聾 浩の教室 聾
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力歷選択基準

 子どもの将来の就学先を視野に入れ、住宅を新築したり、マンションを購入したりする若い夫婦が増えている。分譲であれ、賃貸であれ、売り手の方の不動産会社の張り紙にさえ、通学区域が赤書きされているほどである。

 ちょっと前なら、駅近かで車庫があり、陽あたりよく、手頃なスーパーがあれば、すぐにでも契約書作成の打ち合わせとなったはずである。ところが事態は変わった。より豊かで安全な生活環境を求めて、裕福な家庭は住居選択に際し学校選択をその主たるポイントにおいているわけである。

 たしかに青少年に悪影響を及ぼしかねない繁華街に居を構え、我が子をその空気に染めたくはなかろうし、校内暴力頻発などの噂ある学区にも、できれば引っ越したくない。孟母三遷の教えは形を変えて今でも教訓としての価値を含んでいる。

 金持ち孟母でなくとも、本来どこに住んでいても同じ水準で教育を受けられるのが公教育の精神である。教育を受ける権利である。それがいま、音を立てて崩れようとしている。同一水準であるべき学校の善し悪しは、そう簡単に判断できるものではない。しかし、各学校の善し悪しを左右する特色ある学校づくりが、どのように展開されているのか、情報公開、ネットの普及、開かれた学校と、集めようと思えばその判断を確かなものにする材料を容易に収集できるようになってきている。

 そうした学校情報獲得の整備完成と学校選択制とが相まって、経済的要因によって地域が新しく色分けされるのも遠い将来のことではない。否、もうそれは徐々に進んでいるといえる。昔の芦屋麓麓荘みたいな高級住宅地の高所得者とワタクシのような長屋住まいの低所得者とでは、選べ通わせられる学校に格段の開きが出てくる現実である。

 かてて加えて小学生の医療費を無償にしますといわれれば、誰しもそこに住みたくなる。良質な学習環境に手厚い医療保障、「子育ては品川区で」と二枚看板がキラキラ輝いているのであるから、やあ、それ、品川だ、と江戸っ子でなくても住んでみたくなる。みたくなる、ではない、住みたい、住むぞ、である。

 ある特定の地域が、熱心に住宅や教育、医療の問題をまさに「三位一体」ととらえ、人間中心、人間尊重の施策をどんどん実行していくのは、政府に対し地域の熱っぽさややる気満々な態度を見せつけ素晴らしいと思われる。従来は「政治」の侍従的立場としての「教育」であったが、ここでは立場を変え、「教育」の問題意識が「政治」に回答を求めようとしている。

 つまり教育の自立は20世紀では夢物語に過ぎなかった。それが品川のように、「区の顔」が教育長であるところにまでなってきており、その教育行政が大きく政府にも影響を与えている。

 かわいそうなのは、ズボンのオナラ、右と左に泣き別れ、であろう。品川の隣接区は品川の教育行政態度を羨望しているだろう。ひろく教育行政に腰の重いその他自治体もかわいそうである。だが、一自治体の突出を嫉妬するのではなく、キャッチアップする努力がなによりも大切である。そうした競合的努力が教育社会を地均しし、結局、均等な教育を受ける権利が保障されるとするならば、めでたしめでたしというほかない。


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