教育エッセイ・3

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思想界と教養

 内界の発見とは、いいかえれば自我の発見といえるでしょう。自我を発見し、主体を青年期に確立していく作業は、避けることのできない哲学的な課題です。その作業はまた、自分なりの実存的な課題を発見する作業でもあります。自分がなぜこの世に生きているのか、何のために生きなければならないのか、何をするために生まれてきたのか。誰しもが苦しみながらみつけだしてきたわけですが、それをなすには、自分がしっかりと地に足をつけないとできないでしょう。その足場こそ内界であるといえるのです。

 こうした内界、自我を、ヘルバルトの言葉を借りて表現すれば、「思想界」といえそうです。ヘルバルトが、「人(ここでは教員のことを指す−浩)が彼(ここでは学生たちのことを指す−浩)のうちにきわめて内的に結合された大きな思想界を青少年の心性の中へもたらすことを知っている時にのみ、教育を十分に実施することができる」(『一般教育学』)というときの言葉です。こうした理解を持つように、教員側に注意を促すのも、この内界を発見し整序する人間の尊さとその必要性を認識していたからこそであり、それゆえに「思想界」の設計を教育目標として、ヘルバルトは教育的営為の基底に設置しているのです。

 内界の発見あるいは「思想界」の設計に関連し、つぎの言葉を手がかりに教育や教養、学問について考えてみましょう。「どんな出来事にも二つの取っ手があって、つかむと怪我をするほうの取っ手を選ぶのは賢明ではない」(アラン『幸福論』)。さまざまな決断を要する場面に直面したとき、ワタクシたちは、なににしたがって判断しているでしょうか。また、判断するべきでしょうか。そのとき他者からの助言や忠告などが考えられますが、最終的な決断局面においては、自分自身が現在にまで培ってきた知識や経験による場合が多いですね。この知識や経験の蓄積をここでは教養といいかえて議論していきましょう。では、教養とはなんでしょうか。辞書的にいえば、それは、「社会人として必要な広い文化的な知識。また、それによって養われた品位」や、「たんなる知識ではなく、人間がその素質を精神的、全人的に開花発展させるために学び養われる学問や芸術など」と定義付けられます。いまその意味を後者にアクセントをおいていえば、教養とは、専門的な段階にすすむための基礎基本であり、必要不可欠の前提となりますね。触るとケガをする取っ手をつかまず、教養の力で容易に持てるほうを選び取り、やがて、その方面で豊かな成果を積んでいきましょう。

 そうだとすれば、われわれはわれわれのもつ「素質」を伸ばすべく努力するべきなのですが、その際、教養を得る場面とは、手に触れるもの、目にみえるもので知的対象となるものならば、意図的にも無意図的にもすべてその場面だということになります。しかし、これでは途方もなく話題が広がります。そこで、このことをもう少し限定して表現すると、人間と社会、人間と自然との関係をみつめることが教養というものの出発点となると思うのです。ここから、たとえば政治学や文学などと大学の教養科目が設定されることになるのですが、とりわけ人間と社会との関係をみつめるとは具体的にどのようなことでしょうか。

 これに対する答えはさまざまです。ただその中に自と他、自己と他者との関係をどう捉えるか、いいかえれば、主観(主体)の確立と客観(客体)的認識の獲得という哲学的作業は、いやしくも人間であれば必ず課せられている作業といえます。デカルト的にいえば、自己を観念しないと、他者の観念は生まれませんね。つまり、主体性や自主性を育てなければ、客観的認識を手にすることなどできないのですね。主体性が確立してはじめて、正当かつ誠実な他者理解や批判への道が拓かれるのです。学問をしようとか、自分を作っていこうというのは、そういう苦しみにはじまるのではないでしょうか。そして、人間が作りあげてきた文化を理解するというのも、先人たちの営為に対する正しい受容と批判のうえに成り立つのではないでしょうか。文化とは、ワタクシたち(自)が歴史的に相対化できる対象(他)であり、偉大な遺産だからです。

 人間と社会や自然との関係を、したがって文化を真剣にみていこうとする気概から、主体性が形成され、輝く個性が結果されると考えます。もしそうした時間を経ず、教養が身についていなければ、つまり自分を作ろうとする意欲がなければ、人は現在に、そして環境に従属し引きずりまわされるでしょう。そこでは、「内的世界」、ヘルバルトのいう「思想界」は構築されがたいでしょう。これは本能にしたがって生きるしかない動物的状況です。一方、真剣に教養を身につけようと必死に思考し行動するものは、想像力や創造力を最大限に得られ、自分の身におこる事柄を超えた部分をもつことができるはずです。ここにこそ、人間の独自性がみとめられるのではないでしょうか。そして、それが、内界の発見ということではないでしょうか。

 カントは『教育学講義』の中で、造物主にこう語らせています。「私はお前のうちに善きものに向かうあらゆる資質を賦与しておいた。その資質を発達させるのはお前の義務である。したがってお前自身の幸も不幸もお前自らにかかっているのだ」。

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