聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

黎歷季節

 豪雪地方に住み、その厳しさに心底耐えている方々には叱られるかもしれないが、東京や大阪、愛知など、都会に住んでいる現代人は、なかなか降雪に逢着しない寂しさがある。
 
 自然の有様はこうでもあろうか――少し教育と関わらせて記してみる――冬に雪を愛でる素直を実感できるのは、日本人としての優雅な興感を養うものであろう。その雪融けの水は触れるに冷たく、河川を降ってやがて海に注がれよう。断崖絶壁に咲く新春の花、水仙は、訪れるものに再び巡る季節の準備を告げている。

 海を陸にし、春先に、梅ヶ枝に不如帰が休んでいるのを鑑賞すれば、丁寧に手入れされた盆梅を人は欲するかもしれない。桃の花の甘い香りとその葉の大きなことの感動を後にして、土筆の子を眺め、雛壇の在り処を思い浮かべる。

 桜とともに入学した子どもたちは「春みつけ」の学習を生活科で楽しむ。皐月の薫風、人びとを外出に誘い出し、なんだが力が漲ってくるのを知らず識らず身体に味わう。梅の実が採れる頃降る雨を梅雨という。昔の人はうまくいいえたものである。カラっと晴れた梅雨の合間の乾いた空気に夏の到来を予測し、そろそろ衣替えの用意に焦らねばならない思念が、人の心をつかんではなさない。

 人は紫陽花の可憐さを名残惜しそうにしつつも、何時の間にか路傍で小さな紫をみないことにうつろうことの意味を知ることになろう。犬の毛も、絨毯の添え物、ワンと吠え、かろやかに尻尾を振れば、怒る気もしない。大汗かいて遅刻を気にし、ぼうずが走りこむ。教室の扉をバーンと開ける、そんな子どもは、1ヶ月以上つづく休みの計画を深夜まであれこれし、寝過ごした罪を背負っているわけである。

 ひとりで遠くの方まで泳いでいっちゃいけないよと、夏の注意を子どもらにする反面、教採受験の難儀が頭をよぎる。「今年こそ」。

 夏の月は思ったよりキレイなものである。見上げる場所がよいからか、澄んだ空気がそうさせるのか、あるいは中秋よりもコクがあるかもしれない。小さい秋をみつけに、子どもたちがスクールゾーンを注意深く散策する。夏の名残のツクツクホーシ、出番を待つコスモスに、子どもたちがつぶらな目を集め、自然の流れに不思議さを感じさせれば、教員は重い荷を降ろした気にもなる。紅葉狩りの遠足に引率すればそれでいい――だがどうやら、都会ではこうした自然も自由に味わうことができないようになっている。

 クリスマスと歳末のバーゲンセールに冬の到来を自覚し、コートを着る人、着ない人のまだら模様に春を発見、地下鉄の満員電車でTシャツ姿の若者をみて、ああ夏なんだと季節を確認するほかない。

 子どもたちはTDLやUSJで季節を知るほかないのか。季節を作るのは自然ではなく、人間になっている。人工的な自然。なるほど新感覚は鋭い。自然と引き離された人間は、感性を痩せ細ろえ、自然を征服しようとするワガママを、迂闊にも科学の進歩と見誤る。教科書を通し、季語ある俳句を学習する意欲に欠けるのは当然である。

 季節の移り変わりなど、もう都会の現代人には意味を見出すほどの変化ではないのかもしれない


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