聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

驪歷とりあえず

 若い方々と議論をしていて一番気になるのは、枕詞のように「とりあえず」なる語を使われるときである。「とりあえず」には真剣さがない。「とりあえず」は、多様な選択肢のなかから、当り障りなく、間に合わせに何かを用意する表現にほかならない。

 ワタクシたちは、自らが選び取った現実を必死に生きている。日々、実存を賭けた勝負である。みたまえ、教室の子どもたちを。彼らを前にして、「とりあえず」勉強でもとか、「とりあえず」練習でもとか、いえるだろうか。安易な気持ちで使ってしまう言葉にこそ、人間性が問われ、社会性があらわれよう。国語の力を教養教育の前提とするのなら、このあたりの反省から出発するべきではないか。

 なくなっていく言葉もあれば、形を変えながら生き残っていく言葉もある。極端な例だが、「世の中」が「男女の仲」を意味していたのは平安朝であって、いまでは「世間」そのもの、「社会」自体を指す。この意味内容変化は、女性の王朝的世界観が変容し、より広い価値を賦与され、発展して元の意味が「廃れた」結果である。この解消はいい。一方、国語審議会がカタカナ言葉を誰にでもわかりやすい日本語表記にと注意するのは、日常、カタカナを使って半分以上をしゃべるわけでもないのだから、滑稽といえば滑稽であろう。こうした言葉狩り的態度をワタクシはとらない。不問である。

 わかりやすい言葉使いにはおおいに賛成であるものの、和語にするには難しい言葉もあるだろう。世代を乗り越え正確な意味伝達をはかろうとしても無理が生ずる。インターネットプロトコルという言葉の意味を高齢者に理解せよといっても無謀なのは、ワタクシの両親で実証済である。プロバイダのテレビCMをみてさえ、意味がわからぬとこぼしているのである。それをたとえば「新型情報供給電子的回線会社」(でいいのか?)と和語に置きかえられたとして、どれほどの効果があるのか。

 さて、「とりあえず」の意味が、肯定的な意味に転化することがあるのであろうか。千年経ってもない、と信じたい。変わるとすればそのときは日本語が表現伝達機能をなくすとき、つまり、日本が亡くなるときである。

 現時点で、みなさんを前にして「とりあえず、教採試験でも受けよか」という奴がいたら、ワタクシが飛んでいって殴ってやる。ただ、居酒屋でビールを頼むときだけ、この言葉の使用を許すとしよう


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