教育エッセイ・10

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生涯学習について

 近年、情報化社会、国際化社会という言葉をよく耳にします。その流れの中で、自立的、主体的に生きていくため、学校を卒業し離れてからも、学びを通して自己を磨いていかないと、何事につけ通用しない時代になってきました。まさしく、生涯学習社会の到来であり、リカレント教育の推進ですね。生涯学習とは、1965年12月、パリで開催されたユネスコの成人教育推進国際委員会において、ポール・ラングラン(1910〜)が提起したまったく新しい教育理念でした。ラングランは委員会を代表し、その勧告文でこういっています。「ユネスコは、幼い子供時代から死にいたるまで、人間の一生を通して行なわれる教育の過程――それゆえに、全体として総合的な構造であることが必要な教育の過程――をつくりあげ活動させる原理として、生涯学習という構想を承認するべきである。そのために、人の一生という時系列にそった垂直的な次元と、個人および社会の生活全体にわたる水平的な次元の双方について、必要な統合を達成するべきである」。

 ゆりかごから墓場まで勉強、というわけですが、この教育理想をよしとするならば、それぞれの年齢に応じてもっとも効果があるように、個々人の実生活と教育現場との距離を縮めなければなりませんね。と同時に、実生活と教育現場との間を橋渡しする永続的な手だてが求められることになります。しかも、ラングランによれば、人生という時間的に継続していく「垂直的」な立場からだけでなく、「水平的」、ということは空間的な立場からも、人間の生涯にわたる学びの場を、学校、図書館、公民館、博物館、美術館、カルチャーセンターを含め、あらゆる社会的施設、社会教育の領域に拡大して捉え、統合していく必要があります。ひとことでいえば、学校化社会の構築です。 当然、義務教育も生涯学習の一環に組み込まれて行くことになります。

 しかし、ひるがえってみれば、ワタクシたちは声高に生涯学習の推進を強調しすぎているのではないでしょうか。たしかに自主的な学習や研究を可能とする教育的環境整備は、ひろく福祉の観点からしても必要であることは間違いないところです。ラングランの提唱以来、政府は生涯学習社会の構築に腐心してきました。文部行政の中心たる中央教育審議会は、徐々に生涯学習を具体化する方策を答申するようになってきました。「生涯各ステージごとの課題」(中教審答申「生涯学習について」昭和56(1981)年6月11日)を解決するための教育の外的事項を、政府や各地方公共団体が責任もって設計することは国民の教育要求を満たすものだといえるでしょう。

 この流れに決定打を浴びせたのが、80年代半ばの中曽根康弘内閣の諮問機関である臨時教育審議会です。21世紀をにらんだ教育改革の一環として生涯学習の青写真を本格的にしめした審議会でした。中曽根の教育思想には、学歴社会に対置する世界として生涯学習社会がありました。 しかし学ぶ学ばざるは最終的には個人の自由にかかわることであって、生涯学習はキャンペーンをしてまですすめるべき教育のあり方なのでしょうか。そこでは、否が応でも教育や学習に一般市民を囲い込む荒々しい波があるように思われるのです。

 自発性なき教育や意欲なき学習などありえません。意欲こそ個性をしっかりとしたものにするのではないでしょうか。乱暴にいえば、意欲=個性とすらみなしていいのではないでしょうか。逆にいえば、意欲、やる気さえあれば、政府が音頭をとるこのお仕着せの生涯学習に批判的になるでしょう。そこでは、人間形成の教育意図が薄く、ハウツー的教育を用意しているケースが多いからです。各資格習得講座の費用や、民間の外国語学校において、その授業料の何割かを国が負担するという宣伝に、その姿勢が鮮やかにあらわれています。もちろんそれが、産業界の教育要求をふまえてのとりくみであることは間違いありません。

 こうした調子では、義務教育および高校教育段階を生涯学習の初発段階と捉え、そこで学びの楽しさや自己学習の方法論を身につけるといっても、笛吹けど踊らずになりはしないでしょうか。なぜなら、政府や文部科学省がしめす生涯学習は、産業社会の要求に従属し、成人を対象とする職業教育重視の生涯学習の方向にありながら、強引に学校教育を生涯学習の一環に位置付けようとしているからです。すなわち、どのような意図をもって政府、文部科学省が、学校教育段階において、「ゆとり」の中で「生きる力」をはぐくもうとするのかはっきりしないのですね。学校週五日制というのも、その意図が薄まってしまうでしょう。

 加速度的に科学技術が発展する今日、それに追いつこうとして技能を習得せんとする大人をうかがい、こどもは「ゆとり」の中で、休日の土曜に、何を考えるというのでしょうか。教育政策の目指している方向と社会の動向とは乖離しているといわざるを得ません。それは、教育のふたつの仕事、つまり人間形成と生産能力の陶冶という両者の、教育学上の整理の不十分さがもたらしたと考えられます。つまり両者がどう関連し、両者を融合したカリキュラム編成の原理を検討するという責任を、ワタクシたちは果たしてきていないからにほかなりません。それが教育政策の分裂に反映しているといえるでしょう。「総合的な学習の時間」は、果たしてこの両者を折衷する切り札になるのでしょうか。そこが問題ですね。

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