聾 浩の教室 聾
−掠-mode版−

歷憐防衛精神

情報提供お願いします。

 往来ですれちがった美人を振りかえってもう一度見たいと思うのは人情である。ボカシのはいった写真の、ナマの原版をみたいと思うのも人情である。後ろ姿をちらりと見せられただけでは満足しないのもそうだろう。芸術表現の発表の際は、その芸術性をめぐって、人々に作品を観覧させる前にシビアな関門がまっている。その判断を「誰か」が国民を代表して行なっている。

 インターネットが国民に膾炙し利用されるようになり、多様な情報をピックアップするという受動的な使い方だけでなく、自らもつ情報を発信する利用が一般的になった。法やルールも利用価格の均一性もかなりの程度未整頓のまま、発信する自由を「表現の自由」の憲法精神のもとで行なえている今は、夢の時代と後世評価される予感がある。

 ただそれゆえに発信にかかわる防衛は、各利用者に任されざるを得ない。芸術表現でないまでも、運動会で楽しんでいる様子をインターネットを経由して見るとすれば、イキイキした子どもの顔をそのままに楽しみたくなるのは人情である。

 前にもこの旁午で書いたが、インターネットの世界は豊饒の海である。家族が安心して楽しめる浜辺もあれば、光の侵入をすら許さない深い海峡もある。反射的に身体を動かすかわいい熱帯魚もいれば、急に闇からあらわれて人を襲う獰猛な鮫もいる。顔にボカシをいれて表現するのは自己防衛だろう。「子供の安全に対する意識が高まっている。写真の悪用や、子供の顔や名前などが外部に特定されることを避けたい」(『讀賣新聞』)と大津市教育委員会はじめ多くの教委が気を揉むのも当然といえば当然である。

 開かれた学校を実現する大きなパイプのひとつが、各学校のホームページである。だが学校は悩む必要はない。40人学級ならその各40人の保護者に掲載の許可を個別にもらえばいいだけである。ある子どもはボカシ入り、ある子どもはそのまま露出。極論をいえば、そんな合成写真を公開すればいいのである。しかしそれが全面ボカシ入りの写真より、一層「異様で見苦しい」のはまちがいなく、芸術表現的には誰も評価しないホームページとなるであろう。

 しかし、学校のホームページが、芸術性でなく学校の開放性を旗印に開設しているかぎり、暗証番号を配給し学校関係者だけに閲覧を許可するのもまた自殺行為であろう。矛盾を抱えながらの学校サイトの出発は、あるべき帰港地を求めている。


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