集団討論についての覚書・2

人物重視試験のおおきな壁

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個人面接と集団討論

         ところで、質問内容や求められる人間像は全く違うものの、個人面接は、古くから、必ず、一般企業で取り入れられてきた。そして企業は、個人面接試験をする価値を、入社時の筆記試験やSPIと同等か、それ以上に認めてきた。面接官は、実際に相手の顔をみて、短時間のうちに的確にその人物の「資質・能力」を見抜いてきたのである。このような一般企業のあり方と同様、教員採用試験の場合も、「資質・能力」が見抜かれる。だがその「資質・能力」は企業の求めるそれとは違う。

 いうまでもなく教員採用試験の個人面接では、教員としての資質・能力が備わっているかどうかが判定されるのだが、その資質・能力とはどのようなものか。それは「教育職員養成審議会」が答申(平成11年12月)を出したところから明白である。それは、

@ 地球的視野に立って行動する資質能力
A 変化の時代を生きる社会人に求められる資質能力
B 教員の職務から必然的に求められる資質能力

であり、これらの項目がさらに細分化され示されている。この点を大阪に限定して分析してみる。今年度、大阪府で、1000人単位にもなる小学校希望の受験者に対し、マークシート式試験+論作文による1次選抜をやめ、マークシート式試験+受験生に一層肉迫するため「実際に相手の顔をみる」個人面接を全員に敢行したのは、こうした「資質・能力」をみること、とりわけ、生徒指導の実践的な能力(即戦力)を備えているかどうかを判断するというところに、その理由があった。論作文よりも個人面接だ、というわけである。ここには大阪府教育委員会ほか多くの教育委員会の「危機感」が漂っている。

 ではなぜ、成果をあげてきた(あげてきている)個人面接があるのに、まだその上に集団討論が課されるのか。それは、当たり前のことであるが、教員としての資質・能力をまさに「集団」の中で判断したいからである。すなわち、「この受験生を採用して、いま現場にいる先生方と一緒に協調してやっていけるかどうか、学習指導や生徒指導に関し、職員会議において柔軟で鋭い議論ができるかどうか、即戦力としてその議論を実践できるかどうか」を教育委員会は見定めたいのである。集団討論に参加する複数の受験生は、今まさに君たち自身で将来の職員会議を開いているのだという自覚をもって試験に臨まなければならない。まだ正式に採用されてはいないものの、もう自分は立派な教員のひとりであるという主役としての意識をもたなければならない。ということは、新規採用されて、職員会議に初参加するときから、教職についての識見、たとえば生徒指導の心構えとして『生徒指導の手引き』についての知識や、教育課程編成の基礎知識などをもっていなければ話にならない(『生徒指導の手引き』が実際に役に立つかどうかは別の問題)。その意味での知識をいまから準備しておかなければならない。と同時に、児童生徒にとっては、ベテランであろうと新米であろうと、先生は先生である。この点、つまり「先生から先生と認められる」だけでなく、「児童生徒から先生と認められる」という点からも、主役意識=教員としての自覚は保っておかなければならない。(追記:府ほか他の都市圏自治体は、採用人数を増やす傾向にあるのはいうまでもない。大量採用時代といわれて久しいが、それゆえに多くの受験生の合否を判断せねばならない。集団討論から集団面接への流れは、比較的実施が簡単であるとの理由から自然な変更であると思われる。Nov.26,2011)

 翻ってみれば、従来型の教育原理や教育心理の試験が選択式であり、たんに「記憶の勝負」であったのを教育委員会が反省しているのかもしれない。教員採用試験の現状を分析するにつれ、このような推測さえわれわれは立てることができるのである。もし、この推測があたっているとするならば、血の通った教職教養を受験生が身に付けているかどうか、このことを教育委員会が是非とも判断したいはずである。ここに集団討論を実施するねらいのひとつがあるといえよう。

 とすれば、一番よい集団討論とはどんなものか。合格する集団討論とはどのようなものなのだろうか。それは、一言でいうと、「目の前に座っている面接官が討論参加者の議論に刺激され、『思わず私も参加したい』と唸るような展開の討論」である。面接官は多くの場合、校長、教頭など教育管理職経験者である。豊かな教育経験と教職教養をもっている。そうした面接官の方々をこちらの土俵に引きずり込むような討論、身を乗り出させるような討論、なんとすばらしい討論ではないか。もちろんこれは理想である。しかし、いつでもこのような目標に近づくよう尽力するべきである。逆に、「せっかく観に行ったのに、しょうもない映画だった」的な討論、「なんかまずいものを食わされた」的な討論では、よい結果は期待できない。是非とも、集団として印象に残るグループであってほしいし、その中でも、いい意味で目立つ受験生であってほしい。ではその「いい意味で目立つ」とは、どういうことか。

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