聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

力戀キュイィーン

 5年ぶりに歯科医にかかった。最も歯ブラシの届きにくい右上の奥歯と奥歯の間に、やや空間が発生したので、これは虫歯の疑いありと思い、印字も褪せた古い診察券を頼りに、渋滞の次に嫌いな歯医者の門を叩いたのであった。

 ヤニ付いた前歯をさらして診察券を渡す相手は、真珠のように前歯がウツクシイ女性である。その女性が座る受付の奥からは、例のキュイィーンという空気を切り裂く不気味な機械音がする。

 超怖がりのワタクシは、その音に身体を硬直させるのである。予感は的中、虫歯ではあるが、さらに悪いことに虫歯の原因を作りだしている親不知の治療もしなければならなくなった。

 昔、右下の親不知を抜いた経験がある。その親不知は抜く必要性があった。正常範囲の歯に対し、圧力を加えるはえ方をしていたからである。だから、上下揃ってその機能を果たす歯の一方がないわけである。噛み合う相手のいない残された右上親不知である。

 それゆえその親不知がどんどん上から下に伸びてきて、歯並びから頭一つ抜け出す長さになっていたのである。そうはいっても2mm程度の違いであるが、歯の全長1cm程の口腔世界にあっては一大事といえる。こんなこともあるもんだなと、説明を聞いたそのときは、ふ〜んで澄ましていたのであるが、その説明につづく先生の言葉は、運命とはこのようにして自己に舞い降りるものであると実感させるに足る強制であった。

 顔一面を覆っているマスクから、にやっとした眼だけがさしせまる。「抜こか」とひとこと、「親不知は、いらん歯やからな」。ワタクシは虫歯の治療に来たのであって、抜歯しに来たのではないと恐怖を自我で抑え込み、平然とだんまりを決め込んでいた。迷っているのである。

 考える時間がほしい、わが愛する親不知との今生の別れになるやもしれない決断を、こんな瞬時に果たせというのか。30ン年苦楽を共にしてきた親不知である。友である。

 齢と書いて、よわいと読むが、歯篇であるところに古代中国人の着想をみる。せめて別離の情を偲ぶ安らかなひとときがほしい。かく運命とは残酷かつ急に人を襲う。しかし、名人戦ちゃうねんで、はよ次の一手を指さんかいと縁台将棋のオヤジが急かすのと同じく、先生も、どうするのかね、とワタクシのよだれのついた手を洗いにいったのであろうか、背後からワタクシに声をかける。

 こう言葉をかけるとき、先生はニヤニヤしているものなのであろうか。いや、それは違う、ワタクシが、ニヤニヤしているんじゃないかと考えている想像を、先生に投影しているに過ぎない。現実はそういうものであり、先生にとっては単なるルーティーンワークにほかならない。

 人間とは無機質な言葉がけにも想像をめぐらし、相手の心情を解読しようと試みるものである。

 麻酔の針が近づく。黒髭危機一髪。電動破砕機が例の音をたてる。唾液を吸い取ってくれる助手をみれば、そこには真珠の前歯をマスクで隠したさっきの受けつけの女性。抜いた親不知を医療ツールに置くときに、カランと音でもさせれば、薬莢の着地する音を連想させ、治療の終了も劇的であるのに、「はい〜、お疲れ」はないであろう。

 ところで突然の決断を下さねばならない場面はいくらでもあるだろうが、歯医者の場合は時間を考えなければならないことを読者のみなさまに警告する。

 朝食ったばかりで腹ごしらえをせず歯医者にかかったものであるから、治療後の空腹にはまいった。止血のために飯を食うのも制限される。この教訓は必ず将来生かされる。

 なぜなら、左下の親不知の治療予定日が、既に予定表に刻まれているからである。そうだ、この先生に聞いてみよう。学校の歯科検診を担当していらっしゃいますか、と。

 親不知との永遠の別離を惜しむ間にも、教育的思考を忘れないワタクシである。


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