教育エッセイ・4

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教育の可能性

 いままで述べてきましたことから、人間は、内界を築く精神的成長のため、教育を必要とする存在であるといえそうです。そうだとすると、もちろんなにがしかの課題を解決するのに、ある程度の知識の枠組みは必要ですけれど、実質陶冶的に、多量な知識をやみくもに注入することには、意味がないのではないでしょうか。この教育の必要性を別の視点から捉えなおしていいますと、人間は内界を築くことができるということ、教育することが可能な存在であるということになります。教育の必要性は教育の可能性を前提にしています。ペスタロッチが子どもの認識の鋭さに気づき、貴族でも庶民でも、誰にでも教育を授けることはできるのだと主張したのは、市民革命前夜という歴史的背景を考えれば、ほんとうに卓見です。

 動物は、時代、社会に関係なく、同じ種類の存在は同じ種類のまま生命を繰り返すに過ぎません。イヌはイヌ、ネコはネコ、かわることはないですね。鳥類は、そのさえずり方を先輩から学びますが、それを除けば先輩から何かを学ぶというようなことをしないし、その能力もありません。カラスもカブっ、カブっから、そのうちにカア、カアとうまく鳴くことができるようになりますが、そこまでです。しかし人間は豊かな可塑性(物体にある限度以上の力を加えると連続的に変形し、力を除いても元に戻らない性質。これを教育学的用語として使用)を持っています。すなわち人間は、高度な学習意欲と能力を具備しているのです。ヒトという種は、同じ種として存在するだけでなく、先輩から多くのことを学び、「発展」ということをめざします。カア、カア、では済まないのです。当たり前ですが・・・

 「わたしたちは生きはじめると同時に学びはじめる」のであり、「わたしたちは学ぶ能力があるものとして生まれる」(『エミール』)のです。ここに訴えるからこそ、教育が、文化的領域のひとつとして成立し、機能しうるのですね。人間は教育なしには人間らしい人間たりえないのです。それだけではありません。カントのいうように、「人間は教育によってはじめて人間になることができる」と同時に、その教育もまた世代とともに完成されていく技術であり、「人間の内なる諸資質を調和的に、また合目的に発達させるように、それによって全人類をその本分にまで導くように、教育は次第に改善されていく」(『教育学講義』)のです。教育という機能もまたその意味で歴史相対的な技術であり、時代とともに洗練されていく価値、文化そのものであるといえます。「教えるということ」が、つまり教育の本質そのものが、教育という技術に磨きをかけていくといったらいいでしょうか。教育方法、教育技術の発展は、いままでの教育のあり方を反省的に乗り越えるところから生まれるものですね。その発展の推移に意味を見出すのが教育史の仕事のひとつでしょう。

 以上、教育の可能性について論をすすめてきました。それと絡めて教育そのものの技術の発達ということを述べてきました。動物と違って、明日を作り出す能力をもった人間は、昨日を今日へ、今日を明日へと人間の成し遂げてきた成果を伝達します。つまり社会の維持を後続にたくしながら文化を伝達します。そのとき、教育、学校というものの存在意義が一層あきらかになると思います。つぎに人間と文化について議論をすすめていきましょう。

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