聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

曆O先生の思い出

 同じM先生を師と仰ぐ関係から、まったくお目にかかったこともないときに、M先生を介して御著書をいただいたことがあった。O先生からである。感激と尊敬の念の入り混じったかなりセンチな文面で礼状を郵送したのは、もう一昔前である。

 当時まだ学生で、若かったワタクシの礼状を読まれたO先生は、苦笑されたに違いない。以後、親しくO先生主催のゼミに参加させていただき、様々なことを学ばせていただいた。ワタクシを含め学生たちとはじめて顔を合わされたO先生は、「この分野のことなら、あなた方とサシで議論できると思っています」とおっしゃった。とくに「サシで」のところを強調した、自信と後進を育てる気合のこもった言葉であった。最後の一人になっても牙城を守らんとする学問的世界の武人の印象である。知将である。

 こんないい回しを使える学殖や裏づけもないのに、教員になりたてホヤホヤのワタクシは、その言葉を使ってみたくて、教壇に立って足が震えなくなってきたころに、生意気にもこの言葉を使ったのだが、使ったあとそういっている自分の底の浅さが知れた。

 O先生の冷静な資料分析力と資料を手際よく構成した説得力ある論文は、批判に耐えうる一流のそれであり、関係各方面に刺激を与え、もちろんワタクシたちの導きの糸であった。その歴史的センスと閃きには、何度も目を覚まさせられた。「ここにはこれしかない」とうならせるぴったりした資料の活用の仕方は、無駄を省いた切れのある学問的論述とともに、御著書を通して確認するほかすでにない。そうした客観的な、緻密な学問的人格は、穏やかな朝焼けのようなお人柄に包まれていた。メガネの奥の目にはいつもやさしさがあふれていた。その落差ゆえに、問題の本質をついた学生に対する厳しい学問的指導と追及は、迫力があった。やさしいまなざしで学生を見つめつつ、正鵠を突いてくるのだから。そういえば、O先生の口癖のひとつに「撃つ」があった。「核心を撃つ」の「撃つ」である。

 回想を少し綴る。ある有名な政治思想史家が亡くなったとき、O先生は、「戦後はこうして終わっていくのですね」とつぶやかれた。関西を拠点に学究生活を過ごされたO先生が、東京で開催されたある学会で報告されたとき、その真ん前にいたのがその方だったそうで、その方の質問に答え切ったとき、「この世界でやっていける自信が持てた」とおっしゃったのを憶えている。

 大新聞にコラムを連載執筆されていたとき、ある思想的な事柄について批判的な文章を書かれたそうで、「それを理由に無言電話が連日かかってきたんだよ」と事も無げにおっしゃったこともある。電話の向こうにいる人間の息使いが伝わってきたというような内容のことを話して下さった。なんの拍子であったか、Yシャツの色とソックスの色に気遣うある方を例に挙げ、「そんなところは他人に不快感を与えなければどうでもよくて、私の勝負しているのは学問の場なのです」と喝破された。さらりといわれた指摘であるが、そこには、あの人懐っこい微笑があった。S堂という出版社の裏話を茶目っ気たっぷりに話して下さったこともある。

 NPO活動にも積極的であり、緻密な学問研究と同時に教育現場における実践にも乗り出し、地域の子どもたちを見守られていた。極めて幅広い活動である。やり残された仕事がもっともっとあったに違いない。すなわちそのことは、ワタクシたちがもっともっと学ばせていただけることがあったということなのである。ワタクシたちは誠実な理性を失ってしまった。断腸の思いである。
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