教育エッセイ・7

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エミール君

 教育が長い年月をかけて社会の準備した機能であるならば、ときにいわれる「世間(社会)が人間をつくる」との考え方は見当違いではないようです。とすれば、ワタクシたちを取り囲む社会的環境こそ、人間を人間にする培養土のようなものでしょう。そうすると、近代教育思想史の上でひとつ疑問が出てきます。ルソーのように、「社会」ではなく、人間対人間の接触がほぼないと想定される「森」という自然の中で教育するということを、どのようにワタクシたちは考えるべきなのでしょうか。環境は教育の「条件」でしょうか。もっといえば、ルソーの有名な命題に、「自然に帰れ」というのがありますが、これはどういう意味なのでしょうか。人間と社会との関係性から考えてみましょう。

 『エミール』第2編の中で、ルソーは家庭や社会の悪影響を避けるため、エミールを「森」の中、自然の中で育てようと計画しています。それはまさに「万物を創るものの手をはなれるとき、すべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」(『エミール』)からでした。だから小さい男の子エミールを実社会からいわば隔離し、「自然人」として育成しようとしたのです。つまりそれだけ人間に対する社会の影響力が強いということをルソーは示唆しているのです。もちろん社会と断絶したまま人は生きられません。自然の人間を作るといっても、その人間を未開人として、森の奥深くに追いやるのではなく、「社会の渦のなかに巻きこまれていても、情念によっても、人の意見によってもひきずりまわされることがなければ、それでいい」(『同上』)というように、さまざまな権威に屈服しない自立した意識や安易に感情に流されない自己がうちたてられればいいとの態度でエミールに接していました。そうした人間がまた、社会にたち向かっていくわけですね。

 ちなみに上述した「万物を創るものの手をはなれるとき、すべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」(『同上』)という言葉は、西洋の思想的特質を、もうひとつ提供してくれます。すなわち、カトリックの伝統的な考え方にある根源悪、つまり原罪をむこうにまわし、生まれたままのこどもの善性を信じるという宗教的な問題意識です。こうした伝統的な西洋思想の旧習に対決姿勢を鮮明にしながら、子どもの善性をいかに傷つけないで豊かな人格を作れるかが肝要であるとルソーはいいます。子どもは決して大人ではない、子どもは子どもとしての特質を備えた独自の存在なのであると。

 ワタクシたちはそうした存在である子どもを理解しようとしないだけであって、そこに間違いがあります。発達途上にある存在としてこどもを捉えるならば、発達の段階に応じた自然な教育を子どもに適用しなければならないでしょう。自然の歩みにしたがって、育てていかなくてはならないのです。「子どもを小さな大人」とみなす従来の誤った子ども認識を反省し、「自然はこどもが大人になるまえにこどもであることを望んでいる」(『同上』)ことを再確認するべきなのですね。なぜなら、この自然の順序に逆らえば、子どもを教育することは、成熟せずすぐに腐敗してしまう果実を育てることとかわりないからです。

 自然の秩序にしたがって子どもを教育するとすれば、まず子どもの感覚器官を十分に機能させることからはじまるのは必然でしょう。ペスタロッチら近代の教育思想家が、いわゆる「開発教授」をすすめる前提に、目、耳などの知覚機能を充分に発達させるべきだというのも、こうしたルソーに学んだ教育思想的理由があるのですね。ルソーは後世の教育学者から慕われ、道標とされる「こどもの発見者」となったわけです。この「発見」はまた、子どもの人権を尊重する発想を用意しました。19、20、そして21世紀のワタクシたちの教育観、子ども観の根底に、このような問題意識が横たわっています。第3世界に強制する先進国の傲慢だとの批判もありますが、「児童の権利条約」などは、その最たる成果でしょう。

 子どもの人権を尊重し、このように教育の原点を人間の「自然」な「善性」において、教育という活動は決して知識の詰め込み作業ではなく、教育されるものの想像力や推理力、本来子どもに備わっている能力の開花であるとルソーは主張してはばかりません。それゆえ、「初期の教育はだから純粋に消極教育でなければならない。それは美徳や真理を教えることではなく、心を不徳から、精神を誤謬からまもってやることにある。あなたがたがなに一つしないで、なに一つさせないでいられるなら、あなたがたの生徒を、右手と左手を区別することも知らせずに、健康で頑丈な体にして12歳まで導いていけるなら、あなたがたの授業の第一歩からかれの悟性の目はひらけて理性の光りを見るだろう。なんらの偏見ももたず、なんらの習性ももたないかれは、あなたがたの授業の効果を妨げるようなものをなに一つもたないだろう。やがてかれはあなたがたに導かれて、人間のなかでこのうえなく賢明な者になるだろう。こうして、はじめにはなにもしないことによって、あなたがたはすばらしい教育をほどこしたことになるだろう」(『同上』)。ルソーは子ども自身が持つすばらしい才能の自己発見を妨げる、あらゆる妨害を取り除くことを指導目標にしているのですね。これが消極教育といわれる方法でした。あえて世話を焼かず、子どもが成長していく土壌の整備にだけ気を配るのです。子どもを子どもとして育てることに成功した後、第二の誕生としての青年期の教育にエミールを歩ませるのです。それは、市民を育てる教育にほかなりません。理想的社会(『社会契約論』において構想される民主制社会)の建設者、それが「こども」に与えられるべき称号でした。

 以上のように、ルソーの真意は、『社会契約論』で展開した理想的社会を実現し、そこに生きる準備を、前社会の穢れをうけることのない自然の中で、エミールに積ませようとしたところにありました。なにしろ人間は自由な存在として生まれてくるにもかかわらず、いたるところを鎖でがんじがらめに縛られているのですから。この状態からの解放を教育に依頼するといっていいでしょう。前社会の準備した教育をうけ人間形成されたものは、新しい、まったく違った秩序をもつ社会の建設に尽力することはできないということを暗示しているのでしょう。

 身分制の洗礼をうけたものは身分制を自浄する能力を身につけることが困難であり、その仕事は身分制を知らないものの手にかかっているということを、壮大な仮想的現実=小説世界の中でルソーは展開したのではないでしょうか。この意味では特殊な例示の仕方ですね。エミールを森の中で生活させたのは、根拠があっての場面設定なのでした。「子ども」は第2の誕生としての「青年」になり、社会を変革していく力となるのですね。つまるところ『エミール』の主題は、市民革命と切り離せない教育論なのですね。政治体制を変えるには政治の舵取りをする人間そのものを変えなければなりません。そのためには人間をどのように変えるのか戦術をルソーは用意しなければならなかったのです。

 社会を反省する視点から教育の意義を再認識しようとしたルソーにしても、その問題意識は社会そのものから発酵しているのはいうまでもありません。ナトルプが「人間はただ人間的な社会においてのみ人間となる」(『社会的教育学』)というように、人間は人間社会に生まれて、人間的な社会生活を媒介してはじめて「真」の「人間」となります。もちろんこのことをルソーが知らなかったわけがありません。多様な個性や優れた能力も、この社会的なるものをくぐりぬけてはじめて発達し、開花します。この点をルソーから離れて野生児を題材に少し述べて今回のエッセイを閉じたいと思います。

 「人間はただ人間的な社会においてのみ人間となる」ことを『狼に育てられた子』や野生児が逆説的に説いています。『狼に育てられた子』は、今では「まことしやかなウソ」であると云々されていますが、その真偽はさておいて、アヴェロンの森で発見された野生児の事例や『狼に育てられた子』であるカマラとアマラなどの報告から、社会的存在、類的存在としての人間存在ということがクローズアップできます。アヴェロンの野生児は医師イタールの努力にもかかわらず、結局、言語を獲得できなかったし、発見当時8歳くらいのカマラは、ようやく3年経って両足歩行でき、6年かかって30前後の言葉を話せたに過ぎませんでした。人間社会以外の環境において、ということは人間が蓄積してきた文化や文明の影響を一切うけることなく、たとえば狼などの他の動物によって育てられたとしても、肉体的には一定程度の発達を遂げることができるかもしれませんが、人間としての基礎的、独自的能力である直立歩行や言語獲得能力は発達しないわけですね。

 人間の発達における社会環境の役割をあきらかにするのは、しかし、なにも野生児の例だけではありません。現代社会においても、たとえば「欠損家庭」に育つ子どもの精神面でのある種の「歪み」、非行少年の問題行動、不登校、ひきこもりなど、いずれの現象もその児童・生徒をとり巻く社会環境が大きな要因となっているのはみやすいでしょう。

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