教育エッセイ・16

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学級を作ること

 生徒の学力形成や人格の形成にとって、学級という集団のもつ意義はきわめて大きいですね。朝、登校すると、まずは決まった教室にはいります。そこで友達と会い、学び、遊びます。思い出して下さい、クラスの仕事といえば、給食、掃除、係り活動と、懐かしい語彙が連想されますね。ここ学級は児童・生徒の生活を空間的に保障する現場といえます。たとえ「不良少女とよばれて」や「スクールウォーズ」と、ドキッとする表題がついても、多くの撮影が教室に割かれています。児童・生徒の生活は、学級を離れては成り立たないのを証明しています。学校全体で取り組む掃除にせよ、係り活動にせよ、こうした多くの活動は、学級を基礎単位として実践されますし、教育課程の実践はクラス単位に振り分けられ、進行調整しつつ計画されています。

 とすれば、学級とは、教科指導、生活指導を計画的、体系的に行なうことを目的として組織される基礎単位のグループと定義付けられます。その編成に各学校は苦労することでしょう。この学級を、どのように、また、何人で形成するかということが焦点になりますね。この焦点は学級の人数的な規模だけでなく、空間的な規模をも決定します。ワタクシほか都会に住むものの経験からすれば、学級は同学年で編成されるものであると自明に思っていることでしょう。しかしその「自明」が「自明」でなくなってきている現在の教育環境があるのです。オープンスクール、壁のない学校は、空間的な制約を排除したところに新しい教育的な意義を発見しようとする試みですね。ここでは閉鎖的な空間をイメージさせる「学級」の欠点を排除する学級思想が見受けられます。単位制高等学校の出現などは、同学年構成の枠を壊していくことになります。

 ところで同学年の生徒で編成されることを単式学級といいます。これに対し、学級編成の例外として、過疎地などにおける複式学級編成があります。異学年合同でクラス編成される場合です。こうした編成決定は、学校教育法施行規則にしたがっています。小・中・高校、どの校種にかかわらず、同じ原則にたっています。しかし、こうした原則は原則だからこそ、学級の在り方について再考すべき土俵を提供してくれているのです。複式学級を児童・生徒数の多い学校に採りいれたらどうなるでしょうか。

 勉強がよくできる子・できない子、男性か女性か、こうした振り分け基準にどこまで正統性があるのでしょう。もっと斬新な基準は、ユニークな視点からの振り分けはないものでしょうか。つまるところ、なにを基準にして学級を編成するか、このことが広く教育界において再び議論の的に据えられてきているのです。勉強がよくできる子・できない子という振り分けなら能力別クラス編成ということになります。驚くべきことに、公立の学校(高校)でも、能力別クラス編成はすでに平成元(1989)年第5次改訂学習指導要領のときより導入されているのです。

 男性か女性かの振り分け方は、教科の特性(体育)などから実施されているのは「自明」でしょう。そのほか、将来の志望(文系・理系)や健常児・障害児の区別も編成の要件となるでしょう。とすれば、編成ということは、いかにして教えるに効率のいい集団形成をするか、学校という場の地ならしになりそうです。あらゆる意味で似通った志望と同程度の能力を持った集団を割り振りするということです。これが今までの学級編成のあり方でした。教科指導の際、学力的な面で理解度の違いを考えて、どのあたりに視線を定めるかワタクシたちは迷うときが往々にしてありますが、それを解消せんがため、こうした従来的学級編成の思想が存したと解釈することもできるでしょう。

 しかし、今日、異学年の交流を大切にし、自ら課題を見付け問題を解決していく総合学習・体験学習が展開されるべきですし、障害児教育分野で議論される統合教育=インテグレーション、交流教育=ノーマライゼーション(等生化)が進むなか、均質な集団形成だけが学力形成・人格形成に効果があるわけではないとわかってきました。たとえば、障害を「欠陥」と捉えるのではなく、彼のもっている特性・個性と捉え、障害児も健常児もお互いにその存在を尊重しあい、学び、遊ぶ教育を推進するというのが、交流教育であって、こうした従来の編成設計思想を超えたところに、新しい学級編成の原理が見出される契機があります。以上のように、有り体にいえば雑多な存在が渾然一体としているところに、寛容の精神なりおおきくいえば文化の違い、価値観の違いを理解し乗り越え、相互尊重する秘訣があるのではないでしょうか。

 ただし、従来の教え込むという立場からの比較的同じ程度の対象を集める集団設計の仕方と、ワイドな立場から創造された編成思想との、単純な、どちらがいいかという問題ではありません。さまざまな人格と能力をもつ生徒が、互いに切磋琢磨すること、このことこそ、人間的に生徒を育てていきます。「キミとボクとはちがうんだ」的心性をもつ学級のなかで、あるいは認め合い、あるいは対立し、生徒の経験する多様な体験が人格形成の糧になります。答申のいわゆる「形式的平等の打破」は、能力主義をオブラートにつつんだ表現であるとワタクシは感じているのですけれども、そうした意味合いでこの標語を捉えるべきではないでしょう。

 翻ってみれば、そもそも同じレベルの集団形成などできたのでしょうか。ワタクシが生徒時代の70年代や80年代、はたまた90年代において、均質な学級集団設計の原理などあったのでしょうか。できもしないことをやろうとしたツケが、あるいはいじめや学校の荒廃、あるいは不登校のかたちで噴出したのではないでしょうか。学級編成の歪みが児童・生徒のココロに伝染し、イビツな空間をもたらしたと考えることができます。保健室になぜ登校可能なのに教室には足を踏み入れることができないのか、そこのところを教員を目指すものは注意するべきでしょう。こうした学級編成に潜む問題点を1人ひとりが考えてほしいものです。

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