教育エッセイ・9

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意図的でない教育の力

 学校教育は、先輩(大人)が後輩(子ども)に行なう教育です。そして学校教育は、一般に強制力(公権力)をともなって意図的、計画的に行なわれます。そこでは、真・善・美に生きるべく「人間の形成」と、たとえば英語能力やPCの技術など「生産能力の陶冶」とを内容とし、組織的に制度化・計画化されるわけですね。しかし、人間形成は、なにも組織的な、計画的な活動だけによってなされているわけではありません。つまり人間を育むのは学校教育だけではありません。

 たとえば幼児が言葉を話すようになるのは、家庭や地域の生活の中で周囲から自発的に自分のものとした結果ですし、望ましい生活習慣や行儀作法、他人との付き合いにおけるたしなみも、たいていは日常生活を通して自然に身につくものでしょう。子どもが昆虫を手にしたときの驚き、少女が着せ替え人形を大切にする意味。子どもにせよ大人にせよ、とりたてて人間を教育しようとする意図や計画がなくても、日常、社会生活そのものが自分自身をつくる糧となります。とすれば、学校のほか家庭も遊びの場も職場も、人間同士の交渉のある場所であるならば、あるいはそこに教育的な意味を見出すのならば、すべて教育的な場であるといってもいいでしょう。教育的意味合いを無意識に人びとは各自の行動に見出しているのです。この意味での教育は、「無意図的教育」と名付けられ、その教育力にもワタクシたちは注目し、期待してきたのです。

 実際のところ、上のような無意図的教育と意図的教育とが、らせん状に織り成して、人間が人間になる作用をもたらしています。とかく教育的な影響というと、意図的、計画的な教育、その典型としての学校教育だけであるかのように考えられがちです。しかし、ワタクシなどは学校で習ったことよりもむしろ、友達とのやりとりの中で学んだことのほうが自分を作ってくれたのではないかと考えることも間々あります。とすると、どこまで意図的教育が人間形成に寄与し、どこまでが無意図的な教育によってはぐくまれた人間形成なのかは、にわかに区分けなどできないのではないでしょうか。

 学校で習う数学の公式や英語の文法の知識、古典の読解能力などが、卒業と同時にはらはらと散っていくのをみるとき、友人関係、日常社会の多様な影響にくらべ、学校の力があまりにも弱く感じられる場合が少なくありません。高校卒業時の学力を持続することは容易ではありませんよね。そうかといって、無意図的教育が必ずしも人間によい作用や影響を与えるとも限りません。そこからはいり込む多様な情報が、よきにつけあしきにつけワタクシたちの人間形成に大いなる影響を与えているからです。現代の社会を運転する政治や経済、通俗的な習慣や流行、それに加えラジオ、テレビ、映画、新聞、出版などのマスコミ、さらにはインターネットの世界は、欲すると欲せざるとにかかわらず、そこに囲い込まれてワタクシたちが生きていかざるをえない限り、とりわけ「思想界」の確立期にある青少年におおきな影響を及ぼしていることは否定しようがないですね。すなわち、胸に手をあて心を空しくして現代社会をみつめなおすとき、そこにはさまざまな刺激が氾濫しています。 その摂取の仕方が問題なのです。

 表現の自由を守護する立場からいえば、たとえば最近制定の動きがある「青少年有害社会環境対策基本法」のような、行政の手によって多様な表現を規制することは断じて許されるものではありません。チャタレー夫人の判例を引き合いに出すまでもなく、芸術とはなにかをめぐっては議論があります。エロティクな表現やグロテスクな表現を規制することは「全体主義」の第一歩といって過言ではありません。しかし、悪意に満ちた情報の「氾濫」した状況は問題でしょう。こうした範疇における無意図的教育が、人間形成に負の側面をもたらしているとすれば、ワタクシたちはその浄化に努力し、悪影響を与える情報を自主的にとり除く必要があるでしょう。意図的教育=学校教育現場に情報科を設置したひとつの根拠がこのあたりにあります。また、社会教育の役割のひとつがここにあるのはまぎれもありません。「浄化」後に、残された価値ある無意図的な教育の力に信頼を寄せ、かつ、意図的な学校教育の可能性をさらに追及し、両者相俟って「人格の完成」を目指すべきといえるでしょう。

 こうした社会的環境の下、自己形成してきたワタクシたちは、いま一歩自己を向上、啓発させるため、たとえば読書にしたしみ、あるいはすすんで各種の講座を受講するなど、自発的に社会教育の手を借りて自己創造していくべきかもしれません。その善悪は別にして、意図的教育も実はこうした自己啓発を促進するために、またそれを支援するために位置付けられるようになってきています。義務教育段階や高等学校において、学ぶ楽しみを発見させ、将来の自発的学習を効率よくすすめていけるような基礎的技術を身につけさせていく指導が要求される所以です。とすれば教育という概念もそれに伴い、その広がりや深みを反省して捉えなおさねばなりませんね。それは生涯学習というテーマにつながっていきます。

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