聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

曆歷へばりつくこと

 確かに始業式や終業式を廃止し、その時間を算数や国語に充当すれば、子どもの学力が向上するかもしれない。その時間を活用し、日々の継続的学習を怠らなければ、計算能力や国語の読み書き能力が向上するだろうからである。

 儀式的行事を止め、授業時数を20単位時間増やす計画の下、茨城県は総和町で、小学校に通年制を導入するようである。いっそのこと入学式や卒業式における国旗の掲揚や君が代を歌う時間を節約して授業時数を増加させればいい。

 2学期制というのは聞いたことがあるが、通年制ははじてである。学校生活における折り目をなくし、どっぷり学習に漬かるスパルタ的雰囲気がないでもない。そこまで授業時数にこだわるのは、基礎基本の確実な定着が、新指導要領的教育課程では達成できないと判断したからであろう。教育現場は追い詰められているといえる。

 授業時数の確保は、算数など系統的教科においては死活問題だからである。こうした各学校の独自性という名の叛乱は、政府の教育政策に一矢を報いようとする性格ではなく、これを実施しなければ、もうどうしようもないと上訴する農民連判状の提出の観すらある。

 土曜日は休みだし、総合学習はこなさなければならない。とすれば、どこを削って時間を作るか、特別活動を切るほかない。ワタクシは、じつは総和町の教育方針に賛成の立場である。子どもたちの学力が相当に落ちていると客観的、歴史的に証明されているのであるから、それを補う教育課程を実施するのは町の教育行政責任であると考えるからである。

 経済協力開発機構の統計を信じれば、日本の子どもたちの学校以外における勉強時間は調査に参加した国中で最低だし、宿題の量も最小である。これでは「分数のできない大学生」を再生産するに決まっている。

 勉強とは本来苦しいものである。粘り強く何時間も机に向かって算数の問題と格闘したい子どもたちなどホンの少数であろう。しかし、こうした机にへばりつく習慣が継続的な創造的学習を可能にし、新たに直面する課題をなんとかしてこなす原動力を形成するのである。

 そうして、へばりついている間に、なにか教科に関わる素朴な疑問や未知の発見が、子どもたちの内面で生まれるのである。体験はなにも野外にでて身体を動かすことだけではない。机を世界と思い込み、ひとつことに打ち込む地道な、しかし尊い姿勢こそが、将来の野口英世を生むのであり、企業から200億円をぶんどれる科学者を生むのである。それが「関心、意欲、態度」の「意欲」でなくてなんであろうか。

 そういうへばりつく力をもった子どもこそ、キレル子どもと対極に位置するのである。しかし、まったく息き継ぎもなしに365日間をクロールで泳ぎ切るのは相当体力を消耗する。「ゆとり」をうまく教育課程に組み込み、子どもたちの多様な「達成」を支援するよう期待する。

 その期待は、同じく総和町が導入する学習カードの設定、つまりポートフォリオ評価の導入が、従来の評価を覆す、子どもたちの本当の姿を浮き彫りにするような評価スタイルであることの期待につながっている。


i-topもくじ