集団討論についての覚書・8

人物重視試験のおおきな壁

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例題 4

        引き続いて、「部活動の指導は地域の人びとが行なうのがよいか、教師が行なうのがよいか」について考察していこう。この課題が提示されたとき、「しめた!」と思われるかもしれない。なぜなら、「そりゃ、開かれた学校なんだから、『地域の人びと』を監督やトレーナーとして導入するに決まってんだろ」と、答申の理解が進めば進むほど即断してしまうからである。ところが、敵も然るもの、そう簡単ではないのである。さてここでも、「部活動」、「地域の教育力」というキーワードや、そこから湧きでてくるアイデアを書きとめてみよう。

 この課題の答えを、直線的にイエス・ノーで、うえのように断ずることはできない。おそらく、地域から指導に来ていただいた方と教員とが両者相俟って、部活動の指導にあたるべきというところに落ち着くのではないか。だが、どうしてそこに落ちつくのか、の議論が欠かせない。そこを論点に置くべきである。たしかに、「開かれた学校」や「地域の教育力を学校教育に生かす」という考え方からは、学校現場に各種部活動専門家を招聘してもいいかもしれない。議論の前提に「野球部の監督さんは地域から来ていただく」を置いてもよいかもしれない。また、文化系の部活動にあっては、伝統的な技能保持者に来ていただくことができるとすれば、学校だけの活動ではなくなり、広く地域社会を巻き込んだ活動になるかもしれない夢や可能性が広がる。

 しかし、かれらは、専門については卓越した技量を持っているが、教育については素人である。ワタクシたちがなぜ、一生懸命、教育法規を勉強しているのか、そういうことも考えてほしい。たとえば野球の専門家は、ピッチングやバッティングの指導はうまいだろうし、そうした長所があるからこそ、学校現場に呼ばれるのだし、児童生徒に尊敬され、慕われ、信頼を勝ち取ると思われる。だが、ときには指導上の愛情表現として、手をあげてしまうことがあるかもしれない。学校教育法11条を知っていれば、体罰を躊躇するはずである。部活動において、そうした法的知識を持っている教員が側にいれば、その観点から児童生徒をケアできるのではないか。学校教育現場における「責任」を誰が負うのか、このことを考えれば、安易に地域の教育力の導入一辺倒に考えるわけにはいかない。対外試合を許可するのは誰か、児童生徒を引率するのに教員が同行すべきなのはなぜか、甲子園出場の電話連絡を受けるのはなぜ校長なのか、多様な視点から児童生徒の実際生活を想像すべきであろう。

 議論の進め方からすれば、最後に、「ではどうやって、専門家に来てもらうか」ということに触れて、討論を終えたほうがいい。現実味が出るからである。ひとつには、専門家を「募集」することが考えられる。とすると、学校新聞などの「広報」を活用することになる。ここに、「野球部を一緒に盛り上げてくれませんか」や、「茶道を教えてください!」との文言を、子どもたちの笑顔の写真とともに乗せれば、ある程度の効果はあると思う。また、市役所などの行政機関のスポーツ振興課なり、文化振興課なりに協力を仰ぐという方法もあろう。もうひとつには、「つて」を頼って来ていただくことが考えられる。とすれば、日頃から教員は地域にどのような技能を持った方がいらっしゃるのかに気を配らなければならない。

 間違わないでくれたまえ、集団討論にあっては、どういう姿勢を持っているかがみられているのである。真摯な姿勢から、「地域にどのような技能を持った方がいらっしゃるのかに気を配るべき」と発言するのは立派なことである。それを無理であると決め付けるのならば、教員など目指さないほうがいい。とっぴに感じることでもいい、情熱を持って一歩踏み込んでとり組もうとするところに、若い君たちに教育を安心して任せられると年老いた教育委員会(スイマセン)の人びとは感じるものである。 

 ねえ、君、おおきな名札をつけて、商店街を歩きたまえ。名刺を配りながら。就業体験を受け入れてくれるきっかけを作りに行こうよ。「あっ、あのひと、あそこの小学校の先生やで」と一目見てわかってくれる、そんな場面を想像してみてほしい。そこでは、安心して地域の人びとは、子どもたちをあなたに任せるであろう。

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