教育エッセイ・6

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教育と研究と

 作家が先輩の作品を批判的に読み、格闘し、新しい作品を生み出そうとする努力に、ワタクシたちは文化的な力を確認しました。そのほかの領域においても、このような緊張感をはらんだ、いわば世代間のやり取りが行われていることでしょう。一言でいえばこの作業は「文化の継承」ですね。この「文化の継承」こそが、教育そのものといっていいのではないでしょうか。作家の個人的な仕事にとどまらず、それも含めて全社会的な「文化の継承」を議論の俎上にのせて考えれば、教育は文化を内容とし成立するといっていいですね。

 このことをもう少し学校教育的サイドから考えてみましょう。学習指導に関してです。たとえば数学的な論理の世界があって、そこで展開されるべき幾何の世界、代数の世界は、偉大な数学者の遺産を引き継ぎつつ形成されますが、必ずそれを乗り越え、さらに新しい数学の世界を築かれます。物理の世界でも要は同じでしょう。そうした意欲のもとに科学は成立しています。一方、三角比やLOGでもいい、数学の内容がなければ数学「教育」は成立しませんし、等加速度直線運動の定理や公式がなければ、物理「教育」は成立しません。学問の世界では、学問の自立性を支える「研究」を確認することができます。しかし「研究」とちがって、「教育」は、それそのものだけでは存在できないということをも、この事例は気づかせてくれます。教育するべき文化的価値・内容がなければ教育できないからです。これは教育の、ないしは教育学の自立性という大問題にかかわってくることです。教育は、中世の哲学のように、他の文化領域の僕でしか存在できないのでしょうか。さらに問えば、教育ないしは教育学の存在理由が他の領域の付随的な役割でしかないと自分自身を貶めるところに、教育の退廃が発生する原因があるのでしょうか。もっというと、学問と教育の関係は置いておいても、教育と学習は違う行為として、この先認識されるのでしょうか。

 このように学問的な世界を背後に持つ「学習指導」の場面では、教育の仕事は伝達ということになります。しかしそれは創造的伝達でなければなりません。ただしここで、芸術という観点がワタクシたちの議論の前に立ちはだかります。あたかも作家が先輩の作品を塗り替えるように自分の作品を出そうとします。ここに格闘はありました。しかし、先輩の作品と、この作家の作品の存在価値は歴史の際に立たせてみれば同等です。両者に甲乙つけても、つけなくても存在が許されるでしょう。一方、数学的世界においても先輩を超えるような数学的発見をしようとするために、基本的な数学を勉強開始するわけです。ところが先輩を超えたところで、ノスタルジーのほか、その先輩の数学的世界における存在理由はなくなります。そしてこのことは、先輩の「先生」としての役割はほぼなくなったことを意味しています。教え教えられるなかで、研究意欲が学生・生徒の中に宿ったとき、先生は必要なくなります。学問の世界に見せられ、学問探求の道に入るということは、こうした学問的な「真実」を「導きの光り」に置きかえ、「先生」を排除することで完成するのでしょう。カントがいうように、「教育は漸進的に一歩ずつ進むほかはなく、ある世代がその経験と知識とを次の世代に伝え、その世代がさらにまた何かをつけ加えて次の世代に伝えるということによってのみ、教育様式についての正しい概念が生まれ得る」(『教育学講義』)としかいえないのですね。

 われわれが学校で手にする教科書は、数学的世界にせよ、物理的世界にせよ、このような文化内容を誰にでも理解できるように初歩から編纂されたものです。こうした学問の世界=文化を、「教科書」化し、後進に伝える努力、つまり教育によって、人間は集合体として歴史的生命を維持することができます。教育によって、よくいわれるところの「基礎基本が確実に定着する」からです。社会の成熟は個人単位の成熟を促し、人間性に磨きがかけられるようになります。だから人間は、あるいは科学の進歩を成し遂げ、あるいは社会的な矛盾を是正し、新しい高度な生活へと、その向上が可能となるのですね。人権概念の歴史的発展をみても、そのことは明瞭でしょう。つまり、物理、科学の成果として携帯電話も発明されるし、人権教育の積み上げによって就職差別もなくなるということです。

 しかしここで問題にしている文化の伝達とは、受身的なそれを意味しているのではありません。たとえば数学や理科の奥義にしても、それを伝達する際、たんに知識を詰め込む形で、後続世代をプラスチックの容器に見立てて注ぎ込んでも仕方がないでしょう。内的な、考え抜くという活動こそ教育というものの命なのであり、たんに受身の知的な内容の獲得などありえません。このような厳しい世代間の緊張関係の中で引きつがれた文化に、伝統という名がつけられると思われます。したがって、教育は知識の受動的伝達において成り立ちません。教育されるものに、自らの発達にとって価値のあるすべての素材を内から獲得しようとさせる。そうしたエネルギーを前提として成り立っています。主体的文化選択能力を育てることが教育のおおきな役割であるといってもいいでしょう。まさしくこの「内から」が教育=エデュケーションの原義であって、ここにこそ社会的機能としての教育の重要な意義が存在するといえそうです。「学習権」が主張されるのも、ここにひとつの根拠があります。

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