強調されました。エピソードとして「鳥をさばく」事例を話されたのも、このタイミングでした。

 Fさんからは、世界には知らないことがイッパイあり、命の大切さ、生きていくことの大変さを児童生徒に気付かせたいと述べられました。人間が生きていく苦しみ、苦労、工夫、そうしたエッセンスを総合学習でやってみたいと抱負を語られ、またボランティア活動で高齢者と食事をすることが、「パッケージ肉」の印象を変えることにもなるとCさんのご意見に答えられました。Bさんも、給食の指導について話題とし、いきとし生ける生物の犠牲について語り、Gさんも命をいただいて生きている我々、との観点を出し、日々の生活の中でも「命をいただいている」と実感する働きかけが不可欠ではないかとされました。

 ここで、何の拍子であったのか、命の大切さを伝えることが性教育の話になりました。議論のトピックとして性教育のことが登場するのは当然でしょうから問題ありません。出産のこともご意見ありましたしね。性教育についてはBさんが、発達段階に応じ配慮しながら実践するべきというご意見を出されたのが、この話題を登場させたきっかけでしょう。このあとAさんが選ばれて生まれてきた私、ということを受精にからめて話され、Cさんも少しこのことに触れられました。Hさんは、さらに人工中絶のシーンを中学時代に学校でみせられた経験を話され、人間の手で命を奪い取ることに対して疑問を感じた旨を打ち明けられました。そして、こうした中絶のことを生々しく高校生に教えるべきかどうかということも悩まれながらも報告されました。

 Dさんは、性教育の話題に終止符を打ち、それぞれの種が持つ命の大切さについて議論を戻すべく苦しんでましたね。Gさんも性教育のテクニカルな話題が続いていると指摘され、学校では、男女のそれぞれの人格を互いに認め合うこと、ひいては人間と人間の関係を尊重することが性教育の根底にあるべきであるとまとめられ、この話題に固まりすぎる雰囲気をほぐそうとされていました。Dさんは、では現代の溢れる情報の中で、どのように人間と人間の相互尊重の関係を教えていくか、とみなさんに問題を投げかけられました。Bさんは、これに答え、殺人や強盗などニュースがある、この人間関係におけるトラブルをどうみるかということが、人間関係の相互尊重を自覚するためのひとつの方法であって、これをディベート方式で児童生徒に実践させるのがいいと思うと発言されました。Dさんは、このほか、道徳教育や総合学習を人間関係を学ぶ場となりうると可能性を示し、さらに家庭の役割についても触れられました。その際に大切なのが、Gさんがいわれるように言葉で感情をうまく伝えられることだと思います。すなわち、コミュニケーション能力は、命の大切さを考えるときも欠かすことができません。Eさんがいわれるようにわたしたち教員をめざすものが、一人ひとりの児童生徒を大切にする気持ちを持って。

 今回のテーマは、命の大切さをいかに伝えていくかでしたが、簡単なテーマのように思えて、逆に簡単過ぎてなのか、議論の積み上げ方が難しかったようです。命の大切さはわかっているよ、というようにワタクシたち自身が「わかりきっている」ので、それを「わかりきっていない」児童生徒に対する言葉掛けや態度がはっきりしないのだと思います。

 そんなん「当たり前」という前に、「当たり前」という感覚を持っていない、というより「当たり前」であると「学んでいない」、無自覚な児童生徒を指導対象とするワタクシたちは、どんな言葉を用意するべきなのか、真剣に考えないといけません。そんなことを反省させられた討論でした。

 討論後で出た指摘では、TVゲームで主人公が甦る「リセット」のことが話題になかったな、とありましたことを付け加えておきます。

 第90回の討論テーマは、「クラス行事の話し合いの場で、ひとりの生徒が孤立してしまいました。あなたは、クラス担任としてどう対処しますか」でした。これはこれで相当難しかったようです。ここにきて、2次直前であるからか、みなさん萎縮しているようですね。もっと、ガハハ〜、といきましょう。
(9/10)

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全国教員採用人物重視試験情報のアップをようやく終了しました。といいましても、この夏の情報ではなく、昨年度の情報です。提供いただいたみなさま、ありがとうございました。

 今夏の情報提供を募っております。みなさまヨロシクお願いします。こちらの方も、来春以降アップします。合格が決定すればアップしていいかとは思われますが、ワタクシといたしましては、合格者の配属校が決まるまでは自粛しようと考えております。

 勉強会では、いただいた情報を何らかの形でお伝えしてまいります。
(9/6)

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夏が終わり秋がくる。きょうなどはまだ暑いけれど、朝や夜はずいぶん過しやすくなった。イヌのゴン太もうれしそう。なにしろゴン太の好きな散歩も、あの焼けたアスファルトのせいで、ちょっとお休みだったから。ワタクシたちは靴やサンダルを履いているからわからないだけで、彼らにあっては、ナマの肉球が直接に触れるのだから、夏の散歩は拷問に等しいのである。

 ところで、ここ数日かけて、このサイトのお手入れをしようかと考えている。情報をいただいた昨年の分もまだアップしてないし、論作文添削もできていない。サボり気味である。2次個票添削や有料論作文をどうしても先に仕上げる必要性があるので、犠牲になっていた。申し訳ない。

 また、「うしろのこくばん」も、こくばんマスターの方々にはご迷惑をおかけしてきた。あまりたくさんの掲示板を用意するのも情報分裂するものなのかな。これも削除して、元通り「こくばん」をひとつにしようかと考えている。広島のこくばんは機能不全の理由がわからないままだし、兵庫・神戸のこくばんは、「うしろのこくばん」に合流させても問題ないだろう。

 今月終わりからの勉強会の内容充実も課題である。今期の反省から、来期は9月上旬の日程をもっと増やそうと思う。

 また、10月には香川にいきます。香川県教員採用試験の概要ほか、勉強会を来年度も開催します。四国の方々、高松までこられませんか。よろしくお願いします。
(9/5)

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2学期がはじまり、夏の思い出とともに児童生徒が登校してくる。普通の風景であろう。

 ところでこの「登校」という単語だが、いかにも不思議である。「登校」は、普通には「学校へ行くこと」を意味するが、それなら「行校」でよいのに、なぜ、「学校」に「登る」といわなければならないのか。「登る」は「上る」だろう。だからこの単語自体に、学校が価値的に高いというニュアンスがある。

 こうした考え方が通用していたのは、それこそ学校に威厳があり、先生に畏怖があった時代である。そうした時代は、1960年代で終了しているのではないか。学校に行くことをいつから「登校」と称するようになったのか定かではない。だが、偉い人=先生がいらっしゃる、という感覚からいえば、学校ができてこの方、同時に使用されていたに違いない。

 下校は学校から帰ることを意味する。つまり、各家庭に「下りる」わけである。とすれば、学校よりも価値的に低位におかれていたのが、家庭ということか。

 現在、学校の価値が相対的に低下しているのは周知のところである。勉強するなら塾へ行け、というのが、それを最もよく表現している。学校の存在意義が問われている現状、「登校」するに値する場所であることを望む。

 そういう意味からいえば、今回の岡山の刺傷事件が起こるのは、学校が高尚な場だと児童に意識されていないといえる。厳かな雰囲気が学校から漂わないからこうした事件が起こるのだろう。

 「いま、公立学校に求められているのはなにか」、これに回答を与えるものは、答申のいうセーフティネットとしての役割なのか。教科書的にいえば、これが答えになるだろう。しかし、現実的な関心からいえば、いま、求められているものは、厳かさであり、それを準備できる教員であり、その雰囲気を持続するパワーである。そのための教員間の協力体制だろう。

 先生が「通勤」する意識も、「登校」意識でないとならないのかもしれない。
(9/4)

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まあ、こうした書評と、こうしたブロクをご覧ください。安倍晋三の「教育改革推進会議」は、彼の思想からいって、胡散臭さ満開であろう。彼のようなのが総理大臣になることは、憂うべき事態に日本は進むことを意味しているといえる。「教育改革推進会議」については、以下に朝日新聞8月13日付の記事を紹介しておこう。

 「安倍官房長官は、9月の自民党総裁選の公約で、首相官邸主導で子どもの学力向上などを図るため、首相直属の『教育改革推進会議』(仮称)の設置を打ち出す意向を固めた。

 教育改革を国家戦略の最優先課題の一つと位置づける。先の通常国会で継続審議となった教育基本法改正案を秋の臨時国会で成立させることも公約に盛り込む方針だ。

 教育改革推進会議は、教育行政の重要事項を事実上決めている文部科学相の諮問機関『中央教育審議会』の上位に位置づける方針で、より迅速な改革の実現を目指す。具体的なメンバーなどは今後、検討する。小泉内閣が経済財政構造改革の司令塔とした『経済財政諮問会議』を参考に、首相を議長とし、文科相ら関係閣僚と有識者で構成する案も浮上している。

 安倍氏は教育改革の具体的な課題として、〈1〉学力の向上〈2〉教員の質の確保〈3〉学校評価制度の導入――などを掲げる考えだ。

 『ゆとり教育』の弊害と指摘されている学力低下に歯止めをかけるため、学習指導要領の見直しや、授業時間の増加、全国レベルの学力調査などを検討する。基礎学力が低いと判断された学校などに国が支援策を講じるなど、自らが提唱する『再チャレンジ』政策の考え方を生かす方針だ。

 教員の質の確保策としては、能力の高い教員を給与・待遇面で優遇し、指導力不足の教員との差を付けることで、教員のやる気を引き出す。学校の管理運営や生徒指導の状況などを第三者機関が評価する『学校評価制度』の導入も視野に入れている」。

 まあ、あの有名なきっこさんが、忌まわしい勝共連合のことや、統一教会のことも書いているので冒頭の2つをリンクしたわけ。なお、勝共連合=統一教会、文鮮明、久保木修己と安倍晋三の関係性はかなりディープであるのは周知のところである。こうしたカラクリが市民に容易に提供されるのがネットの効果であろう。

 なお、いうまでもなく、「勝共連合=統一教会」=原理研である。原理研究会は学生時代住んでいたマンションに深夜よく来た。なにしろ原理研は、深夜にキレイな女性を用意して、男女1チームを構成し、学生マンションを巡回し、色仕掛けで勧誘活動をするのである。ああっ。いまちょっと胸糞悪いことを多々思い出してしまった。

 ワタクシのところに実際来たのだから、この話はウソではない。まずマンションドアののぞき穴に映るよう、そのキレイな女性が立ち、深夜も深夜丑三つ時に「こんばんわ」。で、「お話したい」とくる。結構キレイな女性だから、勧誘を知らない地方出身の大学1年であれば、クラっとくるにちがいない。ドア越しに話をしていると、「中へ入れてくれ」というのである。どう考えても無茶苦茶である。若い男で寂しがりやなら、ある種の期待を持ってしまうのも仕方がない。これが勧誘の手で、一緒に男の方も入り込み、朝まで洗脳されるわけ。

 ワタクシはドアを少し開けた。すると男女1チームだから、ドアののぞき穴からみえない位置にいた男が現れるわけ。で、普通なら、原理研勧誘のはじまりとなるわけ。

 ワタクシなどは、アングラ的書籍によって文鮮明思想や原理研の悪業は深く知っていたし、その勧誘手法を知っていたから(余談だが、このほかにも、あの、シンジシュウメイカイも調査した。MIHOミュージアムは彼らのドル箱美術館である)、そして当時はスポーツクラブで鍛えまくってベンチプレス110kgを誇る腕周り45cmだったので、この原理研部隊をノックアウトしてやろうとしたわけ。

 「話がしたい」というのだから、「してやろう」と返事をし、女性を中に入れてやろうとする。男がいるのはお見通しだから「お前は入るな」と腕力勝負である。こっちは悪の巣原理研を叩こうとハナから計画しているし、向こうは若い学生を騙して勧誘してやろうと意気込んでいるわけ。

 残念ながら、この腕力勝負は結果がつかなかった。というのは、勧誘部隊が恐れをなして引き下がったからである。

 このとき以来、原理研はわがマンションに一切近づくことがなくなった。大家さんに感謝され、隣の部屋の住人数名からお褒めの言葉をいただいた若き日であった。わがマンションにまつわる話に、あと「2.2事件」というのがあったが、これはまた機会があれば書こう。勉強会参加者諸君、興味があればコーヒー会で聞いてくれたまえ。

 こうした原理研=勝共連合と思想的につながりの深い奴が総理大臣になるのだから、ギョウキマッセツである。
(9/3)

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昨日は、第89回勉強会に多数ご参加いただきまことにありがとうございました。新規に参加の方、いかがでしたでしょうか。今後もヨロシクお願いいたします。

 2次の面接個票添削も多数の方からおあずかりしています。期限までに添削し、メールにて返送いたします。面接時に個票をしっかりみてくれる、みてくれない、にかかわらず、後々にまで残るものですから、今の段階で最良のものを提出したい思いがあるでしょう。その声に応えようというのが、当サイトの立場です。

 また、31日は府の本番2次の方も多数でした。みなさんいかがでしたか。試験終了後、勉強会のあとのコーヒー会に駆けつけてくださりありがとうございました。どのような感じで2次が進行したのか、丁寧に報告いただきました。ありがとうございました。

 さて、遅れていました第88回の討論の再現をいたします。

 今回は6名の方がチャレンジ。20分間です。今夏愛知県で実際に出題されたテーマで討論していただきました。テーマは「授業中にふざけている児童がいたので注意したところ、『もう分かっているから』という理由で反抗されました。どう対処しますか」です。

 最初に、Dさんがテーマに解答を与えようとする発言をされました。それは、児童対応をどうするかということで、該当の児童を授業後に呼んで話をするそうです。該当児童には、「理由も聞かずに叱って申し訳ない」といい、なぜ、「もう分かっているから」といったのかその理由を尋ね、その上で授業を真剣に聞くように指示するという手順を示されました。Bさんがこれを受け、反抗する原因を汲みとる必要があるし、叱るは、ほめるより難しいと指摘され、集団の前で叱るのか、個人的に叱るのか、どちらがいいのかを探るべきであると述べられました。

 ここにももう問題点がでています。まず、テーマを読んで、分析をしなければなりません。授業中であること、教員がふざけている児童を確認していること。それに対して注意していること。授業中であるから、他の児童もいるということ、注意するのは教員として当たり前であること、でしょう。最後の「当たり前」は議論の余地がありますが、ふざけているのに目をつむることはできないでしょう。

 そうだとすれば、Dさんが、該当児童を呼び出しておいて教員が謝るというのはちょっと納得がいかないところです。叱るべきは叱らなければならないのにもかかわらず、毅然とした態度をとらないなら、なんのために呼び出すのか理解できません。指導には一貫性が必要で、授業中、他の学習者の学習権を侵害した児童には厳しく指導するべきではないでしょうか。

 すばやくBさんが指導場面の選択に話を振られたのは良い転換でした。このBさんの転換を受けつつ、Eさんは、教室の中でピシッと叱るといわれ、「悪かった」などとはいわないとはっきりご意見されました。そして、表面的に指導を終えるのではなく、内面に響くような叱り方をしたい、例の、あかんもんはあかんを徹底すると意見表明されました。Dさんと対立する意見でしたが、テーマの主題からして、Eさんの発言が正鵠を得ていると思われました。

 Fさんも毅然として対応し、他の学習者に対する侵害を食い止め、その上で自分なりに授業参加の仕方を考え直したいと建設的なご意見を述べられました。教員は授業で伝えたいことがあるのだといわれたのがCさんです。そのためには集中して児童が聞かなければならない、だからこそ授業に対する姿勢を正すのが大切であるとし、Fさんに同調されていました。Aさんは音楽専攻であり、該当児童のような捨てゼリフをいわれると雰囲気が壊れてしまうことを心配されています。クラスの雰囲気の再構成をするのがテーマの本質ではないかと感じ取られていたようです。また、Aさんは、「この子、何かあったのか」と児童理解に努めようとする姿勢をみせています。Bさんもきちっとした指導姿勢をみせるのが教員としての資質であるとされながら、同時に、叱られた児童のプライドをどうするかが大切であると述べられました。いずれにせよ、そこには授業に対する反省、つまり授業にひき付けられなかった反省点が認められるようです。Bさんがいわれるように、バッと叱っていい場面かそうでないかも重要なポイントです。

 討論終了後にワタクシの方からポイントを指摘しましたが、やはりここはバッ叱るべき場面ではないでしょうか。ここで叱らないと、該当児童にとっても問題が残るでしょう。さらには、「教員がなめられる事態」に発展しそうです。ここの児童を伸ばす、叱るよりもほめる指導とはいいますが、このテーマでは、どのような叱り方ができるのかが実践的に問われているのです。もちろんながら学校教育法第11条はありますから、それを踏まえるのはいうまでもありません。

 さて、つづいてDさんがBさんの指摘を受け、叱られたときにその児童はムッとすることもあるだろう、そうならないように、平素からの信頼関係形成に努めるべきであるとご意見されました。これはもっともで、信頼関係をいかに作り上げるかが、クラス運営の基礎ですね。Eさんは、その点、担任を持っている児童以外の子どもたちも視野にいれ、指導をすると述べられ、最も悪いのは「聞く耳を持たない状態に陥ること」であるとされました。そうだとすれば、Fさんいわれるように、教員間の情報交換、連携も大切になってきます。自分ひとりでは該当児童のみかたも一方的になるので、多様な視点から該当児童をよくみつめることが必要であるとのことです。Dさんがこのご意見に同意され、該当児童をみつめるみつめ方とともに、ご自身の前回発言の信頼関係形成のために学級通信を活用し、班に分けて書かせてみるといった提言をされました。ただここでも、単に学級通信を書くといっても、テーマとの関係性が薄いので、どのようにそれをつなげるのかがDさんの反省材料でしょう。

 Cさんは、テーマの「分かった、分かった」といった憎まれ口も含め、生徒とのコミュニケーションだろうと、現場感覚を反映した、また、一段上の感覚からはなされました。その達観がよいですね。すべてを受け容れる教員の度量。その上で該当児童の保護者への対応も考えるといわれます。Bさんは、Dさんの話された通信の問題を無視するわけにもいかず、しかし、テーマから離れていくのも困る、といった様子で、面接官役のワタクシとしましてはどうこの事態を処理するのかなと興味を持っていました。簡単に通信のほか、HPに記事を書かせる方法もありますねといい、「では、テーマに戻りまして」(この一句が名言でしょう)、クラスの雰囲気つくりをどのようにするべきか、また、同じクラスの友達からの一言がクラスを変えていくということを具体的に話そうとされました。Aさんがこれに付け加え、叱ると「わー」っとなってしまうので、黙る手法はどうだろうかと提案されました。黙っている先生をみて、「先生がどうなるかわからへん」状態を作るそうです。Eさんはこの提案に反応し、ご自身の児童生徒からの評価を述べられました。それは、「怖い教師」だそうです。そして、黙ってしまうことによって場をなんとかするのは、抜本的な解決策にならないともいわれます。というのは、こうした反応をする児童生徒には、「命がけ」で授業の方法論を考えるべきだからだそうです。ここまで言い切られると、説得力もありますね。

 Cさんは、集団自治ということに話題を振られました。該当児童の態度をどう「改心」させるかは、結局、学級、学年の目標設定をしっかりすることによって解決できるのではないかということです。さらに、黙ることによって該当児童を「目で殺す」のも一つの手段ではあるが、「ええかげんにしろ、もう中学三年生やろ」と意識付けする方がいいのではないかと発言されました。Fさんは、参加型の授業を提案されました。たしかに該当児童が授業に積極的に参加していないのはあきらかで、だからこそ、主体的に参加できる授業をすると。具体的には活動をメインとしたグループワークを提案されました。DさんもこのFさんのご意見に賛成で、グループワークを進めるためにも信頼関係成立が鍵になると考えておられます。カウンセリングマインドを発揮するとさらによいとのことです。

 このあたりで時間の問題もあり、最後にまとめましょうとなって、Eさんは、自分の指導方法の方向性が間違っていないことを確認するのも大切なのではないかと、みなさんに投げかけられました。Bさんは謝辞を述べられ、Fさんは児童の問題を自分の問題と捉える立場を明示され、Cさんは、昔ならすぐに叱っていたので、こぶしを引っ込める配慮を考えさせられたと発言。Aさんは、該当児童のことは話し合いできたと思うが、他の子どもたちはどうなるのだろうと疑問を呈され、討論は終了しました。

 あえて、結論は求めませんと最初にご案内しましたが、こうしたまとめがありました。討論はどんどん深まっていって、いつのまにか時間が来てしまったというのがワタクシにおいては理想だと思っています。無理やりに結論を述べ合う必要もないでしょう。

 今回の討論の反省点は、いかにしてテーマの本質に迫り、本質について議論するかであったと思われます。テーマに潜む問題点をトピック化する力量を付けてくださいね。

 もう9月。新学期ですね。あすから児童生徒とまた格闘してください。ではまた〜
(9/1)

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