教育エッセイ・11

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生きる力

 ここで人間形成ということを今一度素直に考えてみたいと思います。人間形成という言葉には、コメニウスではありませんが、人間の諸能力の全体的、調和的展開への願いが込められています。学校の成績がいくらよくても、人間味がない、人間としてなっていない、といわれることがありますよね。この反省の言葉は、情意の伸張、養成をわすれた主知主義教育に対するはっきりとした警告だと思われるのです。「人間としてなっていない」という言葉は、なにも戦前の教育がよかったという無責任な、非歴史的な姿勢やイデオロギーから発せられた言葉ではなく、思ったままを素朴に声にした国民の感情の表現でしょう。それゆえに、より人間形成における問題の根が深いといわなければなりません。どこに戦後教育の反省点があるのか、その所在をほのめかしています。

 昭和30年代、政府文部省は学習指導要領を「告示」することをもって、従来の「手引き・試案」的要領から法的拘束力を有するという方向に転換しました。それと同時に、知育偏重という批判をかわすため、「道徳」の時間を設置しました。教員や学者がこの「道徳」の時間の特設に大反対したにもかかわらずです。以来40年余、「道徳の時間」設置の結果は、どのように評価すべきなのでしょうか。その総括なしに、現在、政府は、ためらわず道徳教育をすすめようといい、泥縄式教育政策を展開しようとしています。これでは、知識偏重を推しすすめたと評価されるブルーナー的学習指導要領と、人間形成を重視する学習指導要領とが交互に登場した、20世紀のいわば教育課程編成の飲酒運転を反省することもできません。こうしたフラフラした状態は、系統的な学習を要求する教育方針と、子どもの生活経験を尊重する教育方針との揺れにも如実にあらわれているのです。

 人間としての成長を求める教育は、今日では、「生きる力」(第15期中教審1次答申「21世紀を展望したわが国の教育のあり方について」平成8(1996)年7月19日)として表現されています。偏差値教育が錆びれていく傾向があるにもかかわらず、依然として受験競争が激しいですね。概念的、抽象的な知識は多く所有していても、創造的な思考力に乏しく、ひ弱で感情表現の乏しい、無気力・無関心・無感動の児童生徒が育っているのを反省し、古くはコメニウスのいう全人的教育を回復しようと政府が意気込むのも無理はありません。

 政府が以上のような政策を立ち上げるのはわからないことはないのですが、しかし、現場の教員は、この「生きる力」と表現されるものと同内容のことを、第15期の答申で報告される以前から、そしてもちろん現在においても、児童・生徒に身につけさせようと苦心しているのではなかったでしょうか。教育の「不易」に相当するこうした力を、教員は必死に指導せんとしていたのではなかったでしょうか。「生きる力」の内容は、答申によれば、ひとつは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力です。もうひとつは、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性およびそれを支える体力です。ここに新鮮味を見出すことは難しいでしょう。いまさらの感は否めません。

 それを承認したうえで、なお、このような「生きる力」を養うにあたって具体的に教育現場でどのような演出をし、実践するのか、ここに教員の力量が問われるのであり、つまるところワタクシたちの課題といえます。こうした「生きる力」の欠如は、児童・生徒が人間形成を目指す経緯での体験不足に根差していると考えられています。 そのことについて次回考えてみたいと思います。

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