私の目指す教師像

ライラックさんの投稿

 今日、何故学ぶのかという問題が浮き彫りになってい
る。多くの子は、これについて考える暇もなく大学受験
を向かえてしまう。この問題について、教育者達も、明
確な答を出せずにいる。今は、教育に自信がもてない時
代なのである。だからこそ、学ぶことは楽しいと心から
口にし、自らが学び続けることによって得た教養を惜し
むことなく次の世代へ伝えていく、そんな姿勢が私に求
められている。
 私が高校三年生の頃の古文の先生が、この点において
理想の教師であった。常に、学ぶこと、教えることは楽
しいと口にしていた。授業に至っては、教室の誰よりも
予習をし、そこから経験した楽しい発見を教えたくて仕
方がないという表情で話していた。教科書を読むだけの
授業を、どうして子どもが聞いてくれるだろうか。さら
に、職員室に質問に伺う際にも、たとえ、どんな作業を
していても、手をとめ、受け入れてくれた。そして、質
問をしてくれたことにたいして、ありがとうと話してく
れた。なぜなら自身が学ぶ最たる切掛けであったからで
ある。
 このことについて、具体的に述べておくと、下二段活
用の「給ふ」は聞き手尊敬であるのに、なぜ文法書には
客体尊敬である謙譲語に分類されているのかと質問する
と、私が納得いくように、日数を書けて、数々の資料を
提示してくれたことがある。そこには、客体尊敬である
ことより、謙りであることに重点をおいて、謙譲語に分
類していることと、学者によっては、丁寧語に分類して
いる人も居るということが書かれていた。そして、恩師
はこうおっしゃった。「私に学ぶきっかけをくれてあり
がとう」と。
 本来なら感謝すべきなのは私の方だ。私はこの言葉に
感銘を受け、教師になろうと決意した。学ぶ理由は、実
は、そんなに難しいものではない。それは、楽しいから
である。そのことは私が楽しそうであれば自然と子ども
にも伝わるだろう。だから、私は自身が学ぶことを楽し
んでいる教師を理想とする。

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