集団討論についての覚書・9

人物重視試験のおおきな壁

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例題 5

 今回は、「親から『子どもがゲームセンターにいくので学校で校則をつくれ』といわれたら、担任としてどう対処するか議論せよ」を考えていこう。この課題の議論すべきポイントはどこにあるだろうか。思いついたことをまずは書き出してみよう。そして、討論参加者が意見を出し合えるトピックを立ててみよう。この作業は、今までの例題においても、行ってきた基本である。ここでは、言葉の意味から推していってみよう。親と子、ゲームセンター、校則、それぞれの意味をテーマに照らして考え直してみることが、討論の筋道を敷いてくれるのではなかろうか。そして最後にまとめとしての「対処法」を提出して討論を終えるのが、一つのよいサンプルとなろう。

 このような質問がでる以上、親と子の関係はどういう関係にあるか、だいたい想像できるところである。おそらく、子どもは寂しいのであろう。かまってくれないのである。あるいは、保護者が家に帰ってくるのが、遅いのかもしれない。いずれにせよ、親子関係がうまくいっていない背景が伝わってくる設問である。休日の土日は家族関係がまったく途切れており、子どもはゲームセンターに行く、ということかもしれない。このような親子関係の改善に教員として、どうかかわればいいのであろうか。家庭環境の問題は、神経質にならねばならない点もある。「欠損家庭」の場合もあるし、そうでなくとも多様な問題を抱えている場合が多い。家庭訪問を繰り返すことで、家庭環境、親子関係の修復を求めていってもいいのではなかろうか。このテーマの最後に、「担任としてどう対処するか」とあるのは、このあたりのことをも議論に含めるべきことを示唆している。

 第二に、ゲームセンターそのものの是非が議論にのぼるかもしれない。ゲームセンターが青少年に与える影響とはなにか。ゲームセンターは、本当に悪い存在なのか。非行の温床と捉えることに問題はないのであろうか。このことを考えるにあたって、自由な立場からなら、「ここであそんでもいいじゃないか」となる。それはそうである。人間には、「他人に迷惑をかけない限り」、「公共の福祉を侵さない限り」、行動を制約されない権利がある。しかし、教員的立場からは、このようにいうことはできない。血はつながってないが、教員は児童生徒の保護者である。基本は「ゲームセンターに、いってはならないと指導する」であろう。だが、その根拠を示す必要がある。そうしないと児童生徒は納得しないものである。その理由は二次的問題の発生を食い止めるところにある。ゲームセンターにたむろすることによって、二次的に起こりうる問題は、喫煙、他校生との不良的接触、あるいは暴力団のような反社会的集団とのかかわりであろう。飲酒もここにはいる。保護、防止の観点を踏まえ、「体験的な道徳教育」を語ってもいいであろう。

 第三に、校則の問題がある。ここが議論の中心になるのは明白である。校則を語ることは、それがどこに書かれているかを思い起こさせ、生徒手帳の話が出よう。とすると、「校則を作るのは生徒か学校(先生)か」というテーマが、サブトピックとしてすぐに立つ。判例からいえば、学校が、生徒から一定の自由を奪う結果になる校則を整備しても問題ないとされている。保護の思想からである。だから、児童生徒が多数決で決めたことだからといって、そう簡単に学校側は校則を変更しなくていい。一般論的にいえば、茶髪や私服、あるいはバイクに関しても同様の議論は展開されうる。テーマの中の「ゲームセンター」という言葉の代わりに「茶髪」を代入しても集団討論のテーマになりそうである。

 はたして、「親」から校則の変更を要求されたら、どう答えればいいのか。校則を作る権利は学校にある。最終的には、ここに線引きがあるので、この「親」に対して、その要求を却下することができるし、却下しなければならない。今日、学校、家庭、地域社会において連携して子どもを教育することが、共通認識として根付こうとしている。しかし、学校は学校だからこそできることを実践していかなければ、その存在理由がなくなってしまう。学校が、社会に旅立つまでの社会訓練的な要素を生徒に与える場であるとすれば、各学校なりのルール、秩序を提示するべきであろう。そのときに家庭との連携の仕方を再考する必要があろう。

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