私の目指す教師像

TOTTIさんの投稿へのコメント

私の目指す教師像は、常に『新しい発想』を持った教師
⇒最近、ネットやメールでよく見かけるのですが、段落の最初の一文字を下げないのは流行りなのでしょうか。たとえHTML上でも一文字下げるのが当然と思っています。
でいることである。常に『新しい発想』というのはいま
までのやり方がいけないと言うではなくて、生徒に新
しい物(考え方や教科書には掲載されていない)を与
えることで、少しでも生徒に自分の進む選択肢を増やす
ことが出来る。
⇒この文章は非常に不自然です。二つの内容を無理やり一文で書こうとすると、わかりにくい文章になります。「常に『新しい発想』というのはいままでのやり方がいけないということではない。たとえば、教科書に掲載されていない考え方などを生徒に示し、生徒を刺激しようということである。そうすれば、生徒は将来の選択肢を自分の力で選びうる力をも身に付けることができるのではなかろうか」ということがいいたいのでしょうか。もしそうだとしても「新しい発想」―「新しい物を与えること」まではつながるのですが、そこから「生徒の進む選択肢」へは、なぜつながるのかわかりませんね。
自分が高校生の頃、野球部頃に監督に今では当たり
前になっているトレーニング方法など指導された記憶が
ある。当時はまだ一般化されていなかった方法を聞いた
ときの感動は今でも忘れらない。嬉しくて他の学校の友
              ⇒この文章においては、「物」と書かず、「もの」と書きましょう。もっといいのは、「新鮮なトレーニング法」でしょう。
達に話したり、先生に聞いた内容のものトレーニングを本などで詳し
く調べたりしてとにかくどうすれば自分がうまくなるか
                 ⇒「自分の技術が向上するのか考えたり」としましょうか。
を考えたり、それを実際の練習で生かしたりしたのを覚えて
いる。
これは自分の部活での体験であるが、これは授業でも活
⇒「この例は」
かせるものである。例えば体育の授業でも球技と言う
   ⇒「いかせる」は「活かせる」ですか、それとも「生かせる」ですか。上に「練習で生かしたり」との表現もありますから、少なくともどちらかに統一しましょう。一つの気遣いです。「授業でも活かせるものである」は、いいたいことはわかるのですが、舌足らずですね。
目の中にニュースポーツを取り入れたり授業の中にパソ
コンを取り入れて自分の動きは、外から客観的に見るとどのよう
な動きをしているのかと見たりする確認したりする、生徒はもっと 保健体育に
興味関心を持つようになる。自分自身をみつめることが
できれば、もっと自分で工夫していきそれが『生きる力』
に繋がっていく。
⇒「もっと」という表現はやめましょう。「さらに」とか、「一層」とかにしましょう。
『生きる力』とは『様々な困難に直面した場合常に希望
をもって立ち向かっていけるようにという力』と考える。
自分を見つめること、自分の行うことに対して工夫する
ことが後に必ず役に立つはずである。
教師として生徒のために何が出来るだろう、と常に考えることが
つになっても出来できればそれが『新しい発想』を生み出し
ていく。今のこの思いを常に持ち続けたままそれを必ず
実践する。また生徒状況を見落とさず考慮に入れながら
      ⇒この「生徒状況」という言葉はよくわかりません。「生徒の実態」あるいは「生徒の実際」としましょう。
『新しい発想』を教師、生徒がお互いに生み出すそんな
⇒ここは、「教師、生徒が『新しい発想』をお互いに生み出す」と主語を先に出しましょう。
授業を行う目指していく。
⇒結局、常に発想を転換し、生徒に魅力的な指導をする教師が「目指す教師像」ということなのでしょうか。もしそうなら、最後のまとめにそのことを強調して書き込みましょう。論作文の終わりが「授業を行う(よう)目指していく」では、落ち着きがないように思います。テーマが教師像であって、どんな授業をするかではないからです。新しいトレーニング法を教えてくださった先生にtottiさんは目を開かせられたのですから、その先生のように新鮮な発想を忘れない先生が理想像といえるでしょうね。苦言をいうと、書いた後読み返していないので、「授業を行う目指していく」というような間違った表現になるのです。ひとに読んでもらうのですから、こんな簡単なところで間違うといやになります。ちなみにここでいう「ひと」とは、ワタクシのことではなく、試験の採点官のことです。

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