聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

麗力モー娘。

 モーニング娘。のメンバーになるためにはどうすればいいのか。最近、ぼんやり考えていることである。学年末試験準備に追われる学生の前でこう切り出したら、一笑にふされたが、易々と見逃せない論点を含んでいるように思われる。

 大袈裟に「モー娘。の社会学的考察」とはいわない。しかしちょっとつきあってほしい。モ−娘。のメンバーたちは自己実現しているだろうか。実に然り、同世代からは、至大至高の自己実現をしているように映る。そしてそうであるということをこの場での前提にしよう。

 世の女子中高生でモー娘。に加わりたいと思っている数は星の数ほど存在する。彼女たちはオーディションという「入学試験」を受験する。倍率は有名進学校の比ではない。1人か2人しか合格しないが、その厳しさはたとえば大阪府教員採用高校美術の受験状況と変わることなき超難関である。運が作用するのも同じである。

 合格すれば晴れて集団に所属し、芸能活動を開始する。「学校」入学である。その「教育課程」には「歌」、「芝居」といった「科目」が用意されている。一定期間の芸能活動を遂げると「評価」が下され、ゴマキのように「卒業」して自立し、ソロデヴューする。別れ際には花束贈呈の涙の儀式。ときにはメンバーの数人がグループを形成して「班活動」をする。「特別活動」といってもいいかもしれないミニモニとかいう活動である。

 彼女たちはモー娘。集団にあって先輩、後輩関係を紡ぎ、同時にライバル関係にあり切磋琢磨している。そこでは見えないだけかもしれないが「イジメ」はない。いわんや「不登校」もない。自己実現のためにメンバーは必死に芸能スキルを学び、つんくほか「教員」からそれを貪欲に吸収しようとする。まさか「歌」の「授業」中にメール交換に耽ることはありえない。プロデューサーつんくは「教員」あるいは「指導者」の立場にある。主役は「生徒」である彼女たちだということを決して忘れずそのサポート役に徹している。支援している。まさにこの集団はユートピア集団である。理想の教育形態を実現しているではないか。

 さて教育活動と経済芸能活動が一致しているところに、彼女たちの真剣さの源泉があるのかというと、そうではない。なにしろ実際は巷の中高生とかわらない彼女たちである。お金のことにはチンプンカンプンであろう。そうした点にではなく、今その瞬間に、自分のために、脇目も振らず努力を重ねているのである。結果としてその芸能的経済効果が増大し、世の社長を押し退けて長者番付に名を連ねているだけである。

 こうした素敵な、それでいて自己実現のための正常な集団の在り方が、学校教育において実現できないものであろうか。なにも職業教育と結び合わせて学校を考えるわけではない。学校世界は強制にはじまる。そこからして異なる。

 中学生であっても、自発的入学意欲を明確にもって自己実現を胸に秘めているケースは少ない。自分の目指すべき将来を展望することなく、高校に進学するケースも多い。それは自分探しの旅の入り口であるからかまわない。

 だが、おぼろげながら見えてきた自己の生き方と学校の教育要求つまり、教科能力をアップさせよ、が齟齬した際、生徒は暴発する。その学校的圧力がパスカルの法則よろしく弱いものに集中する。イジメや不登校の主要原因となる。じっくり自分の頭で考えたいと主張する生徒に、そんなことはいい、問題解決処理スピードが要求されているのだと却下される。皆と同じ行為行動をとるのが学校の暗黙の了解事項であるとして突き付けられ、自分を見失う子どもは多い。制服の存在を疑ってかかる精神はここに胚胎していよう。

 「ボクはボクのやりかたがあるんだ」を無視する学校。学校は児童生徒の自己実現を満たそうとする反面、その、よかれと思っていることが裏目に出つつある。裏目が出る確率の高さは13万人超にもなんなんとする不登校数にあらわれている。

 学校の評価がすべてでないことに気づきはじめた家庭や子どもは、社会の多様化を背景に各自の信ずる価値実現の方向に舳先を転換する。学校的価値を認めず、学校の評価が社会一般の評価ではないと自覚する世代が発生する。

 「アンタ、なに夢みたいなこといってるの、モー娘。になるんだって?」と一昔前なら歯牙にもかけられなかった相談が各家庭の団欒を豊かにしつつある。大切なことは、社会への貢献と自分の将来展望からする成功とが幸福な関係にあることであろう。

 ひとさまから認められる存在に自己を成長させていくことが、人間としての目指すべき方向性であるならば、学校的価値を追放しないまでも、学校の役割が薄まっていくのも致し方がないのではなかろうか。さて、モーニング娘。のメンバーになるためにはどうすればいいのだろうか


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