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曆力2006年問題

 教育界には、2006年問題と呼ばれている憂慮がある。これは、学力低下を懸念する大学関係者が唱えている問題である。

 平成11年度高校学習指導要領の改正によって、教育内容が削減された結果、この新課程を履修した受験生の基礎学力が大幅に落ち込み、たとえ受験を乗り越えたとしても、大学の講義についてこれない恐れがあると気が気でないのである。講義についてこれないとこぼすのは、主に理工系学部の教授たちである。大学の講義が理解できない程度なら、そんなに問題ではないが、学生の能力低下は日本の科学技術教育自体の低下を引き起こす。これが問題の仮面である。

 理工系専門家は、300km/h新幹線やバイクを開発する一方、医療技術も進んで長寿世界一を達成した。中小企業の努力もあって「世界芯記録」も達成したように、自然科学の成果を享受し、ワタクシたちは日々を快適に過ごしている。そうした生活環境を支えている根底にある理数系学問が廃れるとすれば、大問題である。

 理数系的な人的能力の低下は、国際競争力の低下に直結することから、政府なら、教育政策をまたまた見直さなければならんといい、昭和40年代に先祖返りして、「教育課程の現代化」を復活させるかもしれない。

 最近ではアメリカのクリントンドクトリン=「国家戦略としての教育」論にも確認されるが、そうした国家単位の競争に、科学が侍従するのはどうでもいい話しである。そんなことより、純粋に人類の科学的発展が耕作されないのは、その最先端にいる教授たちにあっては我慢がならないだけでなく死活問題であるし、ニュートン先生に対しても面目が立たない。

 なぜなら、自分の専門分野を引き継ぎ一層深めてくれる若者を見出せないのは、その分野の死を意味するからである。これが問題の本質である。文科省の見通しが甘いのは、年金など政府のほかの行政部門と同じであって怪しむに足りないけれども、今回の文政失策はいつもと違う。大上段に立った教育理念から提言したはずの教育課程編成のあり方に、ご本尊東京大学ですら真っ向から反対、批判しているからである。

 指導要領を超えた出題をすると学長自らいい放ったのはそういうことではないか。大上段の理念とは、いうまでもなく「いきる力」である。本来この力は、理系にこそ必要な力であったはずで、それを東大に否定されたのであるから文科省も面目丸つぶれである。では寺脇氏が悪かったのか。いわば形式陶冶こそが教育の本質であると主張した寺脇氏は文化庁に「左遷」されたけれど、彼のいい分は断じてまちがっていない。

 ただ教育内容の削減は残念ながら発想を貧困にする。「いきる力」を育む土俵が狭いため、生徒は創造力を発揮する前に停滞してしまうのではないか。また、合科的な総合学習を中心に「いきる力」を養成しようとしたところに、落し穴があったのであろう。個別の教科学習の充実の上に総合は成立すると考えるからである。とすれば「いきる力」を実現する方法論が未成立であったのに、あえて見切り発車したので、2006年問題が浮上したといえよう。


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