聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

黎驪地震と猫

 携帯電話の普及と教育基本法改正との関連について稚拙な議論を試みる。一見距離のあり過ぎるように思える両者であるが、生活実態から推してみれば、乾いた法律の文章も身体化されるであろう。

 携帯の登場以前、彼女にデートの約束をとりつけるのに、家に張りつけられた黒電話しか連絡手段がなかった昭和時代、今の中年世代は、彼女の親が出るのではなかろうかと黒電話をかけるのを躊躇したり、あきらめたりした苦い経験をもつ。

 それだけ家族は、他者からの進入を限定あるいは見えぬ「コワイオヤジの顔」によって遮断し、家族としての防波堤を保持していたといえる。家族は我が子の人間関係をかなりの程度掌握し、集団としてまとまりをもっていた。

 だが科学技術の進歩はワタクシたちの所属集団の性格をガラリと変えた。ネズミを代表し、「猫の鈴」がNTTの手によって取り付けられ、御老体の行動はGPSで確認がとれるし、デートに誘う世の男性は、なんのためらいもなくワンタッチボタンを押す。利便性と引き換えに、家族は携帯によって解体されてしまった。確かに無線でつながる個人の在り方は、人類の夢であった。

 上のようなデートの取り付けから、ひそひそ話、ゴシップ、スピード感あるビジネス契約に至るまで、携帯はワタクシたちの願いを聞きいれてくれた。すなわち、すでに7千万台とも8千万台とも数えられる携帯は、家族から個人を析出したのである。

 この点、科学技術思想が生活実態を変革していく様子がわかって興味深い。一方、分子化し個人が析出されてしまったことに対し、集合体は恐れを抱く。集合体たる政府が恐れるのは弛緩した団体の在り方そのものである。

 家族を切り裂いたそのパワーは、国家をも徐々に切り裂こうとしている。国民の属性意識、愛国心は失われつつある。そうした傷口を治癒しようとして、政府が基本法の改正を通して、「新しい公共」を形成し、国家という集合体の自己保全を図ろうとしているのである。

 国民統合ヘ向けての政府仕立ての標語である「新しい公共」は、日本の国際的な競争力の確保、インターナショナルにおける国家としての日本の優位構築などを達成する動力源になる、そう政府は確信していよう。

 個人が析出される状況と、新しく国民統合しようとする状況と、方向性を逆にする振り子がメトロノームのようにつりあっている場合はまだよいが、政府の思惑の側に振り子が揺れ過ぎると、メトロノームそのものが壊れてしまう。強制的に「新しい公共」を押し付けられる「全体主義前夜」に国民は気付きつつ、一度水路付けられた個の賛美を決して捨てようとはしない。

 基本法が3者連携を条文化し、「新しい公共」に寄与し国際競争に勝つ実力を日本人に要求するのは、個人主義の四方八方への無制約な浸透を危惧するからにほかならない。それを国家の枠に制約しなければ、自立日本は成立しないと、政府は頬杖ついて溜め息をつく。

 だがひとつ携帯の例をみても、個人と国家の均衡がすでに崩壊している様子がわかるのに、それを力づくで連帯させようとするのはコスモポリタンを無視する暴挙といわなければならない。家族の力は、理論的には、この先どうあがいても復活しないのである


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