聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

麗憐

 学校で一番得るべきものは、学力でもなく、体力でもなく、深い絆で結び合った友情であろう。産業資本の教育に対する助教法流の要請をさて擱くとすれば、本来、集団教育を実施する効能はここに見出されるものである。

 17世紀的貴族教育の主流指導形態としての家庭教師を雇う個人教授は、不完全ではあったが学校教育に席を譲った。少なくとも友情獲得のために登校する価値が存する。

 トモダチ100人できるかな、歌にまでなる学校教育に対する願望が、小学生の純粋な心情であり続けるべきであり、100の個性のぶつかり合いにこそ、切磋琢磨の標語が生きる。

 こうした希望と憧れをないがしろにする学校選択は意味をなさない。この先開かれる多様な教室世界に思いをはせ、自己と他者との関係性を学んでいく過程に、真善美を議論する舞台が整えられる。

 最終的に1人だけだとしても、信頼できるまさかの友を得ることができばそれでよいのである。初等中等教育は児童生徒のこのような希望を第一に叶えてやるようにするべきではないか。

 魔法の杖はないけれどもそのための教育課程が再検討さるべきであって、学校と地域社会の連携が試される所以もここにあると信じたい。「お受験」してまでエリートコースに我が子を進学させたいのは、親のエゴ、つまり我が子の功利的な人脈形成のためだろう。

 高等教育段階では、本人の意識と関係なく、何でもいいあえる友情関係形成の裏地に、カネから便宜まで、財にまつわる未来予想が縫いつけられていよう。「人脈」作りは、我が国の誇る「資源としての人材」を有効活用することにほかならない。このことを実証してきたのが、今の閉塞状況を作り出してきた学歴社会であった。

 美しい友情が学閥の奴隷となる。学閥の磁力は砂鉄を一定に象る。官僚制、企業構造ひいては社会構造を規矩する眼に見えない足枷である。だが導きの磁力が薄れてきた昨今、なぜか初等教育以来、純粋性に出発した友情が、「なあなあ」関係に化け、醜聞や堕落を引き起こす。「なあなあ」関係をそう簡単に切断できないほど、それほどに現代人の学歴桎梏は深い。

 大学に行かなかったことにはさらさら後悔していないが、大学に通って大学時代の友人を作ることができなかった点だけが悔やまれる、とは大河ドラマ「武蔵」の原作者の言葉である。この達人の嘆きとも負け惜しみともとれる遺訓の本質を看過してはならない


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