聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

力年裁判員制度

 ワタクシは、人など裁けない。裁く自信がない。全知全能の神でもないワタクシが同等の人間を裁くことなどできない。だがひょっとすれば御呼び出しがあって裁く立場に立たされるかもしれないのである。

 政府の司法制度改革が着実に進んでおり、数年以内にアメリカ的な陪審員制度が導入されるようである。日本ではこれを裁判員制度といっている。

 刑事裁判に判決を下す極めて責任の重い仕事に、国民は耐えきれるのか。古くは太政官布告に対しありがたくハハッーと頭を下げて受容し、欽定の憲法を素晴らしき哉、東洋初の憲法よといって中身を読まずに奉る。そうした歴史は、兆民など数少ない政治的イデオローグをのぞいて、国民の権利意識や法意識の低さを残念ながらあらわしており、それらの意識は大正、昭和と引き継がれ、経済成長の裏で一層希薄になり、現代に至っているのではなかろうか。

 たとえば元総理森氏の、投票に行かず家で寝ておればよい発言が記憶に新しいが、この発言を許す精神的な雰囲気が国民に存在するがゆえに、出るべくして出たといっていいであろう。逆にいえば、森氏の心に権利意識が低い日本人という愚民観があるから、ポロっと出たとみてよい。この発言に対する反発はほとんどなかった。あったとしても夏の花火と同様であった。

 河岸を代えてブレアが議会発祥の地イギリスの国民にこの言葉を発したら、あきれてイギリス国民はイスから引っくり返ってしまうにちがいない。

 どのような権利であれ、国民自らの手で権利を獲得した経験に乏しい日本人は、森氏の発言をも不問に付すお上意識が根強く残っていると反省せざるをえない。この発言が世界に報道されていたとすれば、これを耳にしたヨーロッパ人たちは、なぜに日本人はこうもなめられておとなしいのか、信じられん、と吐き捨てていることであろう。

 一人ひとりが投票を行使できる参政権の意識=基本的権利意識でさえこのように低いのに、はたして人の一生を左右する刑事裁判を担当する法意識を保てるのか。

 だが、ワタクシたちは自己の権利に関する歴史的な出生の秘密を暴いたところで、ジクジク反省こそすれ成長がない。ではどうすれば法意識や有権者意識を伸張させることができるのであろうか。

 それは教育以外にはない。しかしそのための教育も、つまり公民教育も、戦後一貫して実施されてきたはずである。それは哀しくも森発言を促す公民教育であった。義務教育段階で国民に公民教育を根付かせる努力は、今度はじまる裁判員制度のために継続強化される見込みである。

 法務省「法教育研究会」は法教育に意欲的な教員の充実を願っており、かつ法教育のための学校教材の作成に熱を入れている。是非とも今までにない有効な法教育への舵取りを期待する。それから、それとは別に、法務省には、はっきりと裁判員拒否の権利も条文化するよう願いたい。


i-topもくじ