聾 浩の教室 聾
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黎年社会化と個性化

 社会とどう付きあっていくか。これは大問題である。偶然生み落とされたある社会の中で、そこに適合的に生きていく術を身に付け、個人が参戦していくことを「社会化」という。

 「参戦」と語気を強めていうのはなぜか。それは、リストラや年功序列賃金体系の崩壊に代表されるように、もう、現代では、社会に「参加」するなど生ぬるいことはいえない状況に突入しているからである。

 また、個人としてどう生きていくか。これまた大問題である。疾風怒濤の現代社会において、自己をどのように表現し、自己実現していくか、これを「個人化」あるいは「個性化」の問題と呼ぼう。

 敵を知り己を知る必要が、「社会化」と「個性化」をひとに課している。ワタクシたちが携わろうとしている学校教育は、基本的にはこの2つ術を身に付けることを、児童生徒の成長に応じてサポートする場であろう。

 ここに所与としての社会が現前に存在する。この社会がたまたま日本社会であるので、日本社会が歴史的に形成してきた政治構造や産業構造など、高度に枝分かれした社会の組み立てられ方を理解し、まずはそこに馴染んでいかなければならない。また、日本的な習俗や伝統から発生する習慣、慣例、あるいは不文律を理解し、それになずみ、適応していかなければ、生活もままならない。

 換言すれば、生きていくために、日本的な礼儀作法や集団的な規律、日本の社会秩序のなんたるかを獲得することが、社会へのパスポートなのである。それがいやなものであろうと、日本社会に所属し生きていくかぎり、学ばなければならない規範といえる。

 ひとはその最初に所属する家族集団のうちにあって、多くの「いやなもの」のうちの礼儀作法、いわゆるしつけの洗礼を受け、然る後、学校に入学する。家庭教育を前提に、学校は、社会に慣れない子どもを、自らの力で社会を渡っていけるまでに子どもの成長を促す集団的機関であるといえる。

 してみると「生きる力」は社会を渡っていく力といっても差し支えないであろう。世の中にはいい奴もいれば、いやな奴もいる。そうした観点から誤解を覚悟していえば、学校に集まってくる児童生徒は、閉鎖的な空間において、多様な人格をもった「奴」とうまく付き合っていく存在といえる。学校はそうした訓練の場であると考えられよう。お仕着せの連帯感を味わうのである。

 ときには教室の中心人物となったり、ときにははじき出されたりもする。授業のほか、クラブ、遠足、修学旅行と、しのいでいかなくてはならない集団的規律を強制する学校行事が目白押しであり、こうした教科外教育活動は、学校的な集団行動の価値を児童生徒に植え付けることになる。

 校則は法律に妥当するし、ある程度児童会や生徒会が自主的に担当する部門もあるであろう。他方、そうした集団行動の規律を重んずる学校の中で、自分だけの道を発掘することを期待される。進路、興味、適性、自己実現、そうしたことを一人ひとりが内面で反芻しながら、将来、社会の中で自分を生かす方策を創意あるいは選択しなければならない。

 教室の中で自分がどのように他人と違うのか、どうすれば自分の能力を伸ばしていくことができるのか、煩悶する。やりたいことだけをやって過ごすことができない学校空間に、やりたいことをみつけなければならない児童生徒が毎日登校してくる不思議である。

 集団に帰属意識をもたせながら、そこから颯爽とでていく指導を求められているワタクシたち教員は、この矛盾した教室をどのように変更していけばよいのであろうか。その哲学を一緒に考えてみるのも無駄ではないであろう。


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