聾 浩の教室 聾
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曆驪食育

 純ちゃんが国会で力説している教育論のひとつに、「食育」というのがある。なかなかウマイ造語であるし、そのいいたいこともよくわかる。

 義務教育段階の子どもたちの平均身長、体重が、ともに年を追うごとに伸びているにもかかわらず、昔でいう成人病、つまり生活習慣病が蔓延しているので、そこを是正したいのであろう。発育不全の問題がかなりの程度解決したいま、学校における食の指導は新たな局面に入っている。

 純ちゃんの意図と関わっているのかどうかまでわからないけれども、栄養教諭の設置も、そうした一連の食に関する児童生徒の危機的状況から立案されたといえる。今後、栄養教諭の配置が進めば、養護教諭と連携し、立ち眩みする児童がめっきり減るようになるであろう。

 こうした改革は、古色蒼然とした学校給食法の条文を改正することにつながる一方、その条文の不易なところを強調するように変化するのではなかろうか。

 学校給食法は、「児童及び生徒の心身の健全な発達に資し、かつ、国民の食生活の改善に寄与するものであることにかんがみ、学校給食の実施に関し必要な事項を定め、もつて学校給食の普及充実を図ること」を目的としている。飽食の時代といわれて久しい現代、欠食児童が間々みられた法制定当時と状況が異り、「普及」の点では明文化するまでもなかろう。

 朝に配達される一本の牛乳を家族で奪い合った1950年代はいざしらず、学校給食では一人一本配膳されるし、確実に給食は「充実」しているといえる。

 制定当時は、朝やってきた牛乳を半分飲んで、水を加えてフタをし、薄い紫のフィルムを元あったように被せて知らん振りする子どももいたようである。いたずらっ子の生きる知恵である。

 しかし困ったことに、この「充実」について現代では、保護者が学校給食費を確信犯的に支払わず、学校給食の質的低下を余儀なくされている自治体もある。保護者が給食費を支払わないのは、経済的諸事情もさりながら、勝手に過ぎる。我が子の食らう給食なのだから、文句をいわず払うべきである。変なところで「充実」が阻まれているといえる。

 これで自治体が給食のおかず数を減らし、その結果給食を「充実」させていないと批判されるのは可哀想である。給食費保護者負担は、同じくこの学校給食法に明記されているからである。

 さて学校給食は、「日常生活における食事について、正しい理解と望ましい習慣を養うこと」というように朝昼晩の規則正しい食生活を習慣付けるよう位置付けられている。そして、「学校生活を豊かにし、明るい社交性を養うこと」と、児童が笑顔を見せながら楽しく食事を摂取できるよう指示している。また、「食生活の合理化、栄養の改善及び健康の増進を図ること」というように、栄養バランスの理解を児童に浸透させつつ、医食同源の見地から、学校給食の意義を説明する。今日のコンビニ食摂取に警鐘を鳴らしているといえよう。

 最後に、「食糧の生産、配分及び消費について、正しい理解に導くこと」と小さな教室から、日本全体さらには世界の食糧事情にまで想像を及ぼすよう期待する文言で締めくくられる。

 政治的にあまり同意するところのない純ちゃんだが、こと「食育」については同調するワタクシである。それはなにも、食い意地を張っているからではない。


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