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土佐の巻
Apr.2,2002〜Apr.3,2002

自由民権の人びと


 「自由は土佐の山間より出ず」、これが自由を求めて奮闘した、土佐出身の若き自由民権政治家たちに対する敬愛の言葉です。郷土の気概も、そして誇りも感じられますね。2002年4月現在、「言論の自由」、「表現の自由」をめぐって新しい法案が国会で審議されていますが、民主主義の根底にある言論の自由を要求し政府に対抗した自由民権の精神を、ワタクシたちは引き継がなければなりませんね。この石碑が建っているところは、中央公園の名前で高知の人たちの集うところです。ところでいまから5年ほど前にも、ここに訪れたのですが、朝市がたってました。鯖寿司を買ったおぼえがあります。そのときは人がいっぱいで、この石碑に気がつきませんでした。下の立志社の石碑のほうには気がついていたのですが。そう、ここは、かの立志社があったところでした。
 これがその立志社跡を示す石碑です。明治7(1874)年創設された立志社は、初期民党・結社として自由民権運動を盛り上げた中核的存在でした。政府を去った板垣退助が、有司専制政府といえる大久保利通独裁を批判するべく創設しました。「広く会議を起こし、万機公論に決すべし」との五箇条のご誓文に設立の根拠と正統性を持っているといっていいでしょう。立志社は愛国社に発展的に吸収されたあと、国会期成同盟、自由党とその精神が引き継がれていくことになります。
五箇条のご誓文

?広く会議を興し、万機公論に決すべし
?上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし
?官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦まざらしめん事を要す
?旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし
?知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし
 我国未曾有の変革を為さんとし、朕躬を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大に斯国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆亦此趣旨に基き協心努力せよ。
 これが上の写真の石碑を拡大したものです。「政治的なこころざしを持ったものが立ち上がり、みなでつくった党」ですね。ただ、このあと愛国社と名称が変わったことからわかりますが、党の精神は「愛国」なんですね。個人の自由、政治的権利の追求もさることながら、それは国を愛する精神と表裏一体といえるでしょう。民権と国権とが分かちがたく結ばれている明治の政治的精神構造が理解されます。
高知城です。
 あれれ、ちょっとちいさいですね。板垣退助像です。高知城すぐのところにそびえたっています。もう少し大きい写真と、「例の言葉」の碑を掲げますね。
  「板垣死すとも自由は死せず」。有名な言葉ですね。
 2002年5月3日に、朝日新聞阪神支局襲撃事件が時効となりました。しかし、言論を暴力でねじ伏せようとする卑劣な行動は、時代が変わろうとも許されるものではありません。小尻記者のご冥福をお祈りいたします。また、犬飼氏の「(事件は)まだおわっていない」という言葉に賛同します。
 兆民中江篤介(1847〜1901)も、土佐生まれの政治家、思想家。東洋自由新聞の新聞記者(主筆)でもありました。寝そべって南京豆をぼりぼり食べる逸話から知れるように、飄々とした雰囲気は兆民ならではのものなのでしょう。岩波文庫『三酔人経綸問答』のカバー表紙には、哲人とお茶目さが同居したワンカットを選んでいます。
 兆民はフランスに遊学し、民権思想に触れ、天賦人権論を世に広め、純粋な人民主権を主張しました。その政治的実践は第一回の帝国議会選挙に立候補、見事当選。ところが、東洋のルソーのニックネームよろしく、明治憲法を「恩賜の憲法」と批判しつつ、「無血虫の陳列場」となで斬り、議会を後にしたのでした。思想家としての節操を貫くこととリアルな政治的行動をとることと、どちらを優先すべきか。「さっぱり、きっぱり」と前者を尊重・重視したところに、ワタクシたちの胸をうちつづける理由があると思われるのです。写真には「兆民通り」の文字が刻まれています。なぜそう命名されているのかワタクシはよくわかりません。どなたかご教示お願いします。
 この「兆民通り」の石碑は、江ノ口川沿いにありまして、そこから100mくらい歩いたところに、右のように兆民誕生地の石碑があります。地元の人もわざわざ足を運びそうにない、ひっそりとした場所にありました。1847年といえば、弘化4年です。天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、慶応、明治と幕末の年号は続きます。維新前夜に生まれた兆民の幼年から青年を過ごしたこの地には、なにかかれのような人材を生み出す力があるのでしょう。静けさがたぐいまれな思想を醗酵させたのではないかということです。
 
 植木枝盛(1857〜92)は、板垣退助の演説を聞いて感激し、自由民権運動へ身を投じたといわれています。先に述べた板垣の起こした立志社、国会期成同盟、自由党に参加し、その後は主として、憲法理論の研究と著作に打ちこみました。兆民とおなじく、はじめての選挙で帝国議会議員に当選しています。
  この植木枝盛邸跡の石碑も少しわかりにくいところにありました。それに、記念館などなく、石碑だけなので、訪れた方の中には、ある種「なーんだ」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。でも、こうして住んでいた場所に石碑を残し、顕彰しているところに、高知市民のやさしさがありますね。
 高知の自由民権政治家の史跡を訪ねて高知市内を散策したわけですが、写真は実際に歩いて撮影した順番で掲げているわけではありません。2泊目は、城西館をでて、まずこの植木枝盛を訪い、それから藩校・致道館の門をみて、高知城に登りました。そこで、上の板垣退助像を撮りました。それから、高知市内の目抜き通りを歩きました。そこで、立志社跡の写真を撮ったわけです。
 ちなみに銀行の前だったと思うのですが、武市瑞山の殉死場の石碑があり、その写真とあわせて、少し離れたところにある武市瑞山の旧邸と墓跡の写真を紹介します。

そのほか、高知の町並みを紹介するのに欠かせない数カットをアップします。
 ところで、お世話になった宿の夕食ですが、写真がないので、ここで紹介できません。しかし、さわち料理を堪能することができました。さすがに立派なものですね。
 いやー、貧乏人のワタクシとしましては、この金額、きついものがあったんですわ。端から予約して泊まるのなら、この位の値段(15000円)でも「まあいいかな」と思うのですけど、行き当たりばったりで、ユース慣れ(1泊5,000円位です)していて、安く仕上げようとたくらんでたワタクシは、悲惨でした。 

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