聾 浩の教室 聾
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歷黎こころの問題

 きょう、総理大臣は、靖国神社参拝に関連して、「こころの問題だ」といった。この前の戦争で散っていった人びとに哀悼の誠を捧げ、二度と戦争の惨禍を繰り返さないよう、不戦の誓いをするために人間として靖国へお参りすることになんの問題があるのか、行こうが行くまいがそれは「こころの問題」だろう、というわけである。この意味で、「(私の考えていることが他国に理解されなくて)よくわかりませんねぇ」とぼやくようにインタヴューに対応してるのには、半分反対、半分賛成である。こうした発言をする総理の視野の端に中国が映っているのは紛れもない。

 総理大臣が靖国参拝することにアジアの諸外国から非難を浴びせられるのは、20世紀前半の歴史的経緯を知るものであるなら誰でもよくわかる話である。彼らの恨みはそう簡単に消えない。しかし一方で、一国の大将が、過去、自国のために散っていった人びとを鎮魂することに「いちゃもん」をつけるのは内政干渉だと総理に同調し擁護するグループもある。これはこれで一理ある。しかしその主張を携えて、国際政治の舞台において、弱肉強食の政治力学の理論に自国の存亡のすべてを賭けるようなことは、賢者の選択ではないだろう。現状、日本がアメリカの植民地である状態から脱出する気合もないくせに、パワーポリティクスを持ち出すのは聞いていて滑稽である。中東の貧困はアメリカに弓を引いた結果であろう。アメリカと手を切って、その貧困を受け入れる覚悟が擁護派グループにはあるのだろうか。

 戦前の高級官僚が免罪されて戦後も支配層として居残り、擁護派グループに連なっていること、さらにオーストラリアやニュージーランドが天皇の戦争責任に関して引き下がったことによる有耶無耶的決着、つまり60年前の戦争の総体的な清算を済ましていないから、森や武部の発言が「忘れた頃にやってくる」のであり、戦艦大和が映画化されるのである。

 法的な清算に関していえば、いかな松本蒸治が泣こうとも、旧憲法から新憲法に転換したのは形式的にはワタクシたちにとっては幸福だったのである。だが、国家体制転換を明示する憲法の転換が「民主主義革命」の成果であるというのはフィクションに過ぎないと思っている。「一種の革命」はありはしない。この議論は優秀な組み立てと権威ある論者によって「宣伝」されたので「信頼」されているが、どうしてもワタクシは結論的に同意できる議論ではない。ワタクシごときでは、このことに関するバシッとした結論はない。しかし納得できる議論ももう長い間、聞かないのが残念である。

 このように、思想的にも法的にも制度的にも、戦後は清算されていない。それがこの60年の道である。こうした液状化した日本の戦後思想と支配制度をアジアとりわけ中国は笑っているのではないか。

 ところで国家理性の観点からいって、自国がぎりぎりまで追い詰められればナショナルな立場をとるのが政治の常である。だがいまフレンドシップを求め、東アジア共同体構想を提示した総理にあっては、参拝を考え直す契機になりはしないか。「共同体」とは「同盟」ではなく、究極的には共同体内における倫理的な結合をめざすからこそ、この「共同体」という言葉を使ったのではないのか。

 いままさに高度経済成長期の中国がアジアの諸国に経済的優越の地位に立ち、アジアの諸国を従えるまでになってきている。アジア世界のリーダーは中国だといわんばかりの発展である。アメリカの力を借りないで、総理がアジア世界の「友好」と「経済」を「政治」的に束ねたいと思っているのならば、譲るべきは譲る姿勢も必要だろう。靖国懇談会設置とその議論の中で、将来の方向性を探るのが、いまなすべき最大の仕事だろう。総理は分離がそんなに嫌なのか。総理の一本釣り的大臣採用をみていると、このひとは審議会的なものが嫌いなようであるが、自分の信念だけですべてはうまくはいかない。なぜなら政治は調整作用にほかならないからである。

 ところで冒頭に「こころの問題だ」と示した。これも総理にあっては「使い分け」のようである。いいときだけ「こころの問題」を使用するのは慎んでもらいたい。もしも「こころの問題」つまり思想良心の自由を守護する態度を外交的に表明するのなら、内政的にも一層強く身を持って模範を垂れるべきであろう。それが政治の均衡である。そうでなければ中国の人権問題やチベット問題を云々する資格はないのである。国旗国歌法と学習指導要領をタテに教員の思想良心・信条を蹂躙する恫喝的教育行政を文部行政に依頼(容認は依頼と同意である)しておいて、自分だけ「こころの問題」というのは理に合わない。勝手な政治家の放言と見做されないよう倫理的なけじめをつけるのが筋というほかない。


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