教育エッセイ・5

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文化を生み出すということ

 人間は弱い存在でした。力強く生きる野生の動物に対し、弱者としての人間は、自分たちに足りないところを補って生きていかざるを得ません。狩猟生活を想像すれば、生きていく上での切実な要求が、石包丁を作ったし、鏃を作ったといえそうです。しかし、人間は満足することのない動物です。石包丁の次には弓矢を作ったし、武器にかぎれば、飛鉄砲にまで発展したのですね。つまり、高度化したということです。観点をかえていうと、便利さの追求ということです。これが文化の発端でしょう。残念ながら、動物たちはこのように文化を作ることはできませんでした。人間だけが文化を所有したのですね。とりわけ、言葉は文化の発展的継続に欠かせないものでした。

 言葉を巧みに使い、意志を確認し合い、人間は外敵から生命を守り通しました。生命を守るため、次には、自然に働きかけ、あるいは無謀にも自然を征服せんとし、結果的に文化と呼ばれるものを作りあげてきたともいえるでしょう。河川の氾濫から身を守ろうとする知恵が暦学を生みだしたことは歴史が教えるところですね。自然科学的な発展はまさに自然との闘いでした。とすれば、人間は、たんに生き物と同じように自然的な存在として生きているのではなく、意味をみつけて生きる存在であるといえます。自己の行動に意義を見出さなくては存在根拠がないと感じているわけです。現代のような資本主義社会体制=経済社会に生きる人間の立場からいっても、パンのみに生きるのではなく、人間的に生きていこうとする存在であるはずですね。

 一人ひとりの人間は、人生の意味をみつけ出すために生きています。人生の意味をみつけることとは、人生でなにをなしえるかを考えることといえるでしょう。ある場合には、作家のように個人的にそれを実現しようとし、実存的な課題意識に支えられて達成することでしょう。またある場合には、なんらかの集団に所属し、「言葉」を媒介に所属構成員全員が協力して「仕事」を達成するでしょう。こうした集団は、目標を立て、ともに働き、ある価値を生み出そうとしているといっていいでしょう。その価値はなんでも構いません。ただ、その価値が認められ、文化が発生していくのですね。

 大きくいえば、この集団を「社会」と呼んでいます。小さくいえば「会社」でしょう。会社組織はたんに利潤の追求だけでなく、どのような形にせよ社会貢献の理念を掲げているはずです。それは意味をみつけて活動する組織であろうとするからなのです。利潤の追求だけでは、満たされないわけです。むかしちょっと流行ったメセナなんかもその残骸です。このようにして人びとによって創造された文化には、人生の意味をみつけようとして格闘した跡がつまっています。ワタクシたちは、このようにして、人生の意味を追求するため、積極的に文化や歴史にかかわることになります。

 ワタクシたちはこの現代社会において、生きてきた証に文化を残そうとします。虎は死して皮を残す、作家は死して作品を残す――しかしそれは大したモノではないのかもしれません。すばらしい作品を作りあげたいと願望しても、それは無理な相談です。なぜなら、人間存在そのものが大したモノではないからです。ちっぽけなモノです。ワタクシたちは欠点ばかりでしょう?いいところも持っているけれども、完全な人格や技術を兼ね備えているわけではありませんよね。作家を例にいえば、かれらは、現在読むことのできるあらゆる文学作品を糧にして、自分なりの文学観を構築し、あたらしい文学作品を書こうとします。また、新しい文学的な潮流を作ろうとします。苦しみながらも未熟を自覚しつつ作品をつづる。文学世界における捨石のひとつになろうと意欲しています。しかしどんな作家といえど欠点もあります。

 そもそも欠点を持っている作家という存在が、完璧なものを作ることができるわけありません。ただその欠点は、ある場合には個性として認識される可能性はあります。ではなぜ作家はモノを書くのでしょうか。過去の文学を批判しそれを乗り越え、同時に、新しい文学を作ろうとするからです。だから飽くことなく文学的な格闘ができるのです。現状の文学的世界に散見されるものたりなさを許さない作家の精神的ストレスが、一層高いレベルの作品を創造せんとする原動力であるといえるでしょう。残念ながらワタクシは、そんなストレスを感じるところにまですらいってません。悲しいですけど。つまり、なにを読んでもすごいなあで終わってしまうということです。

 人間はいくらがんばっても、たかだか100年くらいしか生きられません。作家は、果たそうとして仕上げられなかった仕事を残すものです。したがって、肯定的にせよ、否定的にせよ、ある作家の意志を引き継ぐ次の世代の作家が、また出現します。必然的に出現します。ここには教育的な作用が働いているといっていいでしょう。彼の作品はなにをいいたかったのだろうか、ひとつ勉強してやろう、ということですね。死んでいった作家は、作品に生命を吹き込み、その息吹をすった新しい作家の中で生きつづけますね。とすれば、ここでは、作品を通して両者はつながっているといえます。これが生きた歴史です。これをあらゆる分野に当てはめて考えるとすれば、伝達と再創造を媒介として私たち人間は連帯しているといえます。その連帯を容易にかつ滑らかにする機能が、教育に課されるのです。ヘルバルトがいうように、「たとえ教訓によるとしても、警告によるとしても、いずれにしても人類がいままで探求してきた遺産をすべて後継者である青少年に集中して提供することは、人類が続いていく限りあらゆる時代になすことのできる最高のことである」(『一般教育学』)のです。

 ことわるまでもなく、いままでの作家の作品群にストレスを感じ、それを解消しようとして、新しい文化や作品が生まれるからといって、作品に甲乙をつけることができるということをいおうとしているのではありません。各時代の作品や文化には、それぞれの歴史的、文化的個性があるのであって、それらを比較することからその発展の方向性を論証するのは学問的に意義のある仕事でしょうが、たとえば、たんに明治の文化と大正の文化のどちらが優れているのかという議論には意味がありませんね。しかし歴史上の文化的価値は連続しているということを、そしてそこには教育的な営みがあったということをいいたいわけです。

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