聾 浩の教室 聾
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力曆アッポー

 小学校から英語の授業が必要か。これはもう数年来対立した意見の飛び交っているテーマであろう。英語導入にかかわる対立意見は、早期の英語教育が児童に役立ち、親しみもって中学英語につながる良いことづくめの対策であるのか、それとも言語能力もままならない児童に、いらぬ負担を背負わせる無謀な取り組みになるのか、という2点に集約されると思われる。

 教育特区の多様な取り組みを前提し、小学校への英語の導入が陽の目をみようとしているわけであるが、旁午の読者はどのように捉えられているであろうか。おそらく小学校教育課程における「英語」は、技術家庭における情報教育と同様に、例によって「慣れ親しむ」と目的規定されよう。

 そしてその教育内容は、子どもたちと英語によるお遊戯をしたり、英語の歌を歌ったり、フラッシュカードをつかったりするものと予想する。かごめかごめに代わる英語での遊びを組み入れようといったところであろう。あるいは紙芝居的にリンゴの絵をみせて、ジャイアント馬場のように「アッポー」といわせるハラであろう。

 どう考えても、高度な文法構造の解読をメインにする授業にはならないし、英単語をいくつか憶える程度であって、その意味では中学1年生の教育課程を前倒しに実践するものでもあるまい。

 とするならば、年間授業時数がどのくらいになるのかわからないけれど、手詰まりになって、3学期は英語ナシ、ということにならないともかぎらない。そういう意味では、もし導入するのなら、小学校の英語は少なくとも高学年、つまり5、6年生に限定し実践されるべきだし、かつ、週1回程度でよいのではなかろうか。

 とすると、高学年でも年間945授業時数しかないのであるから、英語の枠を無理に作って他教科を圧迫するまでもないのではないか。総合学習に包摂させたままでもいいだろう。

 翻ってみるに、英語の導入を後押しする強力な根拠は、保護者の強い希望にある。イロイロな学者が、学力低下の元凶を第6次改訂学習指導要領に見出し、言外に総合学習の無意味さを突いていることもおおっぴらになって、保護者は基本的に総合学習を眉唾物と思っている。総合学習イコール遊びと刷り込まれた保護者は、何をやっているのかわからない総合なら、いっそのこと教科教育に傾斜した学習を要求してもおかしくない。

 総合学習に保護者が求めるのは、環境問題でもなく、就業体験でもなく、実に国際理解教育であり、しかもそれは残念ながらアジア理解などではなく、就中、英語教育なのである。「せんせい、うちとこの小学校でも総合は英語にしようや」との保護者の願望を背景に、政府はこの計画の実現を、押し切ってしまうつもりなのであろう。

 ワタクシは小学校への英語導入に反対ではない。やるならやりたまえ、といったところである。しかしその教育課程の編成には慎重でなければならないと思っているだけであり、土曜日をその学習に充ててしまい、政府の朝令暮改的な文教失政を露呈するような結末を見たくないだけである。


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