聾 浩の教室 聾
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歷麗脱施設とは

 黄金細工を誇らしげに作った竹下政治下のくだらない「ふるさと創生」手法を採用せず、地に足ついた郷土活性化に燃えている改革派知事が多い。主のいないサッカースタジアムやお荷物箱物の後始末に頭を抱えている首長もいるが、「地方の時代」というよりもむしろ「知事の時代」と、標語の名称を変更してもいいであろう。

 地方財源一部独立化や道州制への地方区画再編が取り沙汰される包括的な行政改革プランを背景に、良くも悪くも改革の先鞭をつける地方の動きが加速してきた。その実施者のひとり宮城県知事浅野氏は、宮城県警とやりあった「実績」もあり、マニフェスト男北川氏が三重を降り早稲田に帰ったいま、信州ヤッシー(2006年現在、知事は交代)とともに改革派の旗頭的存在であるといえる。

 その浅野氏が、あたためていた改革案である知的障がい者入所施設の撤廃を、「アメニティーフォーラムinしが」において提言したようである。この提言は、一部、障がい者教育および障がい者施設関係者にあっては、年来の主張であったが、その反面、実際にこう提言されて、行政の行き過ぎを警戒する声もちらほらあり、様々な反響を呼んでいる。世界的な障がい者にまつわる議論は、福祉先進国スウェーデンを震源地とし、ノーマライゼーション理念の普遍化の方向に舳先を切っている。

 これに同調し、フットワークよく宮城は、脱施設を標榜して1800人余りの障がい者が「コロニー(植民地!)」ほか施設を出て地域に生活の拠点を築けるよう支援するようである。この方向性は、人間の存在を考える上で重要な示唆を与えるものであり、また社会の在り方として理想に近い。しかしまた福祉行政の充実は、ワタクシたちの強い願いでもある。

 施設を含め強い願いであるのに、是非とも削減しなければならない行政分野財を削除するのではなく、福祉行財政にヤスリをかける自治体は、慢性的な財政赤字を解消するもってこいの財として施設をみているのかもしれない。つまりこうした宮城提案を「奪施設」と捉えている批判者も存在するのである。

 理念と現実が施設を舞台に拮抗している様子である。はたして障がい者を受け容れる社会は、どのような意識的準備をしているのであろうか。グループホームについては「うしろのこくばん」で議論があったけれども、そこでは、グループホームがまだまだ問題を抱えている形態であることが書き込まれていた。

 いみじくも三木精愛園の責任者が、「まずは軽度や中度の人たちが地域に出て交流を深め、障害者への誤解を解いてから、重度の人も受け入れてもらうという段階を踏むべき」(『朝日新聞』) といっているように、しかも天理の教員のような意識の低い人間が、この責任者の言葉を証明するように、障がい者に対する「誤解」を解けるかどうか、「誤解」といわざるを得ない社会の偏見的状況を打破できるかどうかに、障がい者との完全な等生がかかっている。


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