教育エッセイ・17

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新しい教育制度の試み

 多様な学級編成のあり方をきっかけにして、ここではその延長線上にある教育制度論を考えていきましょう。従来は「その能力に応じて、ひとしく」(憲法26条)の解釈とも関わり、各学校は学級の割り振りに難しい判断を迫られていました。能力別がおおっぴらに許されない現実を前にして、なんとかやってきたというのが本音ではないでしょうか。一方、多様な個性を吸収するフトコロの深さも、学級は備えていなくてはなりませんでした。多様性を包みこみつつ、みんなで入学して、みんなで卒業するとのタテマエは、21世紀になって曲がり角にきているのかもしれません。なぜなら、その脱出口に、新学科の創設があるからであり、無学年制が唱道されてきているからです。新学科の導入は当然冒険になりますので、その設置妥当性は長い眼でみていかないと結果はわかりません。無学年という発想は、従来の教育制度を切り崩していく武器になっています。しかし、武器だからこそ、その使い方を誤まれば大変な結果になります。

 この無学年制は、学年制が、教科教育における目標を達成しなくても進級可能であるのに対し、それに批判的な見地から模索された新しい試みでした。留年すれば、「数学は点数取れなかったけど、国語はよかったのに、国語だけでも通してくれ」と生徒が疑問に思うように、修得した科目も再度受けなければなりませんが、そのムダも省くことが制度上可能です。つまり、生徒1人ひとりの学習進度や理解度を重視し、型にはまった教育課程カリキュラムを取り払って、教育内容を修得させていくものです。アメリカ発の無学年制は、学年廃止、進級廃止、弾力的時間割、個人の能力に応じた学習などの特色をもっています。「できる子」はいいですが、しかし、「できない子」を置き去りにする方法でもあります。これでは「落ちこぼし」を大量に生んだ時代に逆戻りしてしまうでしょう。まだ実践例の少ない無学年制の制度編成上の欠点を反省、解消し、さらに発展させていけば、オープンスクールや単位制が新制度として出現するわけですね。

 現実に、たとえば大阪府では松原高校など、総合学科を導入している高等学校をあげられます。こうした新コースの設置は、多様化対応の現代日本的表現といえるでしょう。日本の公教育制度にも、脱出口が、光がみえてきたようです。能力別というディメンジョンではなく、多様な価値の追求を可能にする教育制度を構想することによって、教育機会の
「均等」・「平等」を保ちつつ「能力」を耕す、ということでしょうか。生徒の自主的判断を踏まえて学級編成を行なえるのですから、これは学級編成思想に1つの風穴を開けたことになります。また、無学年制の視点から、単位制高等学校などもその存在が国民に認知されるようになってきました。

 総合学科(普通教育及び専門教育を選択履修を旨として総合的に施す学科)は、高等学校設置基準の改正を受け、1994年度から実施され、普通科、専門学科に継ぐ第3の学科として登場しました。当時、国立1校、公立6校でのスタートだったのが、いまでは全高校生の2〜3パーセントが進学しているようですし、設置数も2000年度で141校を数えます。ここでは、生徒1人ひとりが自分の適性、興味・関心、進路などに基づいて独自の時間割を組むことができる教育課程を用意しています。各学校が生徒の個性を伸長させるべく、多様な生徒の実態に応じ、教科科目の選択の幅をできる限り拡大して準備した教育課程です。特色ある学校づくりを地でいけるのですね。総合学科は、第1に将来の進路選択を視野にいれた自己の進路への自覚を深めさせる学習の重視、第2に個性を生かした主体的な学習を通じ学ぶことの楽しさや成就感を体験させる学習ができるというところに特色をもっています。

 その教育課程についてもう少し詳しくいいますと、一般の必修科目(最低35単位)のほか、体験学習など職業へのガイダンス的性格をもつ「産業社会と人間」、コンピューター科目を中心とする「情報に関する基礎科目」、卒論・卒業研究的科目としての「課題研究」の3科目を原則履修科目とし、それ以外は普通教育と専門教育の中から幅広い選択教科を準備して、生徒が自主的に選択し、学習できる環境を整えています。総合学科の増加は、従来の普通科を中心とする学校序列を改善せんがための期待のあらわれといえるでしょう。ただ、問題は、いうほど教科目を設置できるのか、できたとして多様に設置した各コースや教科を指導することの可能な教員を確保できるのかというところにありそうです。その1つの解決策が、特別非常勤制度の活用と免許制度の改革でしょう。

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