聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

黎曆不夜城シブヤ

 不夜城シブヤの街からティーンエイジャーが消える。

 東京都の新条例化をめざす第25期東京都青少年問題協議会答申に、権力の放恣を見抜いている旁午読者諸賢も多いと思われる。青少年に対し、深夜のマンガ喫茶、ネットカフェ、カラオケ店への入場制限をかけるPTAの欣喜雀躍しそうな答申条例案は、都民不在の政治的判断で、未成年の行動を抑制する取り決めである。

 この答申条例案の巧みさは、「まっ、これぐらいいいか」と思わせる遵守精神をすべりこませているところにある。人権享有主体たる地位に付随する権利を、ある程度未成年から剥奪することには、先人の英知ゆえに反論はしない。麗しい政治的教養を育んでいる途上であることを根拠に、参政権を賦与しないのも、大きくは国家統治、小文字でいえば自治体執政を、よりよく機能させる知恵であろうからである。

 本来個人道徳に依頼するべき深夜徘徊への戒めを、法的に表現しなければならない地平に都市は追いつめられている。だが、お台場にカジノを作って遊ばせ、テラ銭収入をアテにし、古き約束を撤回して後楽園に競輪場の復活を打診する大人は、法を作為し行政執行する側に居座れるほどの存在なのか。馬鹿じゃないか。

 あんなふうになりたいと見習うべき大人を身近に発見しようがない首都の若者は悲惨極まりない。青少年には青少年の独自の行動があり、大人が目を細めるような生徒会の自主的運営に彼らの矜持を見出す場合もあろう。

 そうした体験的な民主主義のミニチュアを、「生徒会有権者」として、あるいは斜めに一瞥し、あるいは満喫し、若者は社会人に成長していくものである。それをむげにして、「思いやり」か「押しつけ」かわからないが、形成意図が不明確な取り決めをしていいのであろうか。

 そこでは深夜であろうと保護者が面倒をみていれば、違反ではないらしい。家族に子育ての自覚をもたせるための条例案例外規定だが、聞いて呆れる。深夜、中学生とカラオケに出かける保護者がいるのか、いたとしてその保護者に子育ての自覚を求められるのか。

 イギリス古典経済学派の基礎を協議会メンバーや都議会議員に講義するまでもなかろうが、女子高生が「生セラ」(答申そのままの表現)を売るのは、アダムスミスの需要と供給の法則に合致しているからであり、需要を断絶する条例を提案した方が問題解決に決定的である。

 さて、ことは深刻である。なぜなら経済的な規制緩和が進む一方で、他方、人間の自由な行動に規制をかけることにつながるからである。若者の次は大人への規制であろう。自由をロマンチックな観点から語るだけでなく、むしろシビアな政治的思考を砦に反省しないと取り返しがつかない。

 行為行動の自由に対する規制は、内面の自由の規制に及ばないとはいえないからである。大都会東京が、この手の規制の先駆けであるだけに、都市的風景をともにするリトル東京自治体が、こぞって条例化を真似する勘違いを起こすとも限らない。

 21世紀はパンとサーカスだけを欲している国民ばかりではないのである。人間の作為した法や条例、つまり制度一般は、人間の健やかさを保ち、便利のために制度化されるものであって、それが一転して自然に反するニュアンスを含ませるものであるならば、時に、制度に対する一揆が噴出しても不思議ではないといえよう


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