聾 浩の教室 聾
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力驪

 イモ蔓式にしょっぴかれた観のある無断情報提供事件である。生徒に内緒で大学合否情報を予備校に報知したのは、現代のいかなる教育状況を反映してのことであろうか。

 予備校側がメクサレ金や図書券を都道府県立高校にちらつかせ、その餌に食いついた学校の破廉恥がみっかっちゃったと他愛無く解釈するのは、事件の表層をなめた見解に過ぎない。

 いうまでもなく、事件の起因は学校と予備校の癒着を固結させている学歴社会の残滓にある。いくら得点すれば望みの大学へ入れるのかを予想できる、予備校のもつ信頼すべき測定表が健在であって、結局はその測定表ほしさに学校が釣られているのである。ここに事件の本質がある。

 つまり、大学への進路指導にしっかりした定見を持ち得るにいたっていない高校の無対策が浮き彫りになったということである。いくら各学校の自主性に任されるべき教育課程の編成、その課程をクリアした生徒の個性に応じた進路進学といっても、横の連帯乏しい高校では、比較の上に成り立つ入試指導をすることはもともと困難なのではないか。母集団の少なさにも不安があろう。

 結果的に進学を意欲する家庭においては、予備校的なメジャーが不可欠なのである。さらに追い討ちをかけたのは、教課審が答申し、文科省の打ち出した絶対評価導入政策である。相対から絶対へ評価の衣替えに右往左往させられ、進路指導に自信をもてない高校は、頼るべき拠り処に予備校の指導能力を選択したといえる。

 このつながりが断ち切れないのは、教育改革を政府主導でいくら進めても、それに肯んじない非革新的心情が国民の中に巣くっていることを示している。そしてそれは健全な感覚でもある。

 たとえAO入試やAP入試を推進しようと笛を吹いても、その大学の要求に応えられる生徒数はマイノリティであり、大多数は普通の入学試験を経て、大学に進学するものである。さらに、指定校入社など、嫌というほど苦渋を味わってきた学歴による差別を、大人の脳髄から削り取ることは難しい。非革新的心情とはこのことを意味している。

 一皮剥けばなんとやら、絶対評価の採用による甘い進路指導を信じない国民多数が存在する。とすれば、偏差値に進路を任せた旧来の方法が大手を振って罷り通るのも、故ないことではない。

 究極のところ、人間は比較したがる動物である。他人と違う自分の発見に満足する生き物である。しかも大相撲の番付表を気にするように他人の並びを見たがるものである。人間の性根がこうであるから、能力の序列を全国的に確認できる予備校作成の学力レベル表に興味をもたないものはいない。

 週刊誌が出身別大学合格者速報を企画すれば飛ぶように売れるのは、こうした事情を裏付けていよう。ある精神科医がある著書の冒頭で語っているように、「東大入っても家の一軒建てられないようじゃあねェ」と終電間際に叫ぶ塾帰りの小学生の声に我にかえり、酔いを覚まさせられた大人は、「そりゃそうだが、学歴もなけりゃなんともならん」との大人気ない反発を胸に仕舞い込んでいるのであり、旧来の非革新的心情を保持するほか、有効な教育的手立てを見出せないのである。


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