聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

曆黎いいなぁ

 なぜ大学にいこうとしたのか。以前にもこの旁午で書いたかもしれないが、ワタクシの場合ははっきりしていた。ワタクシは、無謀にも、新聞記者になりたくて、大学を目指したのである。

 浪人時代、本を読むことが好きになって、できれば、なにか文章を書いて生きていきたい、そう思ったのが、記者志望理由であった。国語の成績を省みて、文才のないのは当時でも自覚していたから、もの書きとか、小説家とか、およそ作家といわれる職業につくことはあこがれでこそあれ現実感に乏しい妄想であった。

 しかし、新聞記者なら、長い年月がかかろうと、こっちから一所懸命文章作法を勉強し、かつ先輩から文を書く技を盗んで、なんとかやっていけるのではないかと浅はかにも希望をもっていたのである。

 だから、ちょっと古いが扇谷正造氏の著書など、むさぼるように読んだし、粕谷稀氏のものも、なにかにつけて読んでいた。扇谷氏の青森における修行時代を知って、ああこんなふうになりたいと彼の人生にあこがれたものである。そのほか、氏が学んだ「我以外皆我が師」的吉川感覚を信奉するようにもなった。

 さらには、文章そのままではないけれど、「新聞の文章を、人は年齢10プラス社会経験10数年で読みこなしている。だから、内容は別にして、小学5、6年生に理解できる文章を記者は書くべきである」というようなことを氏の著書で読み、なるほどそうしたものなのかと、愉快になったこともある。

 世相的にはプラトーの80年代終盤、正しいかどうかわからないけれど、個人が社会的な存在として希薄に過ぎると直観していたワタクシは、ことさらに、それじゃあ社会を客観的にみていきたいと意気込んでいた。なぜなら、80年代中盤以降にはじまったバブルを、そう捉えていたからである。

 社会の木鐸になりたいと、若者は時として純粋さをとりえとして奮起するものであるが、その典型のひとりの馬鹿が、ワタクシであったということである。いまでも蔵書の片隅に、最初数ページだけ読んだ羯南の全集第1卷が埃をかぶっている。

 このように、新聞記者はワタクシにとって羨望のマトである。うらやましくって仕方がない。

 ひとつ年下の後輩の女性が、誰でも知っている大新聞社に採用されたのを風に訊いたとき、心底うらやましかった。手のひらサイズのビデオをもって、優作の真似をしている歌手にして俳優が、「いいなぁ」と店頭で商品をすりすりしているシーンがあるけれど、まさにそれである。「いいなぁ」である。

 よくできる同輩も、ある新聞社に就職が決まり、それを盛大に祝った後、ワタクシは大学から汚い下宿ヘ通じる薄暗い道をトボトボ歩いた。彼らはいまもがんばっているにちがいない。違う道を歩いているワタクシはワタクシにできることだけをしよう。

 新聞社に就職するには、それ相応の知恵知識がなければ到底無理である。つまりは、そういうことなのである。


i-topもくじ