聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

麗黎問題公表

 学生の頃から長らく疑問に思っていたことがある。それを教員の立場から省察し回顧するのも悪くはないであろう。その省察に、パーソナルな思い出を交えてみる。

 人生を生きてくれば腑に落ちないことは多い。冒頭の疑問とは、そんな問題のひとつであり、「大学の期末試験の問題を、学生に前もって伝えるのはなぜか」という誠に一般的にはそういうものだと信じ込まれている疑問である。

 そんなことはないとおっしゃるセンセイもいるであろうけれど、真実はワタクシの経験が説明する。学生の時、それも入学したての第1回授業で、期末の試験問題を発表した老教授がいた。若かりしワタクシは唖然としてその真意が分からず、驚き、また憤慨した。

 大学とは勉強する場所じゃないのだと思い込み落胆した桜散りし一日であった。浪人生活を秋霜気分でそれこそ勉強に打ち込み、ようやく入った大学講義の初っ端でなめられたのであるから、松田優作じゃないけれど、「なんじゃこら」と叫んだ後、脱力した。この老教授の罪は重い。消しゴムかすを机から掃くように、ワタクシはさて置き、前途有望な多数の若者の勉学意欲を落下させてしまったからである。

 次の週、満杯の教室は閑散となった。葉桜と皐月の薫風がキャンパスを支配しようとしていた。薫風は学生を優しく撫でる。

 大学でシリアスに勉強しようと複初したのは3年になってからである。前半2年間遊んだツケは大きかった。でもまだ救われたと思っている。半分は勉強に打ち込めたのであるから。

 3度目の桜を愛でた後は、本の虫になった。「緑のたぬき」など身体に悪い食糧を買い込んで、TVもないタンツボ的6畳間から一歩も出ず3日間過ごしたこともある。なぜTVがないのか。誘惑に弱いワタクシは、TVの線を引っこ抜いて等加速度落下運動の実験を敢行したからである。

 相変わらず期末試験の問題を学生に伝える風が桜を散らしていた。季節は容赦なくめぐる。博士課程を修了し、大学の教壇に立ったワタクシが、第1回目の授業で問題を公表するはずがない。なぜなら仙人のように森羅万象を達観できうる老教授ではないからである。若さは厳しさを友とする。キリスト的寵愛を学生に与えない。30前後の教員は小中高大の校種にかかわらずバリバリ指導しようとするものであろう。

 そんなワタクシが試験問題を前もって公表するようになったのは、もう5年も前からである。白旗をあげた理由は仏になろうとしたからではない。何も伝えずに試験をすれば、300人の履修者の200人に不可をマークしなければならなくなったからである。資格獲得のための講義であるのにその意図を理解していないようにみえる学生が多くなったからである。

 老教授は私語なく講義を聞こうとする学生を選別するため問題を公表したのではなかったか。つまり問題公表することで学生を篩にかけたのではないか。問題をいったくらいで出席しないようなら学問をする資格はないというのが真意だったのかもしれない。

 この真意を見抜く選球眼をもつ学生は少ない。ワタクシはこうした「突っ撥ね」を老教授と共有しない。なぜなら、なにか心に引っかかる言葉を投げかけるのが教員の使命だとカッコをつけているからである。

 桜は散り、紫陽花の葉は濡れ、冬至に南瓜を食う。ここにきて、問題を前もって伝えることを止めようかとワタクシは悩んでいる。そんなのは「常識」でもなければ「伝統」でもない。ナンセンスだと思いはじめているのである。

 200人落ちようが、ガードレールを打ち破って命まで落とすもんじゃあるまいし。そう思う裏面には、ワタクシの単位一つで卒業できるかどうか人生を左右する深刻なケースを作りたくないという弱気も潜んでいる。だが、成績を甘くつけるのは学生のためにならないとすれば、落すことも愛情かもしれない。千尋の谷に落して這い上がってくるのを待つ態度、あるいは「一隅を挙ぐるに三隅を以て反らざれば即ち復せず」の論語精神で挑まなければ学生の学力は伸びないのではなかろうか。

 教室にTV付き携帯が跋扈しそうな時勢である。考えるということを習慣付けるためにも、悪しき「伝統」を断ち切ろうとしている。寝ぼけまなこの蛙が飛び出し、桜の蕾がふっくらしようとする季節を迎える頃、公表するか否か、自分自身に回答を与えるとしよう


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